千代田区内のある保育園の先生たちが今日の午後、研修として園の見学にきました。見学後の質疑応答の中で、私は「相手を困らせたり物を壊したりしない限り、子どもは何をしても自由です」と説明したのですが、この「自由」について次のように補足説明をしました。
◆自由とは自立と自律ができること
自分の意思で自分の考えや行動を決定することができるとき、それを「自由がある」と言います。その自由の中身は、2つの要素からなりたります。1つは「自立」です。何かに依存して決定しているのではなく、思い描いた通りに決定できないと「自由である」とは言えません。自立の反対は「依存」です。依存状態の中での自分の意思でできることは限られています。赤ちゃんにはほとんど自由があるとは言えません。
自由の2つ目の要素は「自律」です。こちらの反対は「他律」です。大人や他の人から、「ああしなさい、こうしなさい」と指示されて何かを実行しても、それは自分が決めたことではないので「他律」になります。これも「自由がある」とは言えません。自分のことは自分で律することができて初めて自由であると言えるのです。
この2つのことを踏まえて、要領や指針の「人間関係」のねらいは「支え合って生活するために自立する」ことだと書かれています。
◆心も体も思い通りになたいという自由
身体を思い通りに動かすことができることを「運動遊び」では目的にしているのですが、それも身体の自由を獲得して欲しいからです。これと同様に、自分の内面世界を自分自身で創り上げていく「精神的自由」を獲得して欲しいと願っています。実際のところ、人は他人からあれこれと指図されることを本質的に拒みます。精神的な奴隷状態を自ら望む人はまずいないでしょう。
◆自らの志を持つ自由
さらに、ここからが面白いのですが、なぜか人は自分の所属する社会や世界をもっとよくしようとします。一生の間に何が自分の価値なのかを確かめようとするのですが、それは個人では完結しないのです。他者(社会や未来になって初めて明らかになる評価も含めて)との関係の中に自らを置いてみて、人生の目的を考えようとします。何によって貢献できるだろう、自分の人生にどんな意味があったのだろうと探るのです。人はそれを社会貢献と呼んだり、人生の志と呼んだりします。
◆乳幼児期は自由を獲得するたの基礎を培う時期
誕生から死ぬまでの一生を考えると、乳幼児期の生活と遊びは、自由を獲得するために必要な基礎を培っていることになります。選択肢は無限に用意することは不可能ですが(もともと人生も限りあるいくつかの中からの選択の連続なのですが)、何をして遊ぶか決める自由、無限にはない時間の中で順番を決める自由、何をどれくらい食べたいのか、いつまでその遊びを続けるか、あるいは選択肢の中に自分のやりたいことがないことに気づくこと、こうしたいと主張すること、意見をのべること・・・そうした営みの中で自立と協同性を育んでいます。
◆自由遊びの意味
自分のことを自分で決めるとき、他者との関係から自分の意思を相手に理解してもらう説明力が必要なことに気づいたり、相手の希望や願いに気づいて自分の欲求を我慢したりする必要があることを知ります。社会性です。そう考えると「自由遊び」はとても大切なことが含まれていることがわかります。先に自由遊びへの欲求があって、その葛藤を解決するためにコミュニケーションが不可欠であり、双方が納得できる解決策を見出すことが生まれます。
この営みは現実の社会そのものです。私たち大人が日々直面している会社の仕事や、自治体や国の意思決定にどのようにコミットしながら、それぞれの自由を尊重し合うかという民主主義の営みそのものです。精神的自由を認め合いながら、法の平等や経済的な友愛など社会的な公正を作り上げること。それが政治の役割です。ですから自由という理念が人間の基盤になければならないのだと思います。