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2020年 12月

今年を振り返るとしたら

2020/12/31

毎年、年末になると一年を振り返りながら、なぜか何かに「感謝」したい気持ちになります。また仕事から離れて、家族と一緒にいる時間がたっぷりとあるのはいいものでしょう。でも子育てをしている頃は、ある意味で何をするにも自分のことは後回しになることが多いので、親の勤めを果たすことで「いっぱい、いっぱい」だっとような気もします。常にやることがあって待ってくれない時間の連続ですからね。じっくり何かを考えるなんてこともなかなか出来ません。

一昨日、27歳になった子どもに「どうしてあの園を選んだのか?」と聞かれて「その頃は、まだお父さんの園がなかったからだよ」と答えました。でも、いろいろ考えました。私も若い頃の考えと今とはかなり違います。その園がとても研修に力を入れていたことを思い出しました。でも本人は園生活のことをほとんど覚えていないらしく、親から話して聞かされたことが園生活の記憶になっていると言います。そういうものかもしれないと思います。

しかし、本人が覚えていなくても、確実に大切な体験というものがあって、それが後々にまで影響を与えることは間違いありません。他人や社会への信頼感、自分への肯定感、自信、他者との心の交流で育つ様々な心情。センス・オブ・ワンダーを伴うような物事への興味や関心の広がりなど、乳幼児からの体験の質の違いは、育ちに影響します。

同じ観葉植物でも植木鉢を大きくすると、大きく育ちます。それに似ているかもしれません。その根っこの部分は本人が知らなくてもよくて、それに見合った幹や葉っぱや花や実になるのかもしれません。その根っこの部分というのは、人間の場合、脳や体幹など心身の基盤と言われているものになるのでしょう。そんな根っこの部分を本人が覚えていないのは当たり前でしょう。脳が自分の育ちを意識化できようになる前の育ちなのですから。

人には思い出したくても思い出せない無意識の領域というものがあって、きっと一年をどんなに具に振り返っても、思い出したくないものは意識できないようになっているのかもしれません。その方が健康にいいということもあります。また思い出せないからといって、たっぷり時間をかければ思い出せるかというと、そういうものでもありません。それは何年経っても思い出せないものは思い出せないものなのでしょう。

さらに絶対に思い出せないことがあります。それは元々、気づかれていない物事です。もともと再生される対象にすらなっていません。思い出したい「思い出」になっていないことは、無かったことと同じです。体験がないことは無と同じです。人は体験すること、つまり育つ部分を使うことで発達します。その体験がないなら育ちようがないのです。思い出すかどうかということの以前の問題なのです。

ところで今年を振り返って思い出すべきことはなんでしょう。それは未来に影響すること、これからの生活に影響することです。教訓として明記しておきたいものですが、その1つは新型コロナウイルスや気候変動が教えてくれたことです。自然と人間の関係に関するものです。私たち人間も自然であり、種として必ずDNAを残しながら個体は死にます。人間はその自然から飛び出した部分を持ってしまいました。それが理性であり自意識です。思い出もその1つです。

その理性というかロゴス(悟性)の部分が、地球上で持続可能な生存を脅かすほどに自然とのバランスを壊し尽くそうとしています。その現象の1つが埋もれた病原体を際限なく再生させたり、地球温暖化などで自然を破壊しているのです。こんな時代を地質学上の学名で「人新世」と言います。自然と理性とのバランスの回復を描いた物語は、例えば宮崎駿の「風の谷のナウシカ」です。ナウシカがやったことを、大人は真似しないといけない時代なのです。

そんな時代に突き進んでいく原動力となっているのが、経済成長を疑わない資本主義経済の暴走です。とにかく売れるものを作り出して経済を回すことを最優先させざるを得ない経済の仕組みです。これを変えるのは、とても困難なように思えますが、脱成長経済への大転換を早期に果たさないと「引き返せない地点」はもうすぐです。その地点とは、10年後、2030年ごろですから保育園を卒園する子たちが高校生になる頃です。

このことを身近な人の死を通して告発したのが今年という年でした。また脱成長経済を目指すべきだということを明確に説明してくれているのが斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(集英社新書)でした。園だより1月号でも書きましたが今年の教訓は、どうしてもこのことの「気づき」から、物事を組み立て直していくしかないように思えます。

鬼滅の刃が大ブームになった年ですが、鬼は人間が作り出す格差社会だったりします。あのアニメから、今の時代に相応しい社会のテーマを導き出すのは難しい気がします。間違っても地政学的な敵を作ってそれを鬼扱いだけはしないようにと無用な心配をしてしまいました。

 

「人新世」時代の保育とは?

2020/12/25

園だより1月号 巻頭言より

 

昨年1月の巻頭言の書き出しで「今年は東京オリンピック・パラリンピックの年として必ず歴史に残る年になります」と書いて、見事に外れました。その文章のすぐ後に「この一年でさえ、どんな年になるのかわからない」とも述べていますが、その数ヶ月後に「コロナ」でこんな一年になるとは、誰も想像していませんでした。何が起こるかわからない時代にすでになってしまっています。こんなとき、私たちは何を指針にして物事を考えるといいのでしょうか。

経済思想家の斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』(集英社新書)の中で、人間の今の経済活動のままでは地球環境を破壊してしまうと警鐘を鳴らしています。「人新世」というのは、これまで人類は大いなる自然から影響を受けて生きてきましたが、今の時代は人類が地球規模で自然を変えてしまっている時代になっているという意味です。このままではコロナ禍をはじめ気候変動や食糧危機などを招いてしまうので、なんとしても脱経済成長、脱成長コミュニズムへと転換する必要があると提唱しています。

この考え方には、何が成長なのか、何が進歩なのか、あるいは何が善きことなのかを考え直すことも含まれています。その価値転換が先にできないと、今の仕組みを回している大きなモーメントを「ずらす」ことはできないでしょう。例えば「経済の成長なくして財政再建なし」と言われれば、多くの人は「そうだよな」と思ってしまうからです。経済を成り立たせている下部構造(マルクス)の仕組みをどのように転換していくのか、その経済と暮らしを持続可能なように描き直す作業が、どうしても必要なようです。

でも、そんな大きな話と日々の暮らしをつなぐための「物語」が欲しいと思います。発想の転換という意味では、労働と余暇という区分けではなく、働くことが楽しみや喜びとなるような生活への転換、時間で測定される対価から、共感と貢献を実感できる価値社会への転換、そういった働き方や生き方への転換を考えていきたい。仕事がアートになったり、勤労が精神性の開発につながったり。あるいは生産結果の効率追求の競争から、生産プロセスの中に価値を見出せるような活動への転換です。

このことを「保育」という仕事で実践するとどうなるのか?きっと人新世の「保育論」が必要になるでしょう。その具体的な実践を面白いと思えるような一年になるといいのですが、どうでしょうか。

自分の姿を見て楽しむ子どもたち

2020/12/23

子どもが自分の姿を眺めたときに、どう感じたり何を思ったりするんだろう。今日23日(水)はそんなことを考えながら、おたのしみ上映会を運営しました。私は「お楽しみ会」というものを1997年度から毎年やってきましたから、今年で23回目になります。これまでの経験からすると、舞台の上に立って何かをやるようなことが恥ずかしかったり、億劫だったり感じている子どもは、もしそれを撮影したものがあったら、きっと見たいと思いません。年齢によっては親に見られたくもないかもしれません。ですから、そのようなことになるような劇遊びの演じ方は決してしません。その子らしく参加したい方法を作るようにします。

今回のおたのしみ上映会をご覧いただいたらお分かりの通り、そのような姿は皆無です。どの子どもも楽しそうにやっています。そして、親子で自分の姿を見ている子どもたちは、自分が出てくると身を乗り出したり、親に教えたり、歌を歌い出したり、一緒に手遊びを始めたりしていました。劇遊びをもう一度見て楽しむことができるた上映会になっていました。

また子どもも自分たちの演じたものを見る機会はこれまでありませんでしたから、「自分たちでやったものが、こんなになっていたんだ!」という体験になります。これもきっと素敵なものです。予行練習のときに、お互いの劇などを鑑賞しあうことはあったのですが、自分たちのものを自分たちで見ることはありませんでした。

コロナ対策でやむなく編み出した方法ですが、このような子どもの姿を見ると、今回の上映方式の良い面を感じます。従来のお楽しみ会は1回きりです。保護者の方も、自分の子どもは舞台の上であり、一緒に見ることはできませんでした。できるとしたらビデオで撮ったものを家で一緒に見ることしかできなかったでしょう。楽しい体験を親子で共有することは幸せなことです。

それが今回の上映方式だと、やりやすかったかもしれません。私も従来の方法だと上演されている劇や合唱などの姿の方に注意を向け続けなければなりませんから、今回のように親御さんがどのように受け止めているかを拝見する機会はあまりありませんでした。そういう意味でも新しい発見があって楽しい時間になりました。

 

楽しい劇遊び「いいものを観た!?」

2020/12/02

もし毎日、保護者の方が読むといい日記があるとしたら、それは園長の日記ではなくて「ぼくの日記」「わたしの日記」です。ぼくは今日、こんなことが面白かったなあ、わたしはあれが楽しかった、あそこでこんな事したんだよ、そうしたらびっくりしたけど、○○ちゃんがこうしたから嬉しかった・・・こんな子ども目線の記録を読むことができたら、それにマサる保育記録はないかもしれません。

でも、それを読むと、心痛むことが描かれているかもしれません。「ぼくがあの時泣いたのは、悔しかったからじゃないのに、○○ちゃんは、わかってくれない、それが辛かったんだ、でも自分が悪いのもわかっていたけど、でも悪いのはぼくだけじゃなくて、だって先に始めたのは・・・」みたいな恨み節が描かれるかもしれません。

しかし、そんな記述がされることは、まず「ない」と言っていいでしょう。子どもは基本的には振り返らないのです、子どもには未来を見つめることの方が忙しいからです。すると、自分を振り返ることがないのなら、子どもが日記を書くなんてことは、そもそも期待できないことかもしれません。そういえば、昔は小学校で夏休みの日記なる宿題があり、毎日、それを書くのは苦痛だったことを思い出します。

もし、子どもが日記を書くことがあるとしたら、文学的素質に長けた子どもか、それとも未来が閉ざされているアンネ状態になっている時であり、それは発達の課題として深刻です。というわけで、とりあえず、子どもが書く理想の日記なるものはあり得ないという結論にしておきましょう。

それでも大人は子どもに1日を振り返えさせることがあります。その時、子どもはそのときに印象に残っていることを口にするものなのですが、今日はそれとはちょっと異なる発言を目撃しました。わいわいのKHちゃんが、他のクラスの劇遊びを見ることができて「嬉しかった」としみじみいうのです。それを私のそばで聞いたH先生によるとそれは「楽しかった、という意味だった」と翻訳してくれました。

今日12月2日に何があったのかというと、幼児はお楽しみ会で行う劇遊びをクラスごとに通しでやってみたのです。最初がわいわい組の「大きなかぶ」、その次がすいすい組の「エルマーの冒険」そして3番目にらんらん組の「ももたろう 」です。わいわい組の彼女は、その後のお兄さん、お姉さんたちの劇に心打たれたようです。少し大げさにいうと、今日は子どもたちは、観劇会を観たのと同じ経験をしたのです。劇遊びなるものの楽しさを味わうことができたとしたら、その経験は、きっと家族の人に話したくなるはずです。

「子どもは未来である」という言い方を私はよくするのですが、それは子どもの本質が未来に咲く花にとっての種のような状態だからであり、それとは反対に大人は、咲き終わった花であり、その種子や次世代へ命のバトンを渡すことに役割が移っていくので、どうしても過去を振り返るのでしょう。場合によっては前世まで振り返る大人もいますが、子どもにそのような関心や眼差しが生まれるはすがありません。

願わくば、私たち大人は、子どもが今日心動かされたことに共感できるといいのです。お楽しみ会の見方はそこに大きなポイントがあります。大人のために出来栄えのいい劇を演じることが目的ではありません。子どもにとって「楽しかったよ」「ほら、ここが楽しいんだよ、そこを観てね」というところに注目してあげましょう。どの子も、それをやることが楽しそうでしたよ。

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