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2021年 1月

おおらかに、ゆったりと

2021/01/31

千代田区長選挙があった今日31日で1月も終わり明日から2月です。保育はじめから4週間、緊急事態宣言発令から3週間が経ちました。3週目はにこにこの個人面談、4週目はぐんぐんの個人面談でしたが、1人ずつのお子さんの育ちを家庭と保育園でしっかり支えていきましょう。明日からは、ちっちの個人面談があります。

4月の卒園及び進級まであと2ヶ月。就学への準備や進級に向けた移行保育が本格化してきました。子どもたちにとって、就学や進級に期待が膨らみ、「やはく来ないかなあ」と、待ち遠しく思えたり、意欲的に向かっていけるようにしてあげたいと思っています。「こうできないと何々になってしまう」といった雰囲気にならないように、心配事が先立ってしまわないように配慮していこうと思っています。写真はちっちぐんぐんの移行保育、2階で運動遊びをしているところです。

継続書類の提出は、すみましたか。もし忘れていたという方がいらっしゃったら、事務所に提出してください。千代田区の回収が8日になりましたので今週まで受付可能です。4月新入園児の内定も8日の予定です。2月から年度末に向けての仕事と、新年度開始に向けての準備が同時並行で進んでいきます。忙しい年度末が始まりますが、子どもたちにとってはいつものようにおおらかに、ゆったりと、笑顔の絶えない楽しい毎日を過ごしていけるようにしていきたいと思います。

藤森先生の研修

2021/01/30

今日はズームによる研修がありました。講師は藤森平司統括園長。参加者は全国のギビングツリー(GT)加盟園の先生たち約120人です。テーマはコロナ時代のおける保育です。保育園は家庭に代わって預かる役割だけではなく、これからの時代に必要な教育の役割について考えました。以下は要約です。

コロナの影響で明らかになったのは2つあります。まず1つ目は子どもへの影響です。子ども同士の関わりがなくなることによる悪影響です。子供の育ちにとって集団の場は不可欠であることが明確になりました。保育園は社会的スキルの基礎を培うために必須の場所なのです。

もう一つの影響は、時代の危機が早まったと言うことです。何が起きるか予測できない時代の中で、人は力を合わせて協力したり、それぞれに得意な事を発揮し合って生きていくための力が求められます。どんな状況になっても、それに応じて判断して行動できる力を育てる教育が不可欠であることがはっきりしてきました。

そのための乳幼児教育のおいて、子どもが何を身に付けるかと言うと、新たな価値を見出していく力です。これまでの保育はアートに落とし込みすぎていて、もっと科学的な視点を増やしたい。だからSTEM保育が必要です。例えば積み木遊びにしても、どうやったら倒れないかを考えたり、どの公園に散歩する話し合うなら、どういうルートを歩くかの見通しを述べ合ったり。それがプログラミング教育になります。科学的な視点の重視は物事の因果関係を考える力を育むことにもなります。

子ども同士の関わりから育つものを重視し始めたのはシンガポールや中国です。見守る保育を導入するようになってきています。特に国の人口問題から一人っ子政策を取った中国は、その見直しの中で乳幼児からの子ども同士の関わりの大切さに気づいたのと事でした。

またリモート保育のメリットデメリット、教科書のデジタル化などメディアのあり方などの話もありました。その後、乳幼児のとっての大人のマスク、保育園への共感的支援など参加者からの質問に答える質疑応答も行われました。

1月の誕生会:自分と他者、世界をつなぐコミニュケーション

2021/01/29

今日は1月の誕生会がありました。今月は4人のお友達が誕生日を迎えました。それぞれ1年の成長をお祝いしましたが、コロナ感染対策のためにみんなで集まる事は止め、クラスごとにお祝いをしました。

子どもの頃の1年は、とても大きな変化ですが、大人になると一年の違いがわからなくなってしまいます。それに引き換え乳幼児の1年はとても大きな意味があります。例えば2歳になった子にとっての1年は2倍の変化ですし、3歳になった子にとっての1年は3分の1の変化、4歳になった子にとっては4分の1の変化になります。現在の自分が一年の間に相当大きく変わっているのですから、大きな成長ですよね。

その変化の中で人間らしいものは、自分と世界とのコミュニケーションの力にあると思います。自分と他者との違いは、いろいろな二者関係を積み重ねることによって気づいていきます。そのプロセスについては、ちっちのブログをご覧ください。幼児になってくると、自分と異なる世界の暮らしや文化にも興味を持っていきます。

今日の幼児クラスの誕生会では、エジプトのピラミッドやカイロの街並み、食事の様子などを坪井先生が写真で紹介しました。実際に先生が旅した話なので、ぐっと身近なものとして子どもたちは見入っていました。

これからの時代、異文化に接する機会はもっと増えます。自分と人とは違うこと、自分たちの住んでいる所と他のところは違うこと、日本と外国とは違うこと、その違いを理解しあうことが共生していく世界を一緒に作っていくためにも必要な出発点なのでしょう。

乳児から幼児まで、広がっていく世界のためのコミニケーションについて考える一日になりました。

続・「人新世」時代の保育とは

2021/01/28

(園だより2月号 巻頭言より)

先月1月号の巻頭言で述べた「人新世」(アントロポセン)の保育について、具体的にその姿を想像してみたいと思います。持続可能な社会実現のためのポイントは、地球規模の自然資源と人類の生産活動との関係の中に、共有資産(コモン)を作り出すことです。保育園からそのことを考えてみましょう。

◆食材の地産地消とエシカル消費へ

給食の食材は玄関に「本日の食材産地」を蒲鉾板で掲示しているように、日本各地からやってきていることがわかります。江戸時代に航路を使った物流が発達しましたが、基本方針は地産地消に改変することです。都市とその周辺が食糧生産の社会資本ネットワークを再構築できるかどうか。ファーストフードからエシカル消費の食卓へ。身近な小規模産地を効率よく共有することにIT技術が活用できるかもしれません。鳥インフルエンザ予防のための鶏大量処分はあまりに痛ましい。こうなってしまう経済流通の仕組みを変えたいものです。本当の安全で健康的で持続可能な食の営みを取り戻したい。

◆エネルギーの地域管理への道

エネルギーはどうでしょうか。遠くで大規模に発電して延々と送電することを減らし、地域発電の割合を高めたい。保育園はささやかながら太陽光発電のパネルが園舎の壁面についています。戦艦大和を造船した呉で再開した船の第一号はタンカーでしたが、中東の化石燃料に依存するエネルギー体質を大転換したい。それを地域の社会資源を新しい形のアソシエーション(組織)で管理したい。町会のような組織を大胆に行政がバックアップできないだろうか。

◆保育園の絵本も遊具も共有資産

岩本町三丁目は既製服問屋街発祥の地。衣服はすでにリサイクルが普通になってきました。園がよくやるバザーのように岩本町・東神田バザールが展開できないか。そういえばコモンの代表格は公立図書館。保育園の絵本も遊具もコモンです。千代田せいが文庫が子どもの文化の共有財産だというのはわかりやすいですね。しかも読み聞かせボランティアの福田さんの寄付も含まれています。

◆子育ても地域の基盤財産

実は、そもそも子育ても人類は村単位でやっていた共有コモンでした。社会福祉法人は収益事業ができません。千代田せいが保育園は全額税金で運営しているので子育ての共有資産です。株式会社は株主への配当があります。そこをどう考えるのか。そして子ども自体が未来の共有財産だと私は思うので、望ましい保育ノウハウは共有するべきでしょう。保育士も学校の教員も医師や看護師と同じように使用価値を生産するエッセンシャルワーカーですからコモンであり、国家資格があります。水や空気や住宅と同じようにコミュニティが共同管理できるといいですね。

◆競い合わせない学力(環境にマッチした生き方)

そしてどうしてもそうなってほしいことがもう1つ。それは子どもの学力評価です。個人の資質・能力を測定することは、産業革命以降に効率の高い労働者を採用するときに始まったのが起源です。人的な富を個人に還元して分断させず、それぞれが所属する複層的なコミュニティの中で個性を発揮しあえばいいのです。せめてブランドで競う大学入試の選抜評価をやめ、働きながら学び続けることができる本当の生涯学習社会のインフラを作り出しましょう。

見晴らしのいい場所を探して(保育プランのために)

2021/01/27

◆保育を見渡せる場所とは

いい保育をするために、どれだけ見晴らしのいい場所に行けばいいんだろう。全体を俯瞰するということは大事なことです。それはわかっていたのですが、どこにもっと見晴らしのいい場所があるのか迷っていたところがありました。コロナがもたらしたものは、ろくなものはないのですが、あえて逆にプラス志向で考えれば、視界が悪くなった分だけ、世の中のステイクホルダーの人たちが、世界全体をもっとよく見ようとするようになったような気がします。まるで、曲がりくねった夜の山道をヘッドライトもつけずにスピードを上げていた車が、やっとヘッドライトをつけないと危ないと思い直したかのようです。

コロナは危機を露わにしたという言い方がよくされていますが、すでに進行していた危機をやり過ごしてきたツケが、こんな形で人類に露わになって見えてきたのでしょう。でも多くの人が思っている危機よりも、かなり深刻な危機なのですが、それは見晴らしのいい場所へ行かないと見通せません。

◆アントロポセンから見える保育

その危機の全体像を把握するために、今最も見晴らしのいい場所は「人新世」(アントロポセン)に関する論点を理解することです。いろいろなガイダンスがありますが、ある日本の知の巨人によるとクリストフ・ポヌイユ&ジャン=バティスト・フレソズによる大部『人新世とは何か』(青土社)がベストのようです。まだ読んでいませんが、その内容を詳しく解説したものを見ると、子どもたちの将来の世界で何が待ち受けているかを知ることができそうです。

明日配布する園だより2月号の巻頭言で、1月号に続き「人新世」時代の保育をスケッチしました。今年は折につけ、このかなり巨視的な視野で保育を語ることが増えると思います。保育実践はかすかな変化となって現れるものでしかないかもしれませんが、ワニの口のように、小さな角度であっても時間が経てば大きな開きになってしまうものですから、その僅かな差は侮れないものです。

地球環境の変化はじわじわと迫ってくるものなので、子どもたちに模倣されても恥ずかしくない行動を選んでいこうと思います。探求したいのは、自然の一部である子どもが持ってうまれた資質に対して、これからの社会で求められる資質・能力を身につけるプロセス、つまり保育の過程に変更が必要となるかどうかです。

人間が地質学的な規模で地球に変化を加えているその力の源泉は、生物としての人間というよりも、それが編み出した技術や生活様式、つまり文明の力ですから、その質の転換が目指すものになります。共有の社会資源を新しい自治組織(アソシエーション)が管理するコミュニティを育てたい。非営利団体、たとえば町会や生協の活動に近いものに、どうしても千代田区が絡んでもらう必要があり、そこには区長の元に次世代の戦略室が機能するといいのでしょう。そんな地域活動プランを話し合う中で千代田区の保育の形が見えてくると楽しいのですが。

 

本当は何をしたいんだろう?

2021/01/26

 

昨日の日記の続きですが、私が「小説が無性に読みたい!」と思っている<自分の本音>との出会い方は、子どもたちが<夢を持つこと>と同じところがあります。本当は何をしたいんだろう?という問いは、自分にも他者にも向けることが大切だからです。自分に向ければ、私が唱えている幸せの第一条件と重なるものになり、子どもに向ければ、保育のプロセスの起点(スタート地点)に立つことになるからです。

◆「本当は何をしたいんだろう?」

この問いを自分にちゃんと向けるために私は瞑想することが好きです。自分に向かってくる様々な刺激、情報に振り回されないように、自分に自分で作用させることができるようになっていくからです。昼間の起きている時に受け取った刺激に、自分がどのように反応したか。その自分の中で起きている心の中の経緯を観照するのです。そうすると自分の人格特性が見えてきます。大抵、人間は周りのことに振り回されて生きています。それは自分が選んでいると思っていながら、実は周りの情報(たとえばコマーシャルや流行やブランド)に騙されていたり、唆されていたりします。それを自覚していればまだいいのですが、その自覚がないままに生きていくのは「不自由」な状態だと言えるでしょう。

自分がどんな欲求を抱えていて、それによって自分がどのように振り回されているがわかってくると、大抵は恥ずかしい自分が見えてくるので、それを克服したいと思うようになります。そこに自発的な自由意志が芽生えるといっていいでしょう。その時から人は本当の意味で自由に生き始めると言っていいでしょう。

これは精神を自由に保つためにとても大切な認知スキルだと思っています。誰が言ったのか忘れましたが、高校生の時に座右の銘にしていたフレーズが「感情は認識の窓である」というものです。「もっと落ち着かんば、そげんイライラしとったらいかんばい」とか「あわてんでよかけん。ゆっくりせんね」などという言葉が好きでした(長崎弁です、すみません)。情緒の安定というのは、欲求が満たされると生じる心の状態ですが、欲求には自由意志というものも含まれるのです。生理的な欲求を満たしても、愛や承認や達成感や絆など社会的な欲求が満たされないと心は落ち着きません。その社会的な欲求、つまり人間関係の欲求の中でも自由の欲求は気付きにくく、曖昧な対人関係の間に生きる日本人には、〈精神の自由〉をイメージするのは難しいようです。

のちに、高橋巌さんが行っていた勉強会でルドフル・シュタイナーの思想と出会い「いかにして超感覚的認識を獲得するか」が20代前半からの私のバイブルになりました。思考と感情と意志を自分に正当に自分に作用させることの重要性を学びました。心に静かで深い湖をたたえた人間になりたいと思うようになっていったのです。

◆「自分は、本当は何をしたいんだろう?」

そして、その問いに対する回答が納得できるものであれば、よく理解できるものであれば、心に大きな共感を呼び起こします。自分の心にあるものに気づき、そうか!そうだったんだ!と分かれば嬉しいものです。これを保育用語で説明するなら、認知的な営みが、同時に喜びや意欲を掻き立てる非認知的な情動をもたらすからです。認知も非認知も本当は常にセットなんですよね。それなのに我慢強さや最後までやりぬく意欲などの非認知的なものだけを切り離して大切にしましょうという保育論が、まことしやかに流布されるのは困ったものです。もし我慢強さや粘り強さが育つとしたら、何かをやりたいという強い意欲に先立つ認識(知ることやわかること)があったはずなのです。それは、その対象への心配りやケアリングも起きていて、その結果として、それが面白い!や楽しい!の心情となっていったはずなのです。将棋を楽しんでいる子どもたちを見ていると、その世界のルールや方法をよく理解できればできるほど、楽しいと思えるようになっていっています。

そこでやっと子ども理解の方の話になります。

◆「子どもは、本当は何をしたいんだろう?」

常にこの視線を持って子どもと関わっていたいものです。こう見えるけど、本当は? 一見ああしているみたいだけど、本当は? この眼差しを忘れないようによーく見てあげよう、それが保育の第一歩。そのために、文化的な実践の窓を美しく用意してあげたい。あ、面白そう!と興味を持って接近していけるように。色々なゾーンを用意して、環境を用意して、色々な人が関わって、そして目に見えない歌や遊び方や生活の方法やアート的なセンスと出逢わせてあげたい。園の中だけではなく、地域にも世界にも視野を広げながら。

その世界との相互作用によって引き出される子ども一人ひとりの個性の中に、「ああ、こんなことをやりたかったのかもしれないね」が見えてくるものです。本人だって、何をやりたいのかなんて、まだわからないからです。何やりたい?「楽しいこと!」これが子どもなのでしょう。そのうち「夢」が豊かなものに成長していくことでしょう。

無性に小説が読みたい!

2021/01/25

今日はすいすいの子どもたちが漢字で「夢」という字を書きました(上の写真)。夢は昼に見る夢と夜に見る夢がありますが、子どもはどちらの夢も見ているのではないかと感じます。昼に見る夢というと、大人は希望としての夢を想像するでしょう。キング牧師の「アイ・ハヴ・アドリーム・・」の夢です。

でも、その夢ではなくて、私は子どもは昼間にも夢の中で生きているのだと思っています。それがどんな感じなのかを想像してみるために、大人の私は自分の無意識にまで降りていく必要があります。大人は自分が何を抱え込んでいるかも、忘れていますからね。というよりも、抱え込んでいることを忘れて生きられるのが大人ってことかもしれません。

ちょっと前の映画に「海の上のピアニスト」という名作があって、昼間に夢を見ることをやめない主人公のお話に、涙が止まりませんでした。そうやって、普段は隠れていて意識していないものが、自分の情動の成り行きに委ねておくと、無意識の底から自然と立ち上がってくる意識というものに出会うことができます。嘘だと思うなら、寝る前に色々思い浮かべることをイメージして見てください。子どもは昼間もそうやって生きているんですから。

こんな話は「園長の日記」というよりも、極めて個人的日記になってしまうのですが、それでも、かなり多くのことが仕事と関係のあるモチーフが含まれていることに自分ながら呆れてしまいます。リラックスして意識を解放しておくと、まずは気になっていることの輪郭がはっきりとしてきます。「こんなことが気になっていたのか」ということに気づくことができます。ある社会福祉法人から依頼されている講演会や本の書評、春からの講義のシラバンスづくりをどうするか。その中にケアリングについての自分の仮説があって、それを言葉にしようとしている自分が見えてきます。いただいた論文の感想に書こうと思っているケアリングのイメージが広がってきました。でもそれを言葉にしようとすると、湧き上がってきていたものが止まってしまうので、言葉にするのはやめて、またボーッと瞑想に戻ります。

頭の中であれこれと浮かんでくるイメージはシャボン玉のように消えていってしまうので、そのイメージを残しておきたくて、頭にセットしておけば後で絵巻物のような記録が自動的に残るといいのになあ、といつも思います。今読んでいる小説の成り行きが気になってしまうと、瞑想は中断になってしまいます。改めてまたこの意識状態に戻れるコンディションはいつになることか。そしてこんな風に、シャボン玉が出てきては弾けて消えていくのです。疲れていたら、大抵は寝てしまいますが。実際に昨日24日(日)は寝てしまって、「園長の日記」は日付を跨いでしまいました。次は昨日と今日の瞑想の中に現れてくる私の夢の一部です。

・・千住博が描いた高野山金剛峯寺大主殿の襖絵の完成プロセスにも彼と作品(空海)との間にあるケアリング関係があるんじゃないか。・・・あのアートの営みにこそ、人間の営みの根幹がある・・・そう、その彼方への想像の翼こそ夢にふさわしい・・・それは澁澤龍彦が病床で書いた最後の小説「高丘親王航海記」の天竺とも重なっていく。・・・世阿弥が「融」を創作した時に見出した伊勢物語の第81段。在原業平が翁の面を被って「塩釜にいつか来にけむ 朝凪に釣りする舟はここに寄らなん」と詠んだ心情は、髙樹のぶ子の解釈と同じなんだろうか? ・・・じゃあ山折が書いていた神と翁の関係はどうなのか? ・・・それにしても伊勢物語は誰が書いたんだろう。高丘親王の父親は、業平の祖父にあたる平城帝・・紫式部の光源氏は源融をモデルだけど、ケアリングだらけの日本文学なのに誰も言及しないのはどうしてだろう?・・・

このように書くと、あたかも何か連想している流れがあるかのように見えますが、順番は全くごちゃ混ぜに現れては消え、また現れて、という泡ぶくのようなイメージのシャボン玉です。この通りではなくて、あっちいったり、こっちいったりの出鱈目です。ケアリングのテーマが多いのは、大学の先生からケアリングの論文をいただいてその感想を考えていたからです。それでも不思議なのは、何かを思い出すこと事態がすでにイメージの再現ですから、子どもの模倣と全く同じことを無意識はいつも行っていて、それが脳の中で起きていると思うと摩訶不思議な気がしてきます。

こんな欲求が現れてくるのは、きっと世の中の言葉が病んでいて、取り繕う言葉ばかりが張り付いているからでしょう。正しいことかどうかばかりを競い合う言葉が、抑圧されてしまう弱い意識への優しさに欠けるので、文学を引き寄せたくなるんだと思います。ああ、無性に小説が読みたい!(子どもなら「ああ、早く遊びたい!」です)

 

今週も無事に終わり・・

2021/01/23

4月からの進級に向けて、1つ上のクラスに移動して過ごすことが増えてきました。それもあってか、2歳のにこにこの子が「わいわいさんになる」ことを楽しみにしていたり、5歳のすいすいの子が「ひらなが」を書くことにとても興味を持って取り組んでいたりします。18日(月)には布川先生が、ひらがなの一文字ずつを丁寧に綺麗に書くということを子どもに体験してもらっていました。

今週の保育エピソードの中にこんなこともありました。昨日22日の朝、3階の幼児のフロアに顔を出しても、誰も「クライミングゾーン開けて」と言いません。これは初めての経験でした。新聞紙から「の」の字を探していたり、新しいレゴブロックで何か作っていたりして、それぞれの遊びに熱中していました。珍しい、こんな日もあるんだなあ、と思ったものです。朝の運動欲求もだいぶ落ち着いてきたのかもしれません。これも育ちの姿の1つです。

土曜日23日の夜、今週も無事に終わりそうです。無症状でも感染しているかもなどと言われると、微熱がでたり、咳が出たり、喉が痛かったりしても、それもコロナかもしれないと不安になってしまう方もいらっしゃるのではないでしょうか。〜かもしれないという不安は、正しく恐れることを難しくするものですね。明かに症状がある場合はかかりつけの医師に相談してください。症状がない時はやるべきことを続けていくしかありません。気を揉みすぎても良くないので、できるだけコロナのことは忘れて、楽しい時間を過ごしましょう。

マルクスと保育の交差点

2021/01/22

午後のおやつの時間に「園長先生!」と後ろから声をかけられました。調乳室から事務室へ戻ろうとした時です。<ん?誰だっけ?>と、ちょっとびっくりしました。<ここは、ちっち(0歳児)とぐんぐん(1歳児)なんだけどなぁ、こんなにはっきりと、「 エンチョウセンセイ!」と言えるのは、<あ、そうか、お手伝いに誰か来ていたのか>と思いながら振り返ると、そこにいたのは、ぐんぐんのYちゃんではありませんか。「え?今、園長先生って言ったの、Yちゃん?こんなにはっきりと言われたのは初めてだなあ」と応えました。こんな時、子どもの成長を感じます。すごいなあ、と思いました。

そしてこんなことに気付かされます。これが人間の最も基本的な挨拶というものなんだろう。園長先生と声をかけたくなった気持ちがあったから名前をよぶ。それがまっすくぐに伝わってきます。別に声をかけて、何か特別に伝えたかったことがあるわけではなく(あったかもしれませんが)、名前を呼び合うということの中に、通わせたい気持ちがあるのは間違いないのです。この感触をお伝えするのに、わかりやすい話はないかなあと考えると、そう、あれです。好きになったもの同士が、相手と自分の名前の呼び方を共有し合いたいという気持ちになる、あれです。

「なんて呼んでほしい?」「・・・◯○ちゃん」

「わかった。◯◯ちゃん・・・」「・・・・❤️」

いえ、別にこんな話まで持ち出さなくてもいいのですが、気持ちを通わせるということの原型があるという話をしたくなったのです。もっというなら、名前も言葉もいらないかもしれません。目と目だけでも、気持ちを通わせることができます。一緒にいるだけでいい、ということが人間の欲求の根底にはあるでしょう。そういうものの育ちの姿を微笑ましく感じる瞬間というものが、私を呼んだYちゃんの声には感じられた、という話です。この気持ちの流れ合いを家族の中にもちづづけてもらいたい。ちゃんと挨拶ができる、ちゃんと何かができるという以前の、もっと大切な気持ちの息遣いを感じ合うアンテナを育てましょう。

午前中には、Kくんと一緒にいる時間がかなりありました。彼が大好きなYくんと気持ちの行き違いが生じて、辛い気持ちになり、彼の話をずっと聞いてあげていました。彼がいうには「Yくんに、あそこで2回、きらいって言われたの」と涙をこぼします。「それが嫌だったんだね」「うん」。そして同じフレーズを繰り返します。Yくんは「(Kくんが)怒ったのが嫌いだった」のですが、Kくんにとっては「きらい」と言われたこと自体がショックだったようで、ここに気持ちのすれ違いが生まれていました。いわれたKくんには、その違いが届いておらず心が傷つてしまいました。担任にそれを伝えると「ガラスのハートだから」と同情していました。どっちが悪いとか、こうすればよかった、とかいう話でもありません。人間である限り、このような行き違いやすれ違いをなくすことは不可能です。それがないように、繊細な神経を張り巡らして生きていくことも無理です。またもっと図太い神経を持つようにと願うのも違うような気がします。

私は切ない思いを感じた彼の気持ちがどのように育っていくのか、どんな歩みを見せてくれるのか、それをそっと待ちたいと思います。上手に折り合いをつけるだとか、挫けずに強くなれだとか、もっと優しく言おうだとか、いろんな「よかれ」を思いつき、言葉にしてしまうものでもあります。それもまた仕方がないことも分かります。しかし、です。この気持ちそのものを、もっとジックリと、しっかりと見つめてあげましょう。すぐに行動を促すのではなくて、その感情と認識の近さとか、鼓動の音とか、涙が溢れる瞬間と言葉の関係とか、そこにとても豊かな心情が息づいていることの素晴らしさを、もっと認めてあげたいものです。保育とマルクスの交差点もここにあるはずなのです。

成長展のお知らせを配布しました

2021/01/21

新型コロナウイルスの感染者数がピークを超えたと報道された今日21日(木)、来月の「成長展」2月15日から10日間開催の案内を配布させてもらいました。このホームページの「お知らせ」(パスワード必要)にも載せました。緊急事態宣言が発出されて今日でちょうど2週間、先週に比べて85%の感染者数に減少しました。減少し始めたとはいえ、このペースでは終息は春になります。1週間かけて15%しか減少しないと、一日の感染者数が500人になるのは3月にずれ込むからです。今日の成長展のお知らせにも書き添えましたが、感染状況によっては開催時期がずれ込むかもしれません。

成長展という行事は、この1年間の子どもの成長を、いろいろな側面からお伝えしようというものです。小学校の行事で例えると、名称は色々ありますが生活発表会とか学習発表会などと呼ばれるものに近いでしょうか。劇や合唱・合奏などもあれば作品展などの場合もあります。当園の場合はお楽しみ会とセットで考えてもらってもいいかもしれません。ただ異なるのは、保育園の場合は子どもの作品を通じて身につけたものを伝えようとしても、乳児など小さい子どもが「作品」と呼べるようなものを想定することは難しいのです。

そこで子どもが作ったものを作品と捉えるのではなく、子どもの育ちそのものが作品になるようにできないか、と考えました。そこで育ちの変化を定点観測することで、その変化が成長になるのではないか、そのために定期的に同じことをやってその変化を見てもらうことにしました。例えば言葉なら、自動車の絵を見て「ブッブー」から「くるま」に変わるかもしれません。表現ならりんごの「ぬりえ」の色や塗り込み具合に変化が見られるかもしれません。これを健康、人間関係、環境、言葉、表現の教育の五領域すべてでご覧いただく予定です。

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