小学校や幼稚園は「春休み」になります。保育園には、春休みはなく毎日楽しい日々が続きます。生活に「休業」がないように、保育園には年末年始を除き「休業」はありません。でも、大人の休業によって子どもが登園や登校をしないで家で過ごすということは同じなので、親のお仕事がお休みにならない限り、保育園の生活は続くわけです。大人の過ごし方が先に決まっていて、その後で子どもの生活する場所が決まってくる、という順番になっています。でも、本当にそれでいいのでしょうか?
乳児の頃から子どもには子ども同士の関係が必要なのではないかと思います。親が働いていなくても乳児の頃から集団の中で過ごす時間があることを保証すること。つまり0号認定制度の創設です。(わかりやすくいうと、1号は3歳以上の幼稚園児、2号は3歳以上の保育園児、3号は3歳未満の保育園児です。0号というのは、まだなくて、3歳未満の幼稚園児です。つまり「専業主婦」でも0歳の時から園で過ごせる制度です)
昨春のコロナ禍では、保育園の休園によって、大人も子どもの大きな影響を受けました。子どもも大人も、本来の「居場所」とは、どんなところなのか、どんな親子関係がなりたつ空間でなければならないのか、そんなことを、「そもそも」から考え直したのが、この1年だったような気がします。
保育園にいると、その生活が当たり前のように過ぎていくのですが、この核家族ではない、もう一つのホームがおうちの外のあることは、家族にとっても、子どもにとっても、過ごしやすい居場所になっていると思います。移行保育や卒園に向けた悲喜交々(ひきこもごも)が、そこかしこで起きるこの時期、その舞台は子ども同士の関係が繰り広げられる園生活になります。
「子ども同士」「子ども集団」があるのは、園生活でしかないからです。この事実は、ものすごく大きな事実です。家庭のビリングの延長に、預け先として、保育園という、もう少し広い場所があるようにしか見えるかもしれませんが、子どもの居場所としては、家庭の環境と子ども同士の関係が豊かにある園の環境とでは、その次元も機能も全く違います。
子どもは「子ども同士」の中で育ちます。親子関係を起点にしながら、その人的ネットワークを広げていきます。そこには年齢の異なる様々な子どもや大人がいて、生活を展開しています。保育園は、子どもの発達を促進させるために最もふさわしい生活の場でありたいと思っています。
今週は朝のお集まりで「はるがきた」を歌っています。「きた」と「さく」が繰り返されるシンプルでわかりやすい歌詞です。春がくると花が咲く、山や里や野で。でも、そばにそれがない環境であっても、はるはきました。