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2021年 9月

9月の誕生児をお祝いしました

2021/09/30

「好きなポケモンは?」と聞かれて「アママイコ」って答えた子がいました。私は「ふ〜ん、そんなキャラがあるんだ」と、思った程度でしたが、ネットで調べてみると、あ〜、なるほど。こんなキャラが好きなんだなあ、となんとなくわかった気がします。子どもたちははっきりと好みを持っているんですね。

今日は9月最後の日ですが、9月生まれの子どもたちをお祝いする誕生会があったんです。保育園にいる子どもたちにとっての1年は、生きてきた時間全部だったり、半分だったり、3分の1だったりするわけで、満5歳になった子でも5分の1のウェイトがあるわけですから、大きな成長に違いありません。ですから自分の年齢を「いくつになりましたか」と聞かれて「みっつ」と答えることができるようになって「すご〜い。おめでとう」と言われた頃から、たった1年で「よっつです」ではなく「4歳です」とか「5歳です」と言えるようになってしまうのですから、やっぱり1年の成長は大きいと感じます。

質問するお友だちの方も、「好きなポケモンはなんですか」「おもちゃは何が好きですか」「好きなくだものはなんですか」「好きなジュースはなんですか」など、好きなものシリーズの質問が続きました。それにはレゴブロック、ぶどうといちご、りんごジュースなどと答えていました。

先生からの出し物は、秋らしく芋掘りごっこゲーム。「うんとこしょ、どっこいしょ」と葉っぱを引っ張ってみると、あれれ、何かでできたよ、あ〜、おいもだ!さつまいもだね。う〜ん、なかなか抜けないねえ、誰が手伝ってくれるかな。・・・と、誕生児が手伝ってくれて、また「うんとこしょ、どっこいしょ」、ああ、また出てきた、出てきた、さつまいも。・・

 

自然と風土が教えてくれるもの

2021/09/29

園だより10月号 巻頭言 より

風景には<幅>がある気がします。その幅の一つの端は目の前に展開されて移ろう<景色>。朝と昼と夜とでも景色は変わります。季節でも景色は変わります。また、みる者によって異なって見えるのが景色です。

もう一方の端が<風土>です。かなり長い歴史的な時間を経ても変わらないものです。柳原通りの景色は刻々と変わっていきますが、それでも、ここに醸される江戸情緒のように、目を凝らすと見えてくる風土があります。園の隣に建ったビルは10月にオープンします。通りの景色はずいぶん変わりますが、柳森神社や海老原商店に佇むと、この通りが江戸時代から戦後までの歴史の変遷を思い起こすことになります。迷ったら「風土を訪ねよ!」という気がするのは私だけでしょうか?

同じことをここでも感じました。大河ドラマ『晴天を衝け』で渋沢栄一の父親市郎右衛門を演じている小林薫が、そのガイドブックで「栄一の父親は藍農家として、土の状態や天候について熱心に勉強していた科学者のような一面がある。憑きものだと騒いだり、雨乞いをしたりする時代に『迷信は信じない』というセリフもあるんです。その姿を栄一はずっとそばで見ていた。とても先進的な考え方だったでしょうし、それは後の栄一の感覚にも結びついていくんでしょうね」と語っています。さらに別の番組では「藍づくりを研究し、向上心を持ち続けて、それに打ち込んでいる藍農家だけれども、どこか、足元のことを深く掘って、掘って、やり続けていくことで、世界をしっかり捉えていたというか、時代の変化もよく見えていたんじゃないか」というようなことも述べています。

演じた俳優が感じ取った役柄ではあっても、きっと本物の父親もそうした資質や思想を持っていたんだろうと思えます。ここで私は2つのことを考えます。一つは<親が子どもへ与える影響>についてです。現代はその時代のような大家族でも職住一体でもなく、核家族で職住分離が当たり前。親の仕事ぶりをそばで感じることも難しい時代です。そこでどうしても考えてしまうのは、保育園の先生の役割です。「藍づくり」への探求に相当するもの、熱心に勉強していた科学者のような試行錯誤の姿を、大人は子どもに見せているだろうか?という自省です。

気になる2つ目は、何でもあるテーマを深く掘り下げると、普遍的なものに通じるという話です。分野は違っていてもその道の専門家は、同じような見解に至ることが、ままあります。とくに自然を相手にしていると、人間がやっていることの「不自然さ」や「自然の摂理」に気づくことがあるものです。このことは保育にもいえます。子どもも大人も人間は「自然の一部」でありながら、人間が作り出すプロダクトは「人工」になります。その嘘っぽさや不自然さに気づくことは、結構難しいのですが、ドラマの中の渋沢市郎右衛門には、何が真っ当なことかを嗅ぎ取る知恵が備わっていたように描かれています。

目まぐるしく変わる景色の中で、変わらない自然と風土を大切にしたい。そんな思いを感じながら2021年度の後半の「千代田せいが物語」を皆さんと一緒に紡いでいきましょう。

緊急事態宣言は9月末で終了に

2021/09/28

どうして感染者がこんなに急激に減ったのか、よくわからないまま、緊急事態宣言が今月末で解除されることが今日28日(火)決まりました。季節の影響と言われても、お隣の韓国は急増中ですし、今年RSウィルスは季節外れの時期に流行しました。上昇加速度が1を切り始めた頃(上昇カーブが鍋底から山形へ変化していった時期)は人流も増えていた時期だったので、変化の要員はマスクでも人流でも飲食店でもお酒でもワクチンでもないことだけは明らかでした。

では、何が原因なんでしょうか。最も説得力のある説明の一つは、私にはウイルス自体の自壊説のように思えます。東大名誉教授の児玉龍彦さんがそのメカニズムをわかりやすく説明していたので、ご紹介します。ここからちょっと生物化学の基礎知識が必要になるのですが、どんなウイルスでも増殖過程(つまり複製過程)で複製エラーがたまに起きます。新型コロナはRNAウィルスなので、そのデオキシリボ核酸の鎖が一本です。DNAは鎖が2本で、あの二重螺旋になっている図を見たことありますよね。もちろん人間は2本です。新型コロナやインフルエンザやエイズなどのウイルスはこれが1本しかないRNA型です。ですから一本なので、一般にコピーミスが多いと言われています。多くのエラーは不安定なものや不活性なもの(増殖していくのに環境に合わないもの)になるので、マイナーなまま終わってしまいます。ところがエラーも繰り返しているうちに、そっちの特性の方が環境にあっているものが出てきて、それが優位になって変異株ができるわけです。

ところが新型コロナは鎖がうんと長いのですが、14番目の遺伝子がコピーエラーを修復する酵素を作りだしていて、変異はあまり多くありません。せいぜい月に2回、年に20回ぐらいで、とても変異の少ないウイルスになっているそうです。ですからワクチンや抗体による治療が効くのも、この特製のためです。すぐに変異してしまっていたらせっかく作ったワクチンも抗体カクテルもすぐに効かなくなって、イタチごっこで手に負えなくなります。そういう意味では変異が少ないから、これでも私たちはラッキーだったとも言えます。

ところが、海外の感染爆発の変異によってできたデルタ株が日本に入ってきて、このウイルスは人に移りやすいからどんどん人の体内で増殖し(重症化もさせてしまう性質も持っていたわけですが)、人から人へ移し続ける、ということを繰り返す頻度がものすごく増えました。つまり結果的にエラーコピーの数も急激に増えたのです。その結果、変異したウイルスは自壊してしまう特性を持ったものが優位になっていったと考えることができるようです。でもこれは偶然の産物かもしれません。必ずどんな株でもそうなるとは限らないはずです。

では、今後も同じような急激な感染爆発と急速な収束を繰り返すのでしょうか。変異株をうむ親のような株、それを児玉教授は「幹」と呼んでいますが、これを徹底的に絶つ必要があります。幹は変異が少ないから生き残っているらしく、あまり症状を出さず、無症状でひっそりと生き残っているのです。この幹ウイルスが、次々と大きな感染を引き起こす変異株を生み出していることになります。

そういう意味では感染集積地を無くしていくことです。飲食とかお酒とかを、ダラダラと続きたりやめたりするだけじゃなくて、リスクのある場所は保育園も含めてしっかり検査してもらいたい。スパイクタンパクの特性が変わって子どもが感染しやすくて重症化しす変異が今後、現れてもおかしくないのですから。

保育園は、子どもの命を預かることと経済を回すための砦との二役を担わされているのですが、流行しだすと、あまりにも荷が重すぎます。

そういう意味では、過去3回(武漢型、ミラノ型、デルタ株)とも失敗した水際対策です。国内も海外の情報も含めて徹底的なゲノム解析による予想を、サミット先進国がすべてやっているような対策をしないのは、どうしてなんでしょうか。そして水際対策を官邸の指示ででもなんでもちゃんと動かすようにしてもらいたいものです。

検査も抗体検査(SとNの両方を)とPCR検査をセットにしないと実態が分析できないはずです。そしてまた流行が始まったら、早くゲノム解析して感染力、感染様式を正確に早く公表してほしい。

いろいろ、言いたいことがあります。空気感染であるエアロゾル感染を飛沫感染と言い換えるようなミスをずっと放置しないでほしい。そして小児科と母子保健を手厚くしてもらいたい。隔離対策でしかない感染研と保健所だけでパンデミックには手が回りませんから、他の国のように医療としての対策に転換してもらいたい。都道府県と医師会丸揚げじゃなくて国も動いて独立行政法人の国立病院機構や地域医療機能推進機構もしっかり患者を受け入れてもらいたい。

とくに東京都は、現状追認のモニタリングではなく、サーベランスをしてほしい。大量のゲノム解析、ちゃんとやってください。お願いします。

あいさつの言葉

2021/09/27

あさ私に会うなり「園長ライオン」とニコニコしている子どもたちがいます。私と心を通わせたいのです。これが誰にも教わらなくてもできる自然なあいさつです。その後、使わなくなった紙おむつをいただいたのですが、その時「もう使わないんだ」と教えてくれるSくんの、ちょっと誇らしげな表情が微笑ましいような、これも朝のあいさつ。朝会が終わって階段を登ると、照れたような顔をして「園長先生」と笑顔を見せてくれるKちゃんや、Yちゃん。何かいいたそうな、でも口に出していう言葉が見つからないような、でも私と会って嬉しいという顔つきなので、私から「おはよう」というと二人からも「おはよう」という言葉が返ってきました。これも、自然な気持ちの通いあいです。

散歩に出かけるのは10時前ごろ、玄関は元気な子どもたちが「いってきま〜す」の代わりに「いってらっしゃ〜い」と言いながら出かけていきます。これも、保育園ならではのあいさつ。散歩から帰ってくると「ただいま〜」の代わりに「おかえり〜」と息が弾んでいます。それぞれの「楽しかったこと」が「ただいま〜」の勢いにこもっているかのようです。Fちゃんは、いっぱい体を動かしてきたかな。今日はお昼寝でぐっすり眠れるかな。そう思いながら、バギーの扉を閉めてあげました。

昼食は乳児は「パチパチ、ハッチンよ〜い、パチーン! いただきます」というご挨拶。幼児は歌を歌って、お当番さんが「用意はいいですか」「いいですよ」「それでは、みなさん、ご一緒に、いただきます」といって食べ始めます。これも食事のあいさつ。お昼寝は乳児は先生が「父さん、母さん、姉さんも・・・ねんねしな、ねんねしな、ねんねしな。おやすみなさい」という童歌風のお昼寝のあいさつの歌を歌ってあげると、ぐんぐん、ちっちさんが自分で布団にトコトコ移動して布団に寝ます。

挨拶というのは不思議なもので、ある人と人の出会いと別れのたびに交わすのですが、それが毎日繰り返されることが何より幸せなことだということを確認し合うものなのかもしれません。あいさつに込められる気持ちが、通い合うかどうか。子どもとっての「ごめんね」も「ありがとう」も、気持ちの繋がり方を、覚えていくためにあるように見えます。気持ちのこもっていない言葉は、心を動かされることがないことを、子どもの方が本質的に了解していると言えそうです。

 

ダンスのある風景

2021/09/26

その日に感じたことは、たぶん一生かかっても体験できない内容でした。理解はできても自分で体験はできそうもないようなことです。理解や説明だけなら「たいそう意義深い話を聞きました。終わり」です。でも、それでは、ここの日記に書く必要もないので、どうしようか? と考えて、次のように書いてみることにしました。別にもったいぶるわけでなく。考えることも実践なので、それでも体験が経験に変わっていくような何かがあるからです。

それがあったのは9月26日(日)の夜です。「勉強会があるから来ませんか」とダンサーの青木尚哉さんに誘われて、北青山の「ののあおやま」へ出かけたのです。すると海老原商店の海老原さんもいて、二人並んで参加しました。青木さんが企画したイベントで、青木さんと平賀達也さんと対談でした。

内容は全部「人間は自然から分離されてしまったが、どうやったら人間は自然と交信できるか」というものだったのです。そんなテーマが掲げられていたわけではありません。でも、二人で交わされていた内容は、全部、自分と身体の関係、人間と住んでいる場所との関係、人間と自然との関係についての、しかも、交信できてしまうお二人の体験談だったのです。論でも抽象でもなくリアルな体験、身をもって身体を通過した感覚を伴った体験の話です。

話はダンサー青木さんが今ずっと試みている実験、つまり舞台から降りて、街や学校や路上や森で踊ってみると、それを観る人の反応や距離感が全部違って面白いという体験談から始まりました。実験してみてそれを話しあって学びを深めるというダンスの循環物語を紡ぎ出しています。対談の相手の平賀さんは、土地や地形が風土が持っている「自然の必然」が見えてしまう方(のように私には見えた!)で、体験談は、マンションを建設したり、道路を走らせたり、土地を改良したりするときに「どうあるべきか」という方針を、その土地の歴史や風土から導き出すお手伝いのようなことをしているというものでした。

平賀さんは「ののあおやま」の再開発デザインを担当し、青木さんには「ランドスケープ」というタイトルの創作ダンス作品があり、この場所「ののあおやま」で先日、新しいダンス「もりのダンス」を踊ったのでした。

平賀さん「四谷怪談の最後の場面で、ざあっ〜って風が吹いたでしょう。あのとき、私たちの足の裏から地面を通じて四谷まで通じ合ったんだよね」「昔の人は田んぼに足をつけて仕事しているとき、山の異変に気づけたんだろうな」「自然や人には樹状パターンというのがあって、元気な人がそれが躍動して見える」

青木さん「子どもと踊っているといっぱいインスパイアされている」「風景と景色の意味の違いがダンスを作り出だしたりしている」「渓流に身を任せていると傷つかないのに、不自然な力を入れると岩にぶつかって怪我する」

お二人に共通するのは、実践そのものが文明批評になっていること。実践していることがダンスだったりランドスケープデザインだったりと、分野は、全く異なるのですが、私たちが見失っている生き方の方向性や立ち位置、みんなが抱いている「迷子感」や「不自然さ」といったものを、無視しないで、その違和感がどこから来ているのかを明らかにしながら、「やっぱりこっちだよね」を探り当てながら、実践しているアーティスト、表現者なんだということでした。

 

 

青山星灯篭のダンス

2021/09/23

最近よく考えていることは、子どもの中にある「イメージの可視化」です。旧今川中学校の校庭で「鬼ごっこ」をしたときに、地面に引いてある線の上を夢中で歩き始めた子(9月14日)。アゲハ蝶を外に放すときに迸り出てきた言葉の数々(9月22日)。青木さんのダンスの時間に「こんなのどう?」っていうふうに見せてくれるポーズ(9月21日)。こんな瞬間はたくさんあるのですが、それでも旧今川中へ行かなかったら、アゲハを育てなかったら、コンテンポラリーダンスをしなかったら、そうした子どもの姿を確認することはできなかったでしょう。やってみなけりゃわからない(9月18日)ものです。

子どもの内面は「どうせ本人にしか分からないもの」と諦めてはいけません。やり方によって、子どもはそれを「表現」してくれることがあるのです。その「やり方」は色々で、こうじゃないといけない、というわけではないのですが、ただ共通するのは<何かと強く関係する状態のとき>であるのは間違いありません。校庭の地面の線に触発されて(ギブソンのアフォーダンス)その上を歩き出したことにも、<地面という物との関係>があります。何日もアゲハの世界に向き合いお世話をして育てたからこそ、子どもの中に優しい心情が育ったという<生き物への関わりという関係>があります(ノディングスのケアリング)。そしてインプロビゼーション(即興的表現)のダンスにおいても、自分と自分の身体との関係、あるいは自分の身体と見られている他者との関係があります。

昨日9月22日(水)の夜、北青山で青木さんのダンスグループZerOの野外公演を観てきました。高層住宅マンションを含む再開発された街「ののあおやま」の敷地中には、雑木林やビオトープ、遊び場やステージができています。夜空は満月。お彼岸のこの時期らしく、雑木林の中に22の灯篭が並んでいました。よそぐ風が涼しく、秋の虫の音も聞こえてきます。赤い灯籠が並んでいるのは理由があって、地元の有志が集まって江戸時代のある風景を蘇らせようとしているそうです。その風景とは歌川広重が約160年前に描いた浮世絵「青山星灯篭」の景色です(下の写真)。灯篭は二代将軍徳川秀忠の菩提を弔うもので、5年前から地元のギャラリーや善光寺で始まり、2年前から「ののあおやま」も加わりました。

なぜこんな経過を説明しているかというと、この歴史と舞台環境を知っていないと、青木さんのダンスの意味がわからないからです。この夜に演じられたダンスのタイトルは「もりのダンス」です。江戸時代から明治時代初期まで、青山・百人町周辺で行われてきた「星灯篭」がコンセプトです。イベントの企画者の意図は「逝きし人を偲び、土地の記憶を訪ね、地域の環境と文化を体験すること」というもの。ダンスを観るということが、古の祖先や両親、周りの方々へ感謝するような気持ちをダンスで表現しているように思えました。

子どもの内面に限らず、外から見える「表現」は、その表現を生み出している側の内面に動いているイメージがあるからです。現代アートが難しく思えるのは、その関係が見えにくいからです。どんなふうに「見えにくいのか」というと、見えやすいものと比較してみるとわかりやすいかもしれません。

子どもが「象さん」のイメージを持てば、象さんのつもりのダンスになります。見ていればすぐに「象さんね」とわかります。それは他の子どもにもわかります。では、そのイメージが「はらべこあおむし」だったら? アゲハ蝶だったら? これだったらその「お話」を知っているので、知っているもの同士でお互いに通じ合うでしょう。一年目のお楽しみ会の劇にもしました。誕生会でペープサートにして楽しみました。さあ、ここからが今日の日記のお題です。

それでは満月だったら、どうなるでしょう? お彼岸だったら? 人間も自然の一部、という考えだったら? 祈りだったら? 感謝だったら? それはどんなダンスになるでしょうか。それを青木さんたちは演じたのです。そこには、こうじゃなければ、という統一された振り付けがあるのではなく、それぞれの演者が直観する動きが折り重なって「わあっ・・すごい」という日本らしい風情を目の前に表してくれていました。素晴らしいものでした。

きっと子どもの表現にもそれがあるのです。言葉、作ったもの、積み木を並べたもの、描いたもの、叩いてみる楽器、鳴らしてみる音、走っている姿、飛び跳ねている瞬間、何かに感動しているとき。子どもの心の動き、イメージの躍動。それをなんとか「表現」にしていく営みの工夫が、創造と協働(協同)を目指すレッジョ・エミリア市の保育実践でしたし、イメージを可視化して子どもと子ども、子どもと大人、園と地域が繋がっていくために記録(ドキュメンテーション)があるのでした(9月17日)。

「バイバ〜イ いいところで暮らしてね」

2021/09/22

さて、この写真、子どもたちは何をしていると思われますか。

「バイバイ、いいところで暮らしてね」

「お花の蜜、たっぷりある場所のお花で暮らしてね」

「カラスに食べられないようにね」

「また遊びにきてね」

「海に溺れないように」

子どもたちは口々に、こんな言葉をかけていました。そうなんです。今日は朝早く、アゲハがサナギから孵化(じゃなくて羽化でした)して蝶になったのです。

そして3階のベランダから、自然に返してあげているところです。

私のスマホに一人ひとりの発言がはっきりと録音されているのですが、面白ことに気づきました。

こんなに多くの子どもたちがいて、何かを自由にしゃべっていいという状況になると、大抵はそれぞれがしゃべり始めて、声が重なってしまうことが多いのですが、この時ばかりは、そうなりませんでした。それはまるで、劇のセリフを順番にいう時のように、それぞれの発言を他の子どもたちが、しっかりと聞いているかのようでした。

そうなったのは、一つには、ベランダのネットにじっととまっているアゲハが、いつ飛び立つんだろうと、じっと見つめていたからかもしれません。固唾を飲んで見守っていたからです。

みかんの木に卵を見つけたのが9月2日。それから20日で蝶になりました。

人間に例えるなら二十歳で成人したわけで、蝶の1日は、人の1年にあたります。この間、ずっと毎日のように観察を続けてきた子どもたちだからこそ、冒頭のような言葉が次々と浮かんできたのでしょう。

・・・気持ちの優しい、子どもたちです。

中秋の身体で表現する「なんかいいやつ」

2021/09/21

今日は中秋の名月にふさわしい表現活動の日になりました。

アーティストのダンサー青木尚哉さんがやっていることは、子どもが描く自由画に似ています。写生ではなくて、子どもがイメージしたものを画用紙に自由に表現してみる絵のようです。輪になって「鬼さん、鬼さん、何するの?」と尋ねるられた子が即興で「これするの」と応え、それをみんなで「これするの」と真似します。リズムはイチ、ニイ、イチ、ニイの二拍子です。

イメージを形にすることは、紙やキャンパスの平面なら描く、といういのでしょうが、身体を使うのでやはり「踊り」や「舞」や「ダンス」なのでしょう。まあ、それはどうでもよくて、大事なのはその表現の起点と終点です。身体を動かし始める始まりがあって、終わりがくる。そしてまた始まり、終わるという短い時間の中で、身体が形作るものが存在して消えていく。絵画や造形物のように残ることがなく、なくなってしまうのですが、確かにそこには「子どものうちにあったものが引き出されていく創造」が行われているのです。

体を動かすといっても、「運動」でも「スポーツ」ではなくて「踊り」や「ダンス」であるのは、その「身体の形」に子ども自身がセンスの良いものを、なんだかいいと感じるものを、必死で嗅ぎ取ろうと、引き寄せようと、生み出そうとしていることがはっきりとわかるからです。その表現が楽しそうです。

身体表現として、「どうやろうか」と考えながら、「こんなのどうだろう」と試しながら、思い思いに体の動かし方をデザインしているのです。

それは「鬼さん、鬼さん、何するの?」に限りません。「ステップシークエンス」も「マネキンとデザイナー」も「じゃあ、今度はこんな風にしてみたい」という試行錯誤の身体表現です。

らんらん、すいすいの子たちにとっては、その意味あい、というか勘所、面白さがわかってきたようです。一方で、にこにこさん、わいわいさんには、「動物遊び」のような、ごっこ運動が楽しいようです。

そして、やっぱり花より団子です。こっちも歓声が上がっていました。

体験を表現して共有したい

2021/09/19

根が出たメロンの種が育つかどうかや、水をかけたら黒くなるか「やってみないと、わからない」ことを、子どもと一緒に試してみるのは、大人も楽しい。種も水も自然界の話ですから、そこには一定の理(ことわり)、法則、因果関係が見つかるものなのですが、いかにも「自然科学」とか学校の「理科」につながっていく傾向を見つけることができます。身の回りの「物質」や「生き物」には、そうした特徴を見出すことができます。対象についての「知」です。

確かに、保育は対象そのものの特性に気づくということも「保育内容」(特に領域「環境」など)にあるのですが、日本の保育内容は、それを「子どもの姿」で捉えることになっているのです。面白いと思いませんか? メロンの根が出たね、今度はどうなるかな。早く芽が出るといいね。・・・ここには「メロンの種についての知識」を得ることが保育内容になっていない、のです。

子どもたちは、メロンの種を見て、触り、土にそっと大事に埋めてみて、水をかけて、「どうなるかなあ」「芽が出てくるかなあ」って、感触を味わったり、生き物に気にかけてあげること、そんなことに何かを「気づき、感じ、試したりすること」の姿があるようにしましょうね、ということが保育所保育指針や幼稚園教育要領の保育内容なのです。

(うちわ話ですが、これが乳幼児の「考える」姿だというように捉えています。なので子どもの「思考力」の育ちは、領域「言葉」ではなく、領域「環境」に位置付いているのです。)

アゲハの幼虫が今、また蛹になっていますが、もうすぐ蝶になります。これに「驚くこと」や「不思議がること」や、「面白い、やってみたい」と子どもの興味や意欲が動くのです。子どもの情動的知性が働くことが大事だからです。生き物の飼育がいい経験になるのは、ある程度の時間がかかり、その繰り返される観察と餌やり、水やりなどの「お世話」が生まれるプロジェクト型の活動になっているからでしょう。

さらに、本当はもっと大事なのは、それを見守る大人側の方が、本気で「驚くこと」「不思議がること」「面白い」とおもうこと、なのでしょう。研修でレッジョのDVDを見て、「先生たちが楽しそうだった」という感想を持った先生がいたのですが、私たち保育者が大事にしている色々なキーワードの一つが「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)でもあり、それは保育者の専門性として持ち続けたい資質です。

レッジョから学ぶとすると、この子どもの心の動きを、ここから、絵にしたり、粘土で造形したり、ダンスにしたりします。20年前の映像でも「古典的な道具である粘土や針金だけでなく、パソコンで絵を描いたり、プロジェクターで光を当てること」などをしていたのですが、今なら多分、最新のテクノロジーも使いこなしながら、子どもの内面を外に表す遊びをするのです。それをまた共有し合います。アート表現が他の子どもたちや大人たちと生まれるコニュケーションの「道具」に位置付けているのです。さらに大きな価値の創造のために。当園での例でいうと、はらぺこあおむしの歌を歌ったり、ペープサートや劇にしたりしていることと同じです。一年目のお楽しみ会で、その世界を親子で親しんだことが子ども文化のコミュニティ作りになると確信しているからです。

自然界の営みを知ることが「知」なら、そこへ向かうだけではなく、子どもが受け取る内面の体験を、再現遊びや表現としてのアート(=アルス=手や体を通した技)にすることも保育なのです。「自然界」と「人間界」が「子どもの内面を外の表すこと」でつながるのです。自然科学と文化的活動を繋げているものが「人間の内面の躍動」なのだと思います。それが小学校以降の学習や生活につながっていくのです。

やってみなけりゃわからない

2021/09/18

1つの体験や気づきを、意味のある経験にしていくつながりをどうやったら作り出せるか。

例えば鈴虫の飼育のために土に水をかけたら「黒くなった、どうして?」と言う子どもの気づき。オープンエンドの学びの絶好のチャンスです。先生は答えをうまく説明できなくてもいい。仮に知っていたとしても説明できない方が良い。

「じゃあ、こっちに水をかけたらどうなるんだろう」を、実際にいろいろ、やってみる体験ができるといいのです。紙を濡らしてみたら? 布は? 濡れるものと濡れないものがあることに気づいたり、水とお湯で違うかもしれないと思う子がいたり、画用紙に水彩画で絵を描くことが、濡らすことに似ていると気づいたり、子どもの連想力や発想や考え方のパタンは、大人と違う面があるから面白い。

先日給食でメロンが出たのですが、その種を暗いところで水に浸していたら根が出たそうで、ちっち、ぐんぐんでそれを育て始めました。こういうのをいろいろやってみると、子どもがいろんなことに気づくはず。家庭でも時間があったらやってみて欲しいのですが、品種改良が進みすぎて、たいていの果実は、種からは育たない気がします。育つものと育たないものに気づくような実践も、SDGsになるんじゃないかなぁと考えたりしています。

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