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2022年 9月

すいすい〜花の植え替えと野菜のお土産

2022/09/30

大丸有というエリアをご存知でしょうか? 今日9月最後の30日は、年長のすいすい組が、この大丸有エリアまで歩いて出かけて「花壇の花の植え替え」をしてきました。歩いて片道30分かかりますが、さすがに年長児、往復60分以上の散歩をこなすことができました。花壇の花の植え替えは、今年の親子遠足(雨の中の屋形船乗船)の時に、佐久間橋児童遊園の花壇のアダプトとして、花のポットを花壇に植える体験をしましたね。あれと同じようなことを、すいすい組で体験してきました。

大丸有(だいまるゆう)とは、ウィキペディアによると、次のような説明がなされていました。

「東京都千代田区にある大手町・丸の内・有楽町の3町域を合わせたエリアであり、東京を代表する一等地である。このエリアは大企業の本社ビルが集積しており、日本最大規模のオフィス街・中心業務地区(CBD)を形成している。皇居の東~北東側に位置し、東京駅(丸の内)や大手町駅周辺では大規模なビジネス街が、有楽町駅周辺ではオフィスビルや大型商業施設、劇場や映画館などが集積しており、銀座の繁華街とも隣接している。東京駅界隈は三菱財閥がイギリス・ロンドンのシティを模範としたビジネス街として開発を行ってきた歴史を持つことから[1][2]、現在でも三菱地所が多くのオフィスビルを所有しており、丸の内一帯は「三菱村」とも呼ばれている」

私は、このエリアとの接点を増やしたいと思っています。この地域が来年度以降の「千代田せいが保育園」の教育活動を展望する上で、中央区の八重洲の再開発を視野に入れながら、いろんな意味で重要になっていくという予感があります。今日の活動は3月のホタル放流体験に続く2回目なのですが、せっかく「エコミュージアム」という場所と機能ができているので、子どもたちの「自然体験」をもう少し、本格的な学びの詰まったプロジェクトに発展させるための提案を企画側へ、したいと思っています。

 

 

知恵としての「資質・能力」は「対話」が鍵になる

2022/09/29

人に何かを説明しようとすると、自分でよくわかっていないことに気づくことができます。考えをまとめることができます。人との関係性が自分を作るのです。人とどんな関係を作るかが、自分作りにもなるのです。対話は自分磨きになります。

例えば、今日も見学に来た保育園の先生と話をしているとき、実習生に「態度」の意味を説明しているとき、そして保護者の方と今後の行事のあり方を語りあっているとき、そして子どもの姿の背景を一緒に考えているとき、自分自身、いろんなことが「わかっていないなあ」「できていないなあ」と気づきます。

その都度、私はいろんなことを「感じたり」「気づいたり」します。そして何かがつながって、一貫性が出てきて見通しが良くなり、いろんな要素の辻褄があって矛盾がなくなり、納得性が高くなると「わかった」と思えるようになります。それでとりあえず、いいだろう、と思えます。そして、ものや出来事が形をなして何かが「できる」と、一通りのあるまとまりのある物語やエピソードとなります。

本当に不思議なことですが、人間はなぜか、赤ちゃんの頃から、こんなことを繰り返しながら生きているように見えます。このようなプロセスの中には、いろんな知識や技能が動いています。

でも、それを動かしているのは、つまり生きて働かせているのは、知識そのものや技能そのものではなく、望ましいもの、よりよきものに向かっている心情や意欲なのです。その心情や意欲が、知識や技能をイキイキしたものに変えていくのです。

ですから、私たちが本当に必要はものは、その知識の量や、うまくできる技能だけではもちろんなく、その活かし方であったり、何がどう大事なのかという判断力、さらには、その判断の根拠となっている価値づけです。また人間性も大事になります。

そして、冒頭に述べたように、他者との対話が考えたり判断したり、どう表現したらいいかを省察する機会になります。思考力や判断力、表現力を磨くのは、そんな時です。

あとえ実際に会わなくても、その対話の相手が自分自身であったり、書物であったり、思い出の中の出来事であったりしても構いません。本質としての対話が生じるものであれば、生ききた人間である必要はないかもしれません。しかし子どもの場合は、真心を持った大人がそばにいる必要があります。

以上のことは、保育所保育指針や幼稚園教育要領が示す「資質・能力」の三つのことなのですが、このような説明をどこにもしてくれないので、その3つの関係をうまく理解できないままになっていることが多いように見受けられます。資質・能力の3つが有機的に機能する時、私たちはそれを「知恵」と呼んできたのです。

いろんな人と話していると、他者との対話は自分の知恵を磨いてくれます。知恵とは、よく生きるために働く動的なものです。方法としての知識に近いかもしれません。知識を素材として活かすものです。

その知恵を今日は子どもに見つけました。子どもは知恵者です。子どもの「知識」は少ないかもしれませんが、大人以上の知恵を発揮することはできるのです。もし資質・能力は大人が高くて子どもが貧しいという前提があるとしたら、それは間違いだと、言っておきたいと思います。

事務所での「お手伝い保育」

2022/09/28

9月20日に今年度のお手伝い保育について、年長組(すいすい組)が話し合いをしています。わらすのクラスブログをご参照ください。そして今日28日(水)、その1回目の「お手伝い保育」が始まりました。

この「お手伝い保育」とは簡単にいうと、年長さんが、ちっち組(0歳)ぐんぐん組(1歳)にこにこ組(2歳)のお部屋に別れて、一緒に過ごす活動をいいます。お兄さん、お姉さんとして小さい子どもたちのお世話をしたり、遊んであげたりします。大家族のように過ごすのです。詳しくは、2019年10月20日の「園長の日記」をご覧ください。その歴史や意味を解説しています。

子どものいない事務所では主に3つのことをします。金魚やプランターのお花など生き物のお世話(水替えや水やり)、ペーパータタオルの補充や玄関の掃除、そして乳児室で「使う手作りおもちゃづくり」などです。

今日は玄関のプランターの花の植え替えをしました。その後は、屋上にいる虫探しを手伝ってもらい、その後は水鉄砲で遊びました。

自然との触れ合いをできるだけ増やしたいと考えているので、お手伝い保育にも、生き物との触れ合いを位置付けているのですが、ちょうど「花の植え替え」は、エコッツェリア協会(2022年3月23日の「園長の日記」を参照ください)からお誘いを受けて、今週金曜日30日にも大手町まで出かけて行います。当園の屋上にはバケツの田んぼの稲や、水桶の小さなビオトープなどがあって、そこに自然発生する水生動物を観察することができます。

水槽の中に、ミジンコのような小さな生き物がたくさん泳いでいるのを発見したKTくんとTYくん。「虫眼鏡を持ってこようか?」と、私に提案してくれるので、「そうか、私のお手伝いをしてくれていたんだ」と思い直した瞬間でした。虫探しは私がやっているんだといことを、しっかり理解していたのです。それでもよく見るためには、虫眼鏡が便利だということを知っている証拠ですね。

子どもの感情に気づき、言葉を結びつけてあげること

2022/09/27

「自分の感情に気づく頃なので、Kちゃん、怒っているんだよね、って、言ってあげるようにしています。そしたら、自分で『もう、◯◯(自分の名前)、怒ってるの』と、言ってこうやって(怒っているという仕草)・・」。

実習生の反省会で、1歳児クラスのS先生が、保育の意図を説明してくれます。それを聞いていて、私は感動してしまいます。子どもの発達を理解しているからこそ、その時に必要な言語環境をデザインしているからです。1歳児クラスといえども、4月以降に誕生日を迎えている子どもたちはすでに満2歳になっており、言葉の爆発的な獲得期に入っています。質問期でもあり、何にでも「これは?」と聞いて、いろんな言葉を覚えていく頃でもあります。

そんな時期は、自分のことをもう一人の自分が客観的に眺めるような視点を獲得して、自分はこうなんだ、と他者に説明できるようにもなってきます。その時、自分が楽しいんだ、嬉しいんだ、怒っているんだ、悲しいんだ、辛いんだ、というような大まかな感情も「自己認知」できていることに、担任は気づき、冒頭のような言葉をかけているのです。あえて意識して、そうしてあげているのです。

実習生たちは、「保育の過程」というものを学びます。それは「子ども理解」に始まり、その子どもの姿にふさわしい「環境の(再)構成」を行うことで、子どもは新しい体験をします。その体験が発達を促したり、新たな学びになるので、その子どもの姿を予想する、ということをします。指導案の書類には「予想される子どもの姿」という欄が用意されています。

今回のケースでも、子どもの発達理解があって、言葉を変えている担任の判断の中には、このような「子ども理解」をもとにして担任という「人的環境」のあり方を変えている、という「保育の過程」を見てとることもできます。実際の保育というものは、そんな回りくどいことを、いちいち考えているわけではないのですが、いずれにしても大事なのは、子どもが何を感じてどう思っているのかを、敏感に感じ取る力が保育者には必要で、そのセンサーの感度が、子どもにふさわしい次の体験を用意していくことになる、ということでしょう。

そんなことを反省会では実習生に伝えています。そして伝えながら、私たち自身も自らの保育を振り返るのでした。

見守る保育は自然栽培に似ている

2022/09/26

「見守る保育は自然栽培と似ている」

そのことに、最近気づきました。

自然栽培はとても面白いです。いろいろと勉強していると、大自然の持つ神秘的で不思議な力を感じます。食の営みも本来なら、自然と調和した暮らしを取り戻すことだと気付かされるのです。この2ヶ月ほど「自然栽培全国普及会」の方の話を聞いているのですが、子どもたちも自然の一部なんだという、当たり前の事実に気づくのです。子どもだけではなく私たち人間は、大いなる生態系の中でこそ、人間らしくいられるのだろうと、思えてきます。

例えば、自然栽培では肥料を使いません。化学肥料だけではなく、有機肥料も基本的には使いません。また、いわゆる害虫が来ても農薬もかけません。それでも、辛抱強く、我慢強く、待っていると素晴らしい野菜が育つようになります。それは、まるで保育が、子どもたちとそれを見守る大人たちの関係にそっくりです。子どもが本来持っている育つ力を信じて、大人がおおらかに待ち、見守るような関わり方をすることに、とてもよく似ているのです。

さらに、自然栽培では、土をとても大切にします。その土は何年もかけて作り出されるものです。根気がいるので、ついたくさんの有機肥料を使ってしまいます。その方が早く大きく、立派な野菜になるからです。そこを辛抱強く自然のなす力に任せていくと、土は自ずと自然の生態系の営みの中で、なるべきものになっていくのです。それはまるで、子供にとって夢中になれる遊びの環境のようです。本当に健康で安全な野菜や果物などの農産物が「いい土」から育つように、子どもの発達を促す遊びも、「いい環境」から生み出されます。

自然栽培を成り立たせている自然の力を考えていると、数年前に観たドキュメンタリー映画「ビッグ・リトル・ファーム」を思い出しました。自然の持っている生態系の力を、とても美しく描いた物語です。こんなエコシステムの中に「子どもの領分」があるとしたら、私たちは「子どもの環境」について、もっと学び直す必要があると思えてきます。

都市を歩きながら国葬の意味を考える

2022/09/25

台風17号が過ぎ去って青空が広がった25日の日曜日。午前中は、オンラインでダンスを楽しもう!のイベントが開かれて、職員の親子も参加してくれました。ダンサーのいづみさんが出演しています。私は家族との用事で別のことをしていたのですが、晴れた空の下で都内を歩きました。

東京は、地上を歩いてみると区内も意外と起伏に富んでいて、多く残っている江戸時代以降の地図と重ね合わせながら、大名屋敷の名残を見つけたり、その当時のわらべ遊びを想像したりして、庶民の暮らしを思い描きます。そのような光景を思い浮かべてみると、これからの持続可能性を探るヒントになります。日本が近代に入る前の時代の生き方に、いろんな知恵を学ぶことができるからです。

週が明けると「国葬」が開かれますが、国を挙げて誰かを弔うという行為は、まさしく近代国家が国民を統べるために編み出したものなので、必ず国旗を掲げた武装した軍隊がその主に敬礼をします。軍が介在しない国家の歴史はないところに、政権が決定する国葬の特色が滲み出てしまいます。一方で、日本の場合の朝廷の権威は、別のところに根拠を置くので宗教の歴史が精神的な背景を支えた習わしになります。国家の重みと集合性は、こちらの方にあるのかもしれません。

いずれにしても、庶民の歴史と近代国家を必要としてきた歴史の両方を学ぶことが、これからの社会を生きていくための道標としては不可欠なものになります。都市を歩くと、それを伝えてくれる展示物や博物館や建物が色々ありますね。

正しい道があるという感覚に頼りながら

2022/09/24

私は何につけても基本的に、現代の近視眼的な対処の仕方について、根本的な懐疑を持っています。本質的なことを棚上げして、しょうがないから、現実的な対応を繰り返して生きていくことが、現代の病理的な様相を作り出しているように思えて仕方がありません。どうしてそうなってしまうんだろうと考えると、変えようと思うことを、早々と断念することが賢明だと思い込まされているからかもしれませ。できない可能性が高いので、挑戦することすらしない、ということに近いのでしょうか。確かに人生は不可解、とわかっていても、その不条理を受け入れてしまった方が、なんとかなる人生だからなのでしょうか。なんとかなっていると思っているうちに、なんともならなくなるかもしれないことを、切実なものとして予想する力が、私たちに乏しいからでしょうか。

何の話かというと、人生における「根拠なき直感の優位性」という話です。科学はエビデンスを求めてきます。物事の根拠です。確かな理由です。誰もが納得する答えや証明です。でもそれが提示できないものは多くて、保育の質もその一つかもしれません。なかなかエビデンスを示せないことが多い。でも実践している当事者には、経験的にも直感的にも、こっちがいいだろうという判断が働いているものです。その判断に至るプロセスにある「落とし穴」には気をつけながらも、それでいい、と思えるものが確かにあるものです。

仕組みがよくわかっていないものの最たるものは、人間です。肉体も精神も霊魂も、宇宙の中でどうやって誕生したのかも、どこへ向かっているのかも、そもそも自分の生体の仕組みさえ、よくわかっていない、だから、健康であることや発達すること、感染症から守ること、そのほかコロナのことやワクチンのこと、自然食のことや地球環境のことまで、人間が考えてデザインして作り出している生産物のあれもこれも、今後どうなっていくのか不透明です。

では、確かな地点を確保することができないのか、というとそうでもありません。確かなものはあります。それはこうのように考えていること、それ自体は疑いえない自明性を持つと思うからです。こうやって時の刻まれていく流れの中にあって思考していること自体を、全くの幻想と退けることはできそうもないからです。この確かにあるという存在の手応えさえも、幻想でしかないとしてしまったら、きっと私たちのたどり着いた意味さえも、不可視の中に胡散霧消してしまうからです。ここから、一歩ずつ積み上げていくことが、私たちの直感が正しいと感じる生きる道だと思います。

0歳からの入園をお勧めします

2022/09/23

全ての赤ちゃんが、0歳児クラスに入園してほしい。育児休暇が長く取れるようになったから1歳児クラスからでいいと思わないで、0歳から子ども同士の関わりを体験してほしい。そう思うことが、保育園をやっていると、強く思います。その理由はいろいろあるのですが、最も大きい理由は、子どもの成長、発達には満1歳前後からの、子ども同士の関わりが、とても大切な体験になっているからです。それは脳の発達からも人類の進化からも、自然なことになっているからです。そのようなことの積み重ねを、小さいうちから行っていくことがいかに大切なことかを、日本全国の子育て家庭に強く訴えたいという衝動に駆られます。

たくさんあるエピソードの中で、昨日のちっち組(0歳児クラス)のエピソードは、それをよく表していますので、いかにそのまま載せたいと思います。名前はイニシャルに、写真はイラストに加工しました。

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タイトル「取り合いっこも大切な経験に」

Yくんが、鏡を手に入れて遊んでいると、Rちゃんがやってきて、鏡をのぞいています。

するとだんだん、ふたりとも鏡で遊びたくなって…

『ちょうだ〜い〜‼︎』

でも、Yくんもまだ使っているので、再びしっかりホールドしています。

ゲットできなかった悔しさで大人のひざに顔をうずめにくるRちゃんでした。

「Rちゃんも、ほしかったのねぇ。。」
最近のちっちさんは、こんなふうにお友だちと玩具を引っ張り合いっこしたり、取り合って怒ったり…という姿が見られるようになってきて、春のころの小さい”赤ちゃん”から、だんだんと、ぐんぐんさんらしい姿も出てきたなぁと成長を感じています。自分の気持ちを思い切り主張し合えるようになってきたようです。

これからきっと、もっともっとたくさんケンカして、怒って泣いて、悔しい思いをして葛藤して…といろんな体験をしていくでしょう。
そんなときに、まずは、お互いの子どもの気持ちを言葉にのせて伝えてあげることを大切にしています。大人がジャッジしたり解決したりしようとするのではなく、あくまで、子どもたち自身が自分の気持ちや相手の気持ちに少しずつ気付いていくことができるよう・・・そして、子ども同士の気持ちのやりとりの橋渡し役となれるよう、支えていきます。
大人が「良い、わるい」…を判断して押し付けなくても、ほんとうは、子ども自身がよく分かっているのではないかな、と感じます。
実は、この取り合いっこの場面でも、Rちゃん、もう少し引っ張ったら鏡を取ってしまうことができたと思うのです。でも、すぐ引っ張るのをやめて、手に入れられなかった悔しさを大人に受け止めてもらいにきました。
こうやって、子どもたち自身、自分なりに(どうしようか)と選んでいるんだなぁと感じました。

気持ちを受け止めてもらったり寄り添ってもらったりしながら、その経験を重ねていく中で、子どもたちは少しずつ友だち同士でやりとりしていくことを学んでいきます。それは、とても時間のかかることですが、一つ一つが ちっちさんの頃からの積み重ねなのだと考えています。
そう思うと、ちっちぐんぐんの時期は、お友だちとのやりとりや関係を学び築いていくための、最も大事な時期とも言えそうですね。

このあと、にこにこ組のAちゃんとRちゃんが、ふたりでおしゃべりしながら鏡を覗き込んでいました。


この場面はこの場面で なんだかほほえましい光景ですが、このふたりも、これまで何度も何度もケンカして気持ちをぶつけ合ったり気持ちを通わせたり…という経験をちっちさんの頃から繰り返してきたはずです。

にこにこ組(2歳児クラス)の頃になると、こんな風にお友だち同士の関係もますます深まって、一緒に使ったり、取り合いになっても相談し合ったりできるような姿も見られます。
それは、ちっち組のみんなの数年後の姿でもあるのかもしれないですね。そんなことを考えながら、いまこの時期を、丁寧に大切に過ごしていきたいなぁ、と改めて思ったのでした。

子どもは自然栽培の味噌の「おいしさ」がわかる

2022/09/22

今日の給食のお味噌汁は、自然栽培で作った味噌を使いました。すると、ある子どもが「おいしい」と言って、おかわりをしました。どうも子どもは、この「おいしさ」の違いがわかるようなのです。子どもの身体はまだ自然に近いので、この違いをキャッチするセンサーがあるのでしょうか。この辺りの人体をめぐる科学は、非常に遅れており、身体についてはわかっていないことが、山ほどあります。この今日22日(金)のエピソードを聞いて、次のような話を思い出しました。自然栽培で作られた作物やその発酵食品(この場合は味噌)は、私たちの人体を自然の生態系の一部に戻してくれるという話です。ちょっと長くなりますが、人体と自然との関係を考えると、うちなる自然環境は、実は胃や腸だという話に遡ることになります。

私たちの体の<内部>はどこか?というと、胃や腸は<外部>であって、内部でないと考えることができます。口から肛門までは筒になっていて、外の環境に開かれています。口から物を食べて、肛門から排泄する。その途中で色々なものを体内に取り込んで、体内から不要なものを外の出すわけですが、この通り道の筒は、体の内部ではなく外部だと考えることができます。私たちの人体を大きな一つの筒、トイレットペーパーやサランラップの芯のようは円筒だと思ってください。

その人体の円筒模型は、もっぺらぼうではなくて、ビオトープのような生態系になっています。口と肛門という蓋がつているので、空洞部分の中身は、私たちの意志で開けたり閉めたりできます。ただその円筒の途中にも、幾つも開け閉めできる門があって、その部屋は閉じられています。口腔、胃、小腸、大腸、直腸などの部屋に分かれていると思ってください。その生態系は、例えると、口腔は石畳の庭の入り口のようなもので、食道は草むらの細長い道のようなもので、その先の胃は、洞窟になっていて中はうねるような林です。

さらにその後の小腸はまるで密林のようです。その中には、色々な液体が雨のように降っているジャングルのように湿っており、いろんな生き物が棲んでいます。乳酸菌やフェカリス菌、アシドフィルス菌、ビフィズス菌など、有名なものから、聞いたこともないような不思議な菌類がいっぱい棲んでいます。

私たちは自分の胃や腸を内部だと思っているので、ちょっと見当はずれなことをたくさんしてしまっています。私たちの本当の内部から見たら、この外部である胃や腸の中を、もっといい環境にしてあげる必要があるのです。それは棲んでいる部屋の空間をよくするのと同じように、外部である胃や腸の中をよくすることが大切なのです。最近、よく言われるようになった腸内環境を良くしようというのは、このことです。

すると、腸には口から入れても実は胃のところで強酸で分解されてしまうので、ほとんどの菌はそこで死んでしまいます。先ほどの羅列した菌たちは、腸のビオトープまでは辿り着けません。では、どうやったら腸内環境が良くなるのかというと、腸内環境を含めた円筒模型の中身を、自然の生態系に戻すことが必要になります。そのために、私たちは筒の中だけを問題にするのではなくて、筒の厚さの部分、つまり私たちの肉体、身体そのものを、内側から自然なるものに作り替えていく必要があります。その方法は、自然栽培の世界と私たちの身体を繋いでいくことなのです。

 

おうちでダンスを楽しもう!

2022/09/21

楽しく踊ろう 〜ハンデがあってもなくても〜サニーフラワーダンス

9月25日(日)午前10時から12時まで

ズームでおうちで参加できます(無料)

ダンサーのしばたいづみさんも一緒だよ!

最初の1時間は、お絵描きもするよ

親子でぜひ、ご参加ください。

(9月はコロナもあって、スタジオの参加はありません。

時間も10時からに変更しました)

お申し込みは、ここ↓からどうぞ。

ハンディがあってもなくても楽しく踊ろう♪ 無料オンラインダンスイベント

 

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