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2022年 10月

沈黙の中の声を聞くこと

2022/10/29

「お友達の考えていることは(お友達が)話してなくても(心の)声が聞こえるからわかる」。上半期の保護者アンケートを読んでいてびっくりしました。年長さんになると、こんなことを言うようになるんだと。これを書いてくださったお母さんと、届いた数日後にその子の成長について喜び合いました。

こんな子どもの姿もあります。

<・・・印象的だったのは、その活動は誰の発案だったのかを子どもがしっかり覚えていること。「これは〇〇くんがやりたいって言ってた事だから、ほんとうにできてよかった」「これを決めるとき、〇〇ちゃんはやりたくないって言って、なかなか決まらなくて大変だったんだよ」など、息子の話から話し合いの様子を垣間見ています。その姿から、自分の希望を伝える力だけでなく、お友達の意見に傾聴する姿勢も育っていると実感しています。>

語り出すのは、その子どもによって、いろんなタイミングあります。映画「こどもかいぎ」にも、子どもが語り出すまでの過程を描いたシーンが登場します。

さらに、もっと大事にしたいのは、子どもの沈黙の方です。子どもは声に出さなくても、いろんなことに気づいていて、黙って感じとっているということです。ことば以前のことば。行動に現れる前の内面の心の動き。沈黙の中の豊かな声。そっちのことです。発することばではなく、その子が向かっている世界に私たちが教えてもらいにいくこと。その子どもの声に耳を傾けあってほしい。そうあってほしいという親御さんの声も聞こえてきます。私たち大人はそういう柔らかい姿勢をもっと学ぶ必要があるのでしょう。

自覚的学びへの移行について

2022/10/29

今日はずっと「自覚的学び」への漸進的移行の保育事例を探して過ごしました。そして気づきました。これだと。そしてもう一つの疑問も解消しました。無藤先生の指南のおかげです。それを説明します。

昨日27日午後、交流している他園の先生たちとSTEM保育の勉強会をズームで開き、こんな試みはどうだろうと事例を出し合ったのです。主に光や色、鏡、匂いなど「面白さや不思議さ」から試行錯誤する様子がたくさん報告されました。

その中で「幼児はわかりやすいが、乳児の場合はどうなるのか」が疑問になりました。過去の経験との認識のずれのようなものが「あれ!」という気づきや疑問を生み、どうして?と追究するのでしょう。しかし乳児から幼児前期ごろまでは、自分が「わからないことが分かっていない」ので、外界への問いかけが生まれません。

私はこんな例を出しました。拾ってきた石を洗っていたら、軽石が何個かバケツに浮いているのですが、その3歳児は不思議に思わないという例です。先行する経験の累積的記憶がないと矛盾なり新奇性なりの面白さを感じる認識を持てないのでしょう。これがだんだんと認識的に発達していくと「自分がわかっていないことに気づき、その分からなさに向けて理解を進める営み」としての自覚的学びが始まるというわけです。

例えばその勉強会で報告された事例は「白い花に色水を吸わせると、色がつくのとつかないのがあって不思議がっていた」「浮く沈むの実験に夢中になっていた子は、ちょっと時間があると自分から、これはどうなるだろうと、水槽に水を汲み、芋掘りで取ってきたさつまいもを入れて確かめている」。こういう姿は幼児後半です。

さて、もう一つの「納得的気づき」は、小学生の「自覚的学び」になっていない学びの例です。101日に南アルプス市の「南アルプス子どもの村小中学校」を訪問した時、堀真一郎さんが、こんな小学生にしてはいけない、という例を話されました。こんな算数の問題がわからないという子です。

「旦那さんは1980年生まれ、奥さんは1982年生まれ。二人の年齢の差はいくつでしょう」という問題。その子は「年齢の差を出す出し方は教えてもらっていないからわからない。教えて」と言ったので、堀先生が「そのわからないことを考えるのが、この学校だよ」と答えたら、「ケチ」と言われたそうです。

私はこのような学び方が、勉強に向かっているから「自覚的学び」のようでありながら、本質的な学びではないと考えてしまっていました。そうではなく、これは自覚的な学びになっていないことになります。なぜなら「自分で分かっていないことに気づいていない」からです。

能動的注意が自分の「わからなさ」に焦点化されていないから、と言っていいのでしょうか。理由や論理性のない理解が、ただ正解を解く方法の暗記になってしまっている学習が多くないか、それが学びを面白いものに感じることができず、成績も不振になって学校へ行く動機を見失う、そんなことも不登校の要因の一つなっている可能性は、やはりあるでしょう。

学びからの逃走としての不登校が希求する学びとは

2022/10/27

自覚的な学びと無自覚な学びという時の「学び」は、学びの本質とは違うんじゃないか、そう思うことがあります。自覚してやっている学びにもいくつか種類があって、本質的な学びになっているものと、そうでないものがあると感じます。また、それと同じように無自覚な学びといわれる遊びにも、本質的な学びとそうでないものがありそうです。

遊びの中の学びを無自覚と呼び、学校の勉強を自覚的な学びと呼び分けてしまうと、何か表層的で、本質的な問いが埋もれてしまうのではないか、そんな懸念も伴うのですが的外れでしょうか。その問いかけが不登校にも現れている気がします。学校という自覚的な学びからの無自覚の逃走(さらにいうと、逃走という形での警鐘あるいは警告)、そんな側面もあるでしょう。また一方で、保育園にも、やらさていることは無自覚でも、本当の自由遊びでないことから不満を募らせてイライラを何かにぶつける園児もいるでしょう。

歴史的にみても学校制度ができてちょうど100年経ったころ、つまり近代の学校制度の目的が機能しなくなったポスト近代に差し掛かる1980年代、一斉画一的教育の「無効宣言」のように不登校(当初は登校拒否といい、病気扱いする風潮さえあった)という現象が社会問題化されました。その当時、すでに「母を亡くした日本人」「父を亡くした日本人」を語っていた渡辺寛さんは「不登校という言葉で語られ、国がその数をカウントするとき、すでにことの本質からずれてしまっている」と嘆いておられたのを思いだします。かけがえのない命。何度もそのことを繰り返されていました。数の増減で事の軽重を感じるのはおかしい。ずっと前から「学びからの逃走」(佐藤学)は起きてきたのです。でも同じ言説がずっと繰り返されている気がします。

本人にとって本質的な学びの状況になっているかどうかが、極めて個別具体的に問われているのであって、数値が多くても少なくても、本質的な学びから疎外されている子どもたちにとって必要なものは、いま流行の言葉で言えば、個別最適な学びと協働的な学び、それを両立させる社会への参画の道筋です。より良い社会への希望を繋ぐための「学びに向かう力」です。これはアクティブラーニングを言い換えたものなので、心がアクティブになるためには、学びの場を既存の学校の「かたち」のままのマイナーチェンジでは、時代に立ち向かうことできなくなってきているのでしょう。既存のパブリックスクールが社会の変革の先頭を走ることができなくなってしまったのです。

では、改めて本質的な学びとは何だろう?自覚的だろうと無自覚だろうと、勉強だろうと遊びだろうと、そこが問われているのに違いないのです。たとえば、一つの切り口ですが、私は人間が社会脳の生物だとしたら、デファクトスタンダードとなっているその脳にフィットするような環境を用意すること。人間の脳と身体は環境との間に創発的(エマージェント)な形で学び誘発するわけですから、そんな学びが成立する学校(それはもはやスクールではなく、ラウンジやフォーラムやワークステーションだったりしないとなりません)に変える必要があるのでしょう。

不登校の話題で登場するテーマに心に還元するな、というものがあります。そもそも人の精神は環境=社会と創発的に発達しているので、人と人の間の精神機能が個人内の精神機能に反映されていると考える必要があって(ヴィゴツキー)、だからこそ、精神と自我は社会とセットで考える社会心理学が教育には必要とされてきました。工藤勇一さんがずっと主張されてきた「心の教育で解決できない」というのは、このような意味に近いはずです。

本質的な学びの原型は、乳児が教えてくれます。今日の0歳児クラスのブログには、今日も描かれているし、子ども同士の関係の中での模倣(じっと見つめて自分でやってみる)ことから「まねぶ」し「まなぶ」になっている姿をじっくりと観察できます。この真似て学ぶというプロセスが本質的な学びの本来であって、学校教育の場にそれを創り出す必要があるのでしょう。だとしたら、児童、生徒、学生に本気で真似したい、学びたいと思わせるものをいかに用意したらいいのだろう。

先日の「親子運動遊びの会」をご覧いただいた大学生から、とても嬉しい感想をいただきました。

ちょと長くなってしまいましたが、紹介します。

「自由で好奇心のままにはしゃぐ子供たちがとても輝いていて、素敵な空間だなと心から感じました。ワークの間も、楽器に関心を持つ子もいればとにかく走り回っている子もいましたが、それはそれで心惹かれるものがそちらに向いているのだなと思いました。決して「自由」を履き違えている訳ではなく、優しく温かい自由な空間が素敵でした。私はよくある普通の運動会を経験してきました。当時運動会に対して嫌な気持ちはありませんでしたが、もし自分がこのような運動会であったり保育園での日々を過ごしていたらあらゆる物の考え方が最初から違っただろうという気がしました。それは具体的にどのようなことだろうと考えると、「自ら物事に関心を持ち、好奇心を持って歩み進める力」かなと思いました。それも自ら積極的に探しに行くのではなく、自然と関心が向き、興味を持って主体的に取り組める力なのかなと感じました。これは確実にその人の人生を豊かにする力になると思いますし、得ようと思って得られる力ではないと思います。今回見学できてとても学びになりました。ありがとうございました。」

学びのエマージェントな動向を感じ取っていただいています。嬉しいですね。

1+1=田 協同的で創発する学び

2022/10/26

「あれ、うちの子だったんですね」と、お母さんが今朝、話してくれました。家で本人が「1+1=」のクイズの答えは「田じゃなくて王なんだよ」と言っていたというのです。私の勘違いによる「ツッコミ」によって、代表的なクイズの内容を変えてしまったみたい。それでも別にいいのかもしれませんが、あのクイズはいかにも代表的なものなので、その答えは、やはり一般的には「田」であることを知っておいてもらったほうがいいでしょう。「田じゃなくて、王だよ」と、主張し続けてもらっても困るかな、ことのままにしておくのは良くないかな、という気分になったのでした。

ここで書いて説明するのは、ちょっとややこしいのですが、最初からご存知の方が多いと思います。「イチたすイチは?」の「は」は、数式の「=」のところなので、ちょうど田の上と下の横棒になります。つまり漢数字の「一」で書くのか、算数字の「1」で書くのかの違いです。あとは等号の記号も使うか使わないか、なんですよね。

そんな話をお母さんと談笑したのでした。この学び直しは彼にとっても私にとっても、協同的学びですね。彼が家に帰ってから、クイズの話をしているから、お母さん経由で、「田が正解」ということにたどり着いたからです。伝えあった結果から、新たな気づきが「創発」した、といえる展開に、今朝はとても楽しい気持ちでスタートしたのでした。

クーイズ、クイズ・・

2022/10/25

今朝、年長の男の子が私に「クーイズ、クイズ」というので、私が「な〜んのクイズ?」と応答すると、「イチたすイチは?」といいます。私が「に〜(2)」と答えてあげると、案の定、ニヤニヤと満面の笑顔で「ブッブー。答えは(漢字の)田、でした〜」と言います。私は「おー、そうきたか」と、毎年こんな子たちと接してきたので、このパターンは経験ずみです。

「ン? ナニナニ?、何か勘違いしているぞ」と気づき、私からの反撃開始です。「ねえ、ちょっと待って。なんで、田なの? ホントに?」

その子は、「・・・(何言ってんの?)」という反応だったので、私がホワイトボードに字を書いて確かめようと、立ち上がったら、その子がサインペンを取ってきてくれました。園長ライオンが何か始めるぞ!というのが楽しそうです。

そして「イチ」と言いながら「一」と書いて、「タス」と言いながら「一」の下に「十」を書き(パソコンでは、この土の逆さまの字がない)、また「イチは」と言いながら「一」をつなげてかくと「王」という字になります。「アレレ? 田にはならないんだけどなあ」と私。すると当の本人が「ほんとだ!王だ」と気づくのです。そして何度か「いちタスいちは・・」と唱えながら字を書いて確かめています。

このような事例について、この子たちの体験の意味を要領や指針の「10の姿」に照らし合わせてみれば、いろんな着眼点から育ちのコンピテンシーを見出すことは、できます。例えば次のように、です。

言葉遊びやクイズを出し合うといった遊びを通じて「お互いの思いや考えなどを共有し」「考えたり、工夫したり」しています。「人との多様なかかわり方に気付き、相手の気持ちを考えて」くれています。そして「自分と異なる考え方があることに気付き、自ら判断したり、考え直したり」というようにも見えます。さらに言葉とつながりを持つ「数字や文字などに」ついて、読んだり書いたりする経験を通して「親しむ体験を重ねたり」しています。10の姿のうち、2、3、5、6、8、9、10からの姿を容易に見出すことができます。細かく見れば全部含まれているのですが。

ただ、当園のように「自由遊び」を中心にしている園生活では、こんな経験が今週起きそうだ、と予知することはできないので、週案や月案では計画できません(もちろん、クイズ遊びを計画的に予定して行うこともできますが)。それでも年間だったら年長さんとは大体、毎年こんなことが起きそうだ、と計画することはできます。というよりも、そういうことが創発するような生活にしていくことが大事なのでしょう。こんな解説をFacebookで読むことができるので、素晴らしい時代になったと実感します。

「幼児教育のカリキュラムはこのようにして、プロセス志向であり、そのプロセスは諸々の世界への探究として開かれていく。創発性はその世界への芽の伸びの中に多様に生じていく。そこには内容も能力もその世界へのプロセスを支え可能にしていく主体としてのまた環境としての条件として置かれている。その限りにおいて、前もって計画して検討することもできる。小学校以降の学校教育が教科内容を諸々の世界への組織的探究として捉えるならば、それに入っていく過程が幼児教育とりわけその移行の時期となるのである。」(無藤隆Facebook 10月23日)

 

 

必要な情報が知恵になる学び方はダンスも同じ

2022/10/25

私が保育の判断で基準にしているものは「望ましい未来とは何か」と、目の前の子ども一人ひとりが「現在を最も良く生きているかどうか」、そのために保育園生活が「最もふさわしい生活の場」となっているか、この3つです。やや控え目な表現となっている「望ましい」とは、言い換えれば「よいこと」ですから、それは教育哲学史からみて「善さ」(村井実)と書くべきものであり、その「善さ」には関係性(相互性)がなくてはならないので、誰にとってよいのか?という問いが隠れていて、それは当然、全ての人にとってですから、自由に生きる相互承認がどうしても要ります。

どうしてこんな話をしているのかというと、ある人から「どうして親子運動遊びの会にアーティストを呼ぶのか」ということを聞かれたからです。答えは「オープンエンド」だからです。誰でも参加できて、しかも限りなく高みを目指すことができる。善さの要素である「美しさ」には正解があるわけではなく、身体の心地よさを創り上げる営みに参加することで、それぞれが幸せな主人公になれる。何かができたから拍手が起きるのではない。つまり個人の能力に還元されるような眼差しが発生するような見せ場はいらない。探究のプロセスそのものを共にすることが楽しいという場にしたいから。そのためにアート性が教育には不可欠です。アートは繰り返しやりたいし、飽きない。そして習熟する。そんな運動がやりたいからです。そう答えました。

このことは、全ての学びに通じるのではないでしょか。注入型の知識ではなく、生きて働く知恵になる知識。より望ましい未来を作ることにつながる生活づくりに役立つ知恵。必要な知識だから知恵になる。その知識の繋がり方が発生するのは、プロジェクト型の学びです。どうやったら楽しくダンスができるのか、それに必要な情報が知恵になるのであって、使われる機会があるから必要は知識を学ぶのです。まずダンスが楽しいと感じること。まずは「本番」をやってみること。それをしないで、踊り方というスキルやノウハウを知識を学んで「練習」してから、上手くなってから本番になるようなことは、遊びとは言いません。情報もスキルも必要だから学ぶ。ジョン・デューイの「なすことで学ぶ」と同じように、私には思えます。

 

 

体が喜ぶ瞬間というものがある

2022/10/22

体が喜ぶ瞬間というものがある。そんな体験でした。たとえば会が始まる前から、子どもたちは、本人はそれと気づかずに、思わず体が動き出して気持ちよく踊っている子が出てきて、その光景に出会えて嬉しくなりました。抜群に心地よいパーカッションの「音」と「リズム」で、体が自然と動き出すのをアリアリと感じました。心地よく音やリズムに合わせて体を動かす。これが踊り、舞踏、ダンス、名前は何なわかりませんが、とにかく大切な体の動きのある種類の始まりなんだと思います。

皆さんはいかがでしたか?コンテンポラリーダンサーの青木尚哉さんが内容を構成した、親子運動遊び。今回はこの催しも3回目になりましたが、青木さんの友人のアーティストも来てくださり、これまでの音楽に心地よい生のパーカッションのリズムが加わったものになりました。ドラマーの菅田幸典さんです。ミュージシャン坪井先生とのコラボもノリノリでした。

プロの演奏というのは、こうも違うということの体験にもなりました。私も会が始まる前から音楽にあったリズムが刻まれて、思わず歩き出し、体を揺すりたくなります。会が始まる前の注意事項のお願いアナウンスも、正直どうでもよくなってしまいました。

ふだん皆さんは自分の体を、どんな時に「意識」しますか? 鏡を見たとき、体重計に乗ったとき、病気やけがをしたとき、食べ物を選ぶとき・・いろいろな場面で、いろんなことを思い浮かべることでしょう。では、その体の「動き」を意識したことありますか?

ラジオ体操の時間でしょうか、朝や夕方の散歩やランニング? それとも「歩かないで立ち止まってのりましょう」と言われているエレベーターで、一向に歩く人が減らないのを見ているとき?かもしれませんね・・

でも、そこにダンス、踊り、リトミックといった言葉が加わると、一気にそのイメージするものに、私たちの持つイメージが、そちらに吸い寄せられてしまいます。そのような先入観を取り除くのは、とにかく難しい。

そういう概念を全部忘れて、白紙になって、空間や音やリズムに「出会うこと」が、私たち大人には本当に難しいものなんだなあ、と思います。人間は「自由に生きるために勉強する」(苫野一徳)のだとしたら、それこそ、乳幼児の頃から、この思い込みから解放させてあげないといけないのかもしれません。その営みが新しい学校などを作ろうとするときに、大切なものなのだろうと思います。

さて昨日22日の「親子運動遊びの会」は、私もグーパー体操したり、トンネルになったり、マネキンとデザイナーをやったり。見学に来られた方も一緒にやってもらいました。楽しかった。またやりたい!もっとやりたい!そういう気持ちで、また明日からの園生活を楽しみましょう!日常とつながらない行事はさよならです。

*私の大切な願い。厳密にいうと運動会ではありません。日本では運動会、というと別物になってしまいます。その運動会はやりたくありません。練習も入りません。出来栄えも入りません。訓練や鍛錬も入りません。(姉妹園では「成長展〜運動編」という名前になっています。)

本当に体を動かすことの楽しさ、美しさを、親子で実感して楽しむ会です。そう考え出すと学校も体育館、という名称を何かに変えないといけません。アリーナのような場が欲しい。そこには何の評価も要りません。集う人たちの感動と学びと称賛があればいい。生きている時間を愛おしむ時間があればいい。

どんな園ですか?指導計画を見せてください?第三者評価を受けていますか?・・これ、もうやめましょう! あたなの目で、あなたの感性で確かめてください。そしてあなたも一緒に加わりませんか、この楽しい時間作りに。そう言いたくなるのです、いろんな場面で。「あなた」がどこからきた主体者なのか、エージェントなのかが問題なのです。この閉塞感を感じ取る感性を、いつまでも忘れないように、保育の場を蝕まないように、本当に心からお願いします。

 

 

 

体験と体験の関係から探究の質を考える

2022/10/21

最近、園内研修をした「プロジェクト型の活動」にしても「つながる保育」にしても、子どもの興味や関心から継続的に発展してく活動事例は、その多くが年中から年長にかけてのものが多いので、その個別のドキュメンテーションを保育マッピングしていく手法は、対象が限られてしまいがちです。では赤ちゃんから2歳〜3歳ぐらいまでの活動としては、どんな自由遊びの環境や保育記録媒体がいいのでしょうか。子どもの体験がどのように発達に影響しているのかという、キーワード「総合的な保育」の視点から、昨日までの話を続けてみます。

今日夕方の時間、園の3階では4歳5ヶ月の男の子YRくんが画用紙を切って丸めて十字形の剣のようなものを作っていました。その隣ではこの11月に満6歳になる男の子Y Sくんが、ダンボールをハサミで切り、養生テープやガムテープを上手に手で切って、物を入れる箱を作っていました。二人とも手つきが上手です。

特に年長のY Sくんはガムテープを右手で「ビリビリ」と伸ばし、ちょうどいい長さになると左手の親指の爪の先を、テープを切りとる始点のところに持っていくと、右手をねじるように捻って「ピリッ」と引き裂くように切り取ります。慣れています。早業です。ハサミは使いません。「ビリビリ」「ピリッ」、「ビリビリ」「ピリッ」、と繰り返しています。

その様子を見て、たった1年の違いなのに、こんなに手先が発達するものなのか、と感心します。いったい、この発達を促す体験はどこからきているのでしょう? 答えは繰り返される自発的な遊び(つまり探求)からです。

当園では、2歳児クラスから制作遊びの場所がゾーニング化されています。3階の幼児の場合は満3歳から満6歳までの子どもたちが一緒に使うので、その習熟度が違う子どもたちが見合ったり、手伝ったり、教えあったりします。

基本的に子ども同士が見よう見まねで学び合うことが多いため、人間のもつ模倣力や利他性など、つまり協同性(は0歳からある)を活かし合う人的環境デザインになっていると言っていいでしょう。

この習熟のプロセスは、毎日のようにどこかの時間で遊んでいる子もいれば、週に数回、あるいは週に1回など差があります。ゾーンには製作(アトリエ)以外に絵本、ごっこ、積み木、パズル、観察、運動などに分かれているので、どこも満遍なく遊ぶというよりも、何をするかで使う頻度に濃淡があります。しかし、好きな遊びほどそこで過ごす時間や活動が多いので、知識もスキルも蓄えられ、制作遊びならその表現力も大きく伸長します。

もしゾーンに置いてある活用リソース(資源)を用いた自由遊びの活用頻度を子どもごとにデータ化し、縦軸に習熟度を表す3次元マップにその発達の軌跡を描くことができれば、スパイラルアップしていく様子を見てとることができるでしょう。筒の作成から箱作りまで、そこに必要とされる知識やスキルや思考力や表現力の習熟の軌跡を可視化できます。学びに向かう力(つまり探究心)を描くことになるのかもしれません。そういうことなら、これで「資質・能力」の一面を描くことになるでしょう。

もちろん発達は園だけの「経験」ではないので、家庭などの場所での体験も加味しないといけないのですが、平日のゴールテンタイム(睡眠サイクルからみた活動にふさわしい時間は午前9時ごろからお昼ごろまで)は、ほとんどが保育園で時間ですから、大きな影響をもつのは否定できません。

熱中した遊びはあまり間隔を置かずに継続的に行われていれば、それは「プロジェクト型」や「つながる保育」と同じように、習熟していくことになります。発達の連続性を保障するものは、このように何かの方式や方法というよりも、探求=遊びそのものの性質のつながり、体験のつながりを冷静にみていくことが不可欠です。残るものは学びに向かう力が発揮されるような「望ましい未来を作り出す力」が、実は今を生きる生活コンセプトにあるということを、つないで考えることしにないと、良質な教材、つまり思わず遊びたくなるような環境構成にならないからです。

自由遊びの中の個別で協同的な学び

2022/10/20

昨日のエピソードの続きです。折り紙をくるくると丸めることは3〜4歳ぐらいになるとできるようになります。でも細い筒はまだ難しくて、トイレットペーパーの芯ほどの大きさのゆったりした「筒らしきもの」ができる程度です。筒の形も歪でガタガタしています。それでも「できた」という達成感は嬉しいようで、もっとこうしたい、ああしたい、という意欲が出てきます。

その、もっとこうしたい、というものは、隣にいたTHちゃんが手にしていたものです。それは3つの筒が折り重なった「何か」です。それを作りたくて、筒と筒を合体させてできたものが、昨日ご紹介した長い棒のようなものです。

この二人の関係の中にあった制作物をめぐって、二人が経験していることが、どのようにそれぞれの精神や自我の発達に影響しているのでしょう。自由に遊んでいる状況下で(そこに私が介在していることの影響も大きいのですが、一旦それを無視して)考えてみましょう。

昨日は哄笑の意味を考えてみたのですが、そのエピソードが起きる前の時間に遡ると、男の子KSくんは女の子THちゃんが作った制作物を作りたくて、私のところへやってきて「あれを作りたい」と言って始まった遊びでした。始まりには、すでに折り紙で遊んでいたお友達の状況があって、それを真似したいという気持ちが動いていました。子どもたちの遊びは、このような周りの状況からの刺激を受けて自分の世界を広げていくことがわかります。

何かに気づき、好奇心をよせ、制作して物を作っていく。その時に、他者とのコミュニケーションが発生しており、そレは非言語、言語を問わず、ジェスチャーも含めて共同注意が働きながら表象を豊かにしていきます。この協同性の中には、個人の内面世界を豊かにしていっているものが、外の社会的な環境の豊かさから成り立っていることは明らかでしょう。このような自由遊びの中で培っている営みと同じように、小学校以降における生活と学習にもつながっていくために、この自由遊びの中での学びを明らかにしていくことができたら、新しい学校づくりのヒントにもなると思われます。

子どもの個人的で個別最適な学びと、協同的学び(協働的も含む)を繋ぐものが、この自由遊びの中に含まれるものだとしたら、一つのテーマを巡って体験している要素を取り出すことはできるでしょう。好奇心を寄せて発見している気づき、ものを作り上げている身体的精神活動、その子らしいもの作りを通した表現、そして他者とのコミュニケーションです。ミードと共に現在の学びの世界を開いたデューイが示したこの4つのプロジェクト要因は、自由遊びの中にその同質のものが展開されているとみることはできないでしょうか。

幼児が笑い転げるおかしみのツボ

2022/10/19

今日4歳の誕生日を迎えたKSくんと遊んでいて、可笑しくて笑いが止まらなくなりました。

子どもには「笑いのツボ」があります。そのツボにはまると、ゲラゲラ笑いが周囲に感染します。そのツボはいくつか種類があるのですが、今日のツボは、「他人が期待している楽しみが、偶然できなくなくなってしまう」というものです。代表的な例は「落とし穴」です。人が落とし穴に落ちるのを面白いと感じる心が人にはあります。相手を騙すことが面白いと感じるのと似ています。この感覚、わかりますか。子どもには、そういうものを面白がる心理があります。

こんな場面でした。折り紙で作った「筒のようなもの」(写真)が偶然、机の上で立ったので「あ、立った、立った、すごいね、立ったね!」と私が喜ぶと、KSくんは、すかさず「ふ〜っ」と息を吹いて倒したのです。ろうそくの火を消す時のように、です。そこで私が「あ、倒しちゃった。ねえ、もう一回、立てて」とお願いすると、KSくんは立てようとするのですが、なぜか笑い出しています。笑いで手が揺れるのこともあって、筒が中々、立ちません。

私が「立たないかなあ、立たないかなあ」と声に出して期待していると、KSくんはなんとか筒を立たせました。笑いながらです。そこで「あっ、立った立った!」と私がいうと、KSくんは、またすかさず「ふ〜っ」と息を吹いて倒そうとします。でも、笑っているのでうまく息が出ないので、中々倒せません。自分でやりながら可笑しくてうまくできないという感じです。その経過をずっと録画していたので、二人で笑いながら、繰り返しみました。楽しかったあ〜。

このような一見、実にどうでもいいように思えるエピソードかもしれませんが、私はそんなことはない、大切な意味があると確信を持って主張したいと思います。このように子どもが「笑い転げるようなおかしみ」を体験する意味について、解説したものがあまりない気がします。でもきっと重要な意味が隠されていると、私は思っています。スマイルの微笑ではなく、ラーフターの哄笑の方です。声に出して笑う方です。

私の仮説はこうです。人間の脳は社会的な脳だと言われています。人と人が結びつくことを望む脳です。ヒューマン・コンタクトを必要とする脳です。その際、利他性が人間性の特徴です。利己的ではなく利他的であったこと、なぜか協力することを人類の進化は選択してきました。他人が喜ぶことが嬉しく、他者が悲しいと自分も悲しいと思う共感性を持っています。他者の快感が自分の快感になるような性的傾向を愛情の中にも組み込みました。

そのような共感性が発達していくにつれて、他者が困ることなど「起きてはならないこと」が実際に起きてしまうことは恐れや怒りなどの感情を伴います。そこで子どもは、あえてそうした「起きてはならないこと」を、先取りした模倣、つまりシミュレーションすることで、裏返しの感情が発露してしまうという心理機構があるのではないでしょうか。プラスの感情を伴った体験の再現が「ごっこ」です。これはいわば過去から現在への模倣。一方で、マイナスの感情が引き起こされる予行を平然と引き起こすことはできないので「おかしみの感情」を伴いながら、一種のごまかし、ユーモアにしてしまうのではないでしょうか。

それが大人からは「いたずら(悪戯)やおふざけ」に見えるのではないでしょうか。バケツを被って階段を昇り降りしたりするような、きっと叱れるようなことを、子どもがやりがるのは、共感性の発達の裏返しかもしれません。相手があって初めて誘発される感情でもあって、そのおかしみの体験が引き起こされているとき、私はあまり「待ったをかけない」ことにしています。私との自由遊びの時間には、この笑いが突発的によく起きます。

園長ライオンの遊びの中でも、ライオン役の私に「はい、肉ですよー」とくれるので、おいしく食べるふりをすると子どもは「毒でしたあ」と言って、騙したことを笑って楽しむのです。

私はこういう事も大事にしたい。でも、これは遊びの価値への確信と心の余裕がないと、なかなかできないですね。

自由遊びとは何か。今は亡き大場幸夫先生の言葉です。

「子どもたちが自ら発想し、その遊びの存続や遊びの内容の選定など、一切を子ども自身に委ねられる遊び。子どもたちの自発的な意思にもとづいた活動の総称。保育者が意図的に設定し子どもに課す遊びの類とは峻別される。自分の思いつくままに、自由にいろいろな遊具やおもちゃを選択できることや、自分なりの遊び方を楽しむことが可能であり、進んでいろいろ工夫してみることが許されている。自由であることは、なんとなくぶらぶらしていられることも含めて、自分の気持ちに正直に呼応できる行動のあり方、ということができるだろう。それだけに、意思決定と自己調節が、こうした遊び方のプロセスを通して、育まれる機会を得ることにもなる。子どもが自らの主人公になって遊べるところに、この遊びの本質を見ることができる。問題はこうした遊びを、日課の一部に取り込み、“束の間の自由”でしかないような生活を是認する保育者の考え方にある。(「発達心理学辞典」(ミネルヴァ書房))

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