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見守る保育(保育アーカイブ)

ピーステーブルと感情パネル

2022/11/30

(園だより12月号 巻頭言より)

私は保育を見るときに子どもの意図に着目してみるようにしています。子どもが何をしているのかを漠然と眺めるのではなくて、どうしたいのか、何をしようとしているのか、子どもの動機や意図、思い浮かべていることを想像しながらみるようにしています。特に見学者に保育を説明するときや、養成校の授業としてライブで説明する時も、同じようにします。そして、そこで起きていることに、ハッとさせられることがあります。

昨日29日、見学者と一緒に3階で観察ゾーンを見ていたときにも、子どもの面白い動きに出合いました。当園には今は観察ゾーンに「ピーステーブル」と呼んでいる対話空間があるのですが、そのテーブルには「感情パネル」が掲げてあります。たのしい、うれしい、かなしい、おこっている、こまっている・・などの言葉とイラストの表情が描いてあります。その子は3歳児クラスの女子(満3歳)Mさんで、そのパネルを奥の運動ゾーンへ持って行ったのです。

私は「あれ、どうしたんだろう?」と気づいたのですが、その子はすぐにまた、パネルを持って帰ってきた元の場所に戻したのです。見学者に「いまあの子が面白い動きをしたので、どうしてあんなことをしたのか、聞いてみませんか」といい、しばらくして確かめました。すると「◯◯ちゃんと○○ちゃんがけんかになったから」と言うのです。私は感動して、このエピソードは必ず担任に伝えよう、と思ったのです。さて、けんかとパネルとどんな関係があるのでしょう? 

Mさんはけんかの仲裁をしたかったのですが、その方法はピーステーブルの空間をけんかが起きている運動ゾーンに作ろうとしたようなのです。この空間はテーブルと椅子が2脚置いてあるだけのもの。ただそこでは「相手の言葉をよく聞くこと。自分の思いや考えを伝えること」ができる場所のことです。そこには感情パネルが置いてあり「いまの自分の気持ちはどれ?」と、自己認識を促すようになているのです。私たちは子ども同士の関係の中で何かの<トラブル=という言葉は私たちはあまり使いませんが>になったとき、それぞれの思いや考えを伝え合うことを保証してあげます。

大人が「◯◯ちゃんが先にやったのね、それはダメでしょ、謝りなさい、ごねんねは?」などと裁判官のように白黒つけたり、一方に謝らせたりはしません。大抵はそこに至る経緯があって、その思いが積もり重なっていたりするからです(その様子は映画「こどもかいぎ」の中でも描写されていますので、ぜひご覧ください。当園の保護者の方々の協力のもとに124日に秋葉原で自主上映します)大人はもっと子ども同士の関わり合いの力を信じてあげてほしいと思います。自分達でできることは、大人が思う以上にあるものだからです。

駄々こねの意味をめぐって

2022/11/27

子どもが望んでいることを、正当なもの、と捉え直すにはどう考えたらいいんだろう? ただのわがままだったり、いたずらだったりするように見えることや、駄々をこねて、大人の言うことを聞かないように見える時に、私たちはどんな姿勢で子育てに向かうといいんだろう? さらに、その場に直面したときに他者の視線も感じながら、どうやったら周りの人にも理解してもらえるだろう?そんなことを考えながら、自分の子どもの子育てをしてきたように思い出します。でも今は仕事として、専門職としてはっきり言えるようになりました。子どもの自己主張にはいくつかの正当な理由があると言うことを。

私が保育士の資格を取るために勉強していた頃、言葉の使い方次第で、こんなにも意味が変わってくるんだ、と驚いたことを思い出します。それはジャーシルド(Jersild A.T)の「自発的使用の原理」の説明を読んだ時です。これは発達の一般的原理の一つ(矢野喜夫)で、「自生的動機付け」の原理とも言われます(「発達心理学辞典」ミネルヴァ書房 監修は岡本夏木他)。子どもがはいはいを始めたら、欲しいものをとりたいわけでもないけど、自発的にはおうとします。立つようになってきたら、すぐに尻もちをついてでも、それを繰り返したがります。歩行が確立していく頃には、なぜかわざわざ坂道を登ろうしたり、すべり台を下から這い上がることをしたがったりします。散歩をしていても、狭い花壇の縁や、土手の上り坂の方を歩きたがったりします。

そういったことを選びたがるのは、どうしてだろう?と思っていたので、その説明として、そうか!そうなんだ!と納得したのが、この「自発的使用の原理」の説明でした。 それをやりたがるのは、その力を使おうとしているからだ、力は使わないと伸びないんだ、と理解できたのです。何かが育つ、伸びる、できるようになる、という発達は、その能力を繰り返し使って初めて身に付く、と言い換えてもいいでしょう。能力は使用して初めて本当の能力になる、と言うことです。使っていくうちに発達が遂げられて、その欲求は満たされて、次の段階へ進んでいくのです。

そこから子どもの体験には、必ず意味がある、と思えるようになり、しかも自発的にその行為を示すときは、今ちょうどその力を使いたがっている力が伸びようとしている時期なんだ、と受け止めればいいとわかったのです。それをすることで発達する、発達したがっているから使いたい、体験したがっている、そう言うふうにみてあげれば、子どものやりたがることには発達の欲求が現れており、それを叶えてあげることが、つまり体験させてあげることで、その力を行使し、自分のものにしていこう、環境から自分に取り入れようとしているのだ、というふうに私の理解がつながっていったのです。

そう一旦、思えてくると、子どもが駄々をこねたり、泣いて何かを主張したり、大人を困らせたりするとき、基本的にはそうか、それをしたがっているニードがそこにあるんだね、それをやることがあなたの発達に必要な体験になっているのね、と受け止めることができるようになって、それを探したいぐらいになっていきました。

そして、社会的に認められない行為なら、代わりに「こっちならどう?」という、適応行動になる体験の選択肢を用意していくといいのだ、と考えがつながっていくのです。環境構成です。一方で、欲求が満たされるのですから、情緒は安定します。養護です。こうして養護と教育は一体であると言うことが、私にはすんなりと理解できたのです。

理解がつながって矛盾がなくなる理解というのは、精神衛生上も望ましいし、過不足感のない理解は、誰にでもいつでも説明できます。そして自分の中に、新しい疑問点が湧いてくるのです。適応するって、どういうことだ?と。社会的に認められていることは、誰がそれをどう認めているんだ?ということを調べたくなるのです。ルソーが社会契約論を考えたように。シュタイナーが社会有機体三層構造を考えていくように。

私には大人が「正当性を主張する=これが正しいという」ときに、その正当性は本当に「正統的」なものなのか?という疑問になっていきました。保育を文化的実践として捉えたら、正統なものかどうかを、大人は常に更新し続けていく学びを止めてはならないんじゃなか、文化的な実践に周辺的に参加するといっても、その参加していい社会や学校なのか? そういう、とても大きな問題にぶつかっていくことになっていったのでした。それは発達心理学では「障壁発生の原理」ということを読んで、自己流の拡大解釈をして、面白がっていたのでした。

そして民主主義の原理や自由とな何か、という問いにつながって行かざるをえず、それを支えるのはコミュニティのあり方が問われ、人間関係づくりのプロセスが問われ、というように戻ってきます。そして最後は人類の進化の正統性にまで辿り着くのです。私が何か話すと、人類は〜ってなっちゃうね、と保護者の方と笑ってしまったことを思い出します。子育ての相談を受けているのに、人間はね、なんて言われたら困りますよね。

学びあい、教えあう

2022/11/25

年長のAさんは赤ちゃんが大好きで、入園見学の方が赤ちゃんを抱っこしていると「かわいい〜!」「わたし、Aっていうの。なまえなんていうの?」と聞きたがります。その子を知りたいから名前を聞く。自然な学びです。お母さんも、子どもたちのそんな姿に接して「◯◯よ、よろしくね」などと教えてくれます。

Aさんの他に年中のHさんやUさんも、小さい子のお世話や教えてあげることが大好きで、いろんなことをしてあげています。その子が望んでいることを、望んでいるタイミングでやってあげたり、手伝ったりできるようになっていきます。相手が望んでいるタイミングでそれができるように援助することを、私は「啐啄同時」という言葉で説明することがよくあります。鳥のひなが卵から孵(かえ)ろうとするときに、親鳥が殻を啄(つつ)いて、外に出やすくしてあげるのです。強く啄きすぎるとひなが傷ついてしまうので、そのタイミングと塩梅が大切なのです。

そのコツを、赤ちゃんの様子を見ながら、年上の幼児が学んでいきます。援助内容も教え方もセットで子どもが学ぶのです。こうやって人との関わり方や援助の仕方、また身につけるべき教える内容を子どもが身につけていきます。そこには大人のモデルがあるので、それを真似しながら、援助の仕方を身につけていきます。

このように大人がやっている子ども主体の保育を、子どもが模倣しながら、同じことができるようになっていく営みを、その保育への参加と捉える考え方があります。私たち大人も、どんな教育や保育が望ましいのかを日々、学びながら正統的な保育のあり方はなんだろう?と話し合いながら、実践しています。この営みも文化的実践と言えます。子どももそれを見習いながら文化的実践者に育っていくので、そのことを学習論の一つの見方として「正統的周辺参加」という言い方をすることがあり、私は新聞記者時代にこの考え方をもとに実践している学校の授業を連載したことがります。その連載の指南役は当時東大にいらした佐伯胖さんでした。

その正統な文化実践の中には、その地域や時代の文化を身につけていくというプロセスがどうしても必要になるのですが、その中には「きまり」とか「ルール」つまり社会規範というものも含まれてきます。そこで例の自由と責任というテーマが出てきます。協同性のテーマなってきます。

そのとき私が思い出すのは、藤森師匠(私の上司であり恩師)が教えてくださったこんな話です。「子どもに自由とルールを教えるときは、こういうとわかりやすいよ」と。こんなふうにお話すれば、2歳児クラスの子どもたちぐらいになると、自由の意味がわかってくるのです。

大人「大きくなったらね、自動車を運転してどこにでも自由にいくことができるんだよ、いいでしょう」

子ども「うん」

大人「でも守らないといけないことがあるんだよ。なんだと思う?」

子ども「・・・?」

大人「それはね、信号を守ること。青は走っていいけど赤は止まれ。信号を守るからみんな自由に車に乗れるんだよ。わかった?」

子ども「うん」

ここには、学習論でいう「教示的伝達的顕示」(いいかい、やるよ、ほらね、式の「わかってないけどわかった気にさせる落とし穴))もあるので、この語り方には注意も必要なのですが。まあ、それはともかく、わかりやすい対比での教えになっているのです。

私たちは学び合いと教え合いを繰り返し、ある方向へ歩んでいます。その歩み方は、それぞれであっていい。そして社会の方も変えていっていいのです。両方の営みを変えていくことをどうしたらいいのか。そこに今私は挑戦しています。

架け橋のむこう

2022/11/12

先日の「クラスブログ」に、最近の年長すいすい組の姿が断片的に紹介され、こんなことが書かれています。「小学校がイメージしてくるすいすい組。 幼児期までに育ってほしい10の姿。 これが育まれていることを感じる姿がよくよくみえてくる最近のすいすい組です。」と。

小学校がイメージしてくる、というのは、小学校へ就学すること想定すると、こんな姿を捉えてみたくなる、意識してみたくなる、そうした窓でそんな姿を切り取ってみると・・・といったことでしょうか。そうしたら、そこに「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」でいう姿が見えている、というわけでしょう。例えば、こんな姿です。

◆泣いているお友達がいて、「どうしたの?」と駆け寄り、(お当番一人でやるの嫌)理由がわかると「そしたら一緒にやってあげようか。」と提案する姿。

◆自分のお当番の日ではないけども、「先生。今日は○○がお休みでいるからお当番変わりにやるよ」といって、エプロンを取りに行く姿。

◆「今日は○○が掃除当番やらないって、だから代わりにやってあげるよ」とお掃除当番に来る姿。

◆「昨日、また遊ぼうと約束していたから1階にお手伝いに行かないといけないから、いい? (その子が)待っているんだよ」と乳児の言葉に耳を傾ける姿。

◆「もう少し、こうやるといいんだよ」とエサのあげ方、関わり方のアドバイス、やらせてあげようとする姿。

◆「あ。私書けるよ。書いてあげようか。」(自分でやる)「そうわかった。あ、すごい上手!!!」と手伝っているようで寄り添っている優しさ。

◆「みんな。今はさ、○○をするときだから、もうはじまるよ」とリーダーシップ。

こんな姿が「子ども同士のかかわり」の中だからこそ出てくるものなのでしょう。さて、そうした関係の継続も小学校以降の生活と学びにどのようにつながっていくか、担任は気になっているようです。「架け橋」の向こう側でも、そうした人的環境を構築していってもらいたいと、担任は考えています。

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