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2023年 1月

赤ちゃんにどんな声をかけようか?

2023/01/31

(園だより2月号 巻頭言より)

昨日30日の0歳児のクラス日誌にこんな記述がありました。

「お友達のものが気になって咄嗟に取ってしまったRくん(1歳6ヶ月)、Sくん(1歳8ヶ月)が悲しくなってみるみる泣き顔になってしまうと、そのお顔にびっくりしたのか”どーぞ”とお返ししていました。Sくんがおもちゃを受け取ると2人してぺこり。どーぞ、ありがとう、どういたしまして、のやりとりが何度も、何度も行われていて、何とも微笑ましい場面でした」・・なんとも微笑ましい、赤ちゃんの育ちですね。

この様子から、何に配慮したらいいのでしょう? 先生はこう書いています。

「お友達の表情に気がつくようになったちっちさん達(0歳児クラス)なので、相手の気持ちに気がつけるようなやりとりを意識しながら関わりをしていきたい。また、言葉を真似しようとしたり、自分なりに気づいて欲しいことをアピールしたりする姿がたくさん見られているので、子どもの日々の気持ちの変化や気づきを拾って、たくさん共感や代弁をしていきたい。」

この日誌に対して私は以下のようなコメントを書きました。

「気持ちや感情の交流が先にあって初めて、それが表象であることばに一部が置き換わっていくと考えられます。すると、その言葉で「言えるようになる」以前に子どもが相手の様子に「感じる」「気づく」にあたる過程があるはず。だから確かに「(子どもの)日々の気持ちの変化や気づきを拾って、共感や代弁して」いく事が大事になりますね。(園長より)

・・どーぞ、ありがとうの心の交流は、気持ちの調整がついた後です。私たちが期待する育ちとは、咄嗟に手が出てしまう時に「かして」と言えるようになってほしい、と思うわけです。よく私たち保育者は、そういうことを言います。手が出る前に言葉が出てほしい、といったことです。それなら、声かけとしてやるべきことは、共同注意中の言葉かけが大事なわけですから、Rちゃんが「あ、それ、やってみたい」と思った瞬間に、保育者が「Rちゃん、それ欲しいんだね」「Rちゃん、それやってみたいんだね」の声かけがあるといいのかもしれないと、思った次第です。

それを聞くことで、Rちゃんは(あれ)「ほしい」「やりたい」のことばを獲得しやすくなるかもしれません。「貸して」と言える前に「ほしい」「あれ、やる」が言えるといいのかもしれません。その上で、次に「かして」が来るはずだからです。貸して、の言葉が言えるようになることと、自己抑制の働きは相関するでしょうから、その発達が必要なわけでしょうけれど、少しでも「ことば」が役立つのなら。

ただ、そういう瞬間に保育者が気づけるのか、という問題はあるでしょう。しかし「自分なりに気づいてほしいことをアピールする姿」があるらしいので、「それほしい」を表している時間が少しあるのでしょう。そんな様子を見せているときに「あれやりたいね」「貸してもらえるかな」といった代弁や話しかけが大事なのでしょう。この先生は今年勤め始めたばかりに一年目の保育士です。よくみて、よく分析していると思います。

板橋や川越、平戸の保育園とリモートで交流

2023/01/30

園長同士がつながっていると、子どもの世界もつながりやすい。子どもたちの交流は、水平方向にも広げてあげたい。今日はWHOがコロナで緊急事態の宣言を出してちょうど丸3年だそうですが、東京・板橋区、埼玉・川越市、長崎・平戸市の3都県を跨いで4つの園の年長さんがZOOMで交流しました。

大人はリモートやSNSで、つまり電子化された「もの」を介してコミュニケーションの大半をやり取りできますが、子どもはそうはいきません。目に見えるものは、実際に手にして触っていじって操作して・・がないと、なんだか体験が実質化してこない感じがします。やったという感じが、心もとない。そこで、やっぱり、実際に歩いて、あるいはバスや電車で出かけて会いにいくのですが、それだとあまり遠くには行けないというということになります。

このコロナ禍の3年の間に、大きく変わったのはリモートでのやり取りが気軽にできるようになったことです。パソコン越しですが、遠くのお友達との対話ができるようになりました。今日やったのは、それぞれの園についてクイズで紹介したり、子どもがマイクを持って外面越しに自己紹介(名前と年齢や誕生日など)したり、何をして遊んでいるかを質問しあったり、最後はみんなが踊れるだろう曲(パプリカ)でダンスを楽しみました。

テレビやスマホ、パソコンが身近にある環境で育っているこの子たちは、スクリーンやプロジェクターにも慣れているので、そこに注意を取られることはあまりなく、スクリーンに映っている相手の子どもたちとのやり取りに集中していました。声が聞こえない時に、頭上に腕でバツを作って「聞こえない!」のジェスチャーを送ったり、「きこえますか?」と聞かれて、聞こえるときは「マル」とやっています。ギャラリーに設定しておけば、参加しているメンバーの園の様子や子どもや先生の顔が写り、自分達もそのコマの一つに並んでいます。

年長さんたちは、そこにそうやって映し出されている映像について、手を振れば手を振っている自分達の姿がそのまま写っているということを受け入れてみています。あまり驚きもしないのは、普段から園内での会議がリモートになり、先生のパソコンにフロアの異なる先生たちの会議のやり取りをそばで見ているという経験なども影響しているのかもしれません。画面越しに映像も声も映しあってやり取りしていることが、日常的になっているからです。

だとしたら、画面に今日写っている長崎県平戸市も、埼玉県川越市も、板橋区もここからの距離感というものは全くイメージできていないでしょう。私たち大人も毎日テレビ中継でウクライナのキーウからの映像もソウルのマスクを外した街角の映像も、行ったことがあるところとそうでないところとは、身近さが違います。さて、この続きはどう考えていくといいのでしょう。

子どもたちも、行ったことがある場所やあった事があるお友達、知っている場所とそうでない場所、共感を持てる間柄になっている対象とそうでない対象、あるいは自分の中に入ってくる世界になる場合とそうでない場合、・・・いったい何がその違いになっていくのだろう、どんな体験の積み重ねを計画していけばいいのだろう。外国の子どもたちと、通訳を介してでもやり取りをしてみたい。日本語ではない言葉との出会い方。それでも通じるという体験。

2年前の秋、私が田んぼに出かけて稲刈りをしている様子を実況中継したことがありました。子どもがよく知っている私を通じて、私がいわば子どもの擬似アバターのような役になるのではないかとそのときは期待してやってみたのですが、どんなだったのかはよくわかりませんでした。子どもたちの中に、どんなことが起きているのか、あるいはどんなことを起こすといいのか、考えてみたいリモートの体験です。

実験的な「お楽しみ会」に

2023/01/28

今年は実験的というかチャレンジングな「お楽しみ会」を試みてみました。3歳児以上の幼児はふだん一緒に生活しているので、そのままの生活の中から、お楽しみ会を作ってみよう。そんな発想から子どもたちが作った目標が「お父さんやお母さん、お家の人に何をしたら喜んでもらえるか、何を一緒にしたら楽しいか、考えてやってみよう」というものでした。そこでやりたいことを話し合っていくうちに、3つの活動ができ、その中でさらにやりたいことが分かれて分岐していきました。

3つの活動とは「好きな遊びを見てもらう」(3階)、「お店屋さんを開く」(1階)、「ごはんを作る」(2階)です。好きは遊びは、積み木、ままごと、制作、運動。お店屋さんは、キャンデーやたこ焼きなどの食べ物屋さんでした。

ごはんは、本物のホットケーキ、ラーメン、アイスを作りました。いずれも、それぞれの小グループが話し合いながら、役割分担して、協力して考えて創りあげてきたオリジナルなものになりました。

コロナ対策もあって、この2年間はライブ参加がなくなりました。令和2年は劇や合唱・合奏の録画上映(映画館方式)、令和3年は動画配信でしたが、今年は本来のライブ参加に戻しました。

ただ依然としてコロナ禍の感染対策規制は外れないので、2回の実施に分け、乳児は12月にそして幼児は今日、1月28日(土)に実施できました。いつ延期になってもおかしくない、綱渡りのような判断の中での、ヒヤヒヤな中でのライブ実施でした。来賓や姉妹園の交流見学も控えたままです。

くどいようですが、ノロウイルスやインフルエンザの時期でもあり、そうした感染対策も講じなければならないこともあって、3つの活動を3フロアに分散させ、さらに開始時間も少しずらして午前中に実施しました。

こんなに多くの親御さんに来てもらい、子どもたちと一緒に遊んだり、子どもが作った料理を食べてもらったりしたのは、3年ぶりというか、活動内容としては初めてになります。

しかし、中止や延期になっても平気です。そんな本音もあるのです。どういうことかというと、参加してくださった後なので正直に申し上げますが、行事は「おまけ」みたいなものなのです。今回の「お楽しみ会」の最大の苦心と、チャレンジングなことは、すでに終わっていたからです。

本当は今日の姿に至るまでの「過程」の方に、ほとんどのお伝えしたいこと、大事なことが起きていた、ということです。それはフルコースの料理に例えるなら、今日のお楽しみ会は最後のデザートでした。前菜やメインディッシュはこの1ヶ月の日々の中にありました。その様子はドキュメンテーションとして掲示してきたものになります。

そこで何が起きていたのか、何を体験してきたのか。それは、これまでの遊びや活動の中にありました。今日もその一端を色々と見せてくれたのですが、今朝は私の挨拶の中で、全米教育協会が提唱している「4つのC」の枠組みを使って説明しました。

さて、どうだったでしょうか。このような試みが来年も同じ形になるとは思っていません。子どもの言葉や表現の領域には、今回なかった物語や音楽の世界も大事なので、そうした活動の様子もお伝えしていく機会は継続していくつもりです。

 

30分の交流の大きな成果

2023/01/27

今年3月に卒園する予定の園児9名が、最も多く就学する小学校へ訪問してきました。10時からお昼休みが終わるまでの約30分。それでも「楽しかった」「面白かった」と、小学校の印象がずいぶんと明るいものに変わりました。

こういう地道な交流は基本的に積み重ねるべきなのです。先生との連携やカリキュラムの接続までの道のりは遠いのですが、それでもできるところからやれば、それだけの結果は返ってきます。

1年2組と3組の2クラスが迎えてくださいました。9人の年長児が2グループ(年長担任と私)に分かれ、2組は音楽、3組はこくごの時間(2時間目の後半15分)にお邪魔したのです。よく寝られた準備をしてくださったおかげて、園児の緊張感は解きほぐされ、小学校は思っていたのと違って楽しいところだと感じたようです。


私のグループが入った3組では、私が担任とアドリブで「保育園からきた園長先生と子どもたちです」「4月から1年生になります。よろしくお願いします」とあいさつしてスタート。3つのグループに分かれて①なまえをきく②あいさつリレー③かたつむりのゆめ・はちみつのゆめ④セブンイレブンじゃんけんーを用意してくださっていました。

あいさつリレーは輪になって、「◯◯くん、こんにちは」というと、言われた方が反対側の子に、また「◯◯さん、こんにちは」と順送りに「あいさつ」をリレーするというもの。遊び活動の中で、なまえを覚えやすくしたものです。お話はすでに覚えてしまっていて、空で読むように話してくれました。そして、「セブンイレブンじゃんけん」とはグーがZEROで、1〜5までの、好きなものを出して合計が7や11だったら「できた」というもの。

最後は席に座らせてもらって、1年生になった気分にさせてもらうと、ちょうど中休み。そのままのグループで何して青部?と話し合いが始まって、校庭へ出て鬼ごっこなどをして遊びました。一緒に生活したことのある卒園児との交流もできました。

誕生会に質問タイムがある意味

2023/01/26

これもよくある光景なのです。「はいはい」と元気よく手が挙がるのですが、実際に「◯ちゃん」と当てられると、「・・・・(沈黙)」というパターン。26日(木)に開かれた誕生会の時もありました。

毎月1回、その月の誕生児を祝うのですが、集まった園児たちが、誕生席にいる園児に質問をするのです。大抵は「どんな遊びが好きですか?」とか「好きな食べ物はなんですか?」と言った質問が出ます。質問したいと、たくさんのハイハイ!の手が挙がるのですが、本当に聞きたいことがあるからではなさそうです。とにかく、手を挙げたいのです。当てられてから質問は考えればいいとでも思っているかのように、当ててもらうために手を上げている感じです。それって、どういうことなんでしょう?みていると、はいはい、とたくさん手があっているのに、誰に当てるかを決定できる誕生児は、なかなか当てません。誰にしようかな〜と、もったいつけると言っていいくらいに、時間をかける子もいます。

「あの、質問タイムって、どう思う? パターン化してない? 毎回やる必要があるのかな?」

そう、私が主任に尋ねると、意外な答えが返ってきました。

「あれは、結構子どもに人気でやりたがるんですよ。自分で誰に当てるかを選べるので、自分の思い通りにできる感があるんです」

多くの視線が自分に集まり、注目され、最終的な決断が任されている感覚。まさしく「お姫様席」にいる実感があるんじゃないか、というのです。聴衆を取り仕切っている感覚が、自分の特別感を盛り立てているのでしょう。そういうオーラの中で、主人公であることを確かめるものとして、あの質問タイムはあるのでしょう。そういえば、なぜか、誕生児は冠を被っているのでした。王子様なのです。えっへん、我に質問があるものは、申し述べよ。今日は特別じゃ、何なりと菊が良い、というわけですか。なるほどね。

わあ、冷たい!という「感情」の体験

2023/01/25

私たち保育者は子どもが関わっている対象に注目するとき、子どもの感情に誘われることが多いことに気づきます。子どもが笑ったり、驚いたり、騒いでいたり、面白そうなところに群がっていたりすると、すぐに私たちも「なんだろう」と思って近づきます。今朝は冷え込んだので、ベランダに水を入れて置いておいた容器に氷ができていました。大小さまざまな形の容器に1センチぐらいの厚さになっていた氷を取り出して手に持って、動かしています。

・・・ツルツル滑るし、重いし、透明で向こうが透けて見える、落とすと割れるし、しばらくすると溶けて、雫がおち、床が濡れます。先生も「いや〜、床がべちょべちょで水浸しになっちゃって」と楽しそうです。神田川に面しているベランダは、朝はやくから、子どもたちの「やってみなけりゃ、わからない、実験室」になっていました。

でも、大人は触ろうとしません。もうそれは知っている、と思っているからなのか、冷たいから嫌なのか、触ってみるほど興味を持つわけでないのでしょうね。

朝の登園時間の、この大人と子どもの「くっきりとした差」が表れている光景を眺めながら、子どもは面白いものに近づてゆき、触って確かめたり楽しんだりするものだということを、改めて感じます。

やり尽くした子どもたちは、満足気な上気した顔と手を、見ていた私に差し出します。少し赤くなった子どもたちの手を包んであげて「わあ、冷たいねえ」と、温めてあげました。氷の冷たさと私の温かい大人の手の違いを、子どもたちはどんな感情を持って受け取っているのでしょう。赤いほっぺと冷たい手は、私にとっては子どもらしい「面白がって世界と触れ合った証」でした。

食べちゃダメだよ、ホットケーキ

2023/01/24

 

ホットケーキを作ったから「どうぞ」と幼児クラスの子どもたち6人が事務室へ持ってきました。お楽しみ会のグループ活動としてのクッキングです。それが食べて欲しいんだか、食べて欲しくないんだか、よくわからない話をするから面白くて笑ってしまう。お皿いっぱいに、大きいのやら、小さいのやら、歪な形のホットケーキが何枚も乗っている。

「わあ、すごいね。みんなでつくったの? 美味しそうな匂いだねえ。ありがとう」

そうお礼を言ってお皿を受け取る。でもHちゃんは帰らない。

「これはFちゃんの。これはHちゃん(言っている本人)が作ったの。食べちゃダメだよ」

「え? ダメなの、食べちゃ」

「うん、だめ、食べちゃ」〜。

じゃあ、なんでも持ってきたんかい?!

「そうか、食べちゃダメなんだね、わかった。とっておくからね」。

あげたい、でもあげたくない。

作ったら見て欲しい、でも食べない欲しい。

・・・・そういうことか。

そうだよね、それが正直な気持ちなんだね。

感情はそう簡単に整理できるものじゃないもんね。

そんなアンビバレントな感情を込められたホットケーキは、

とっても食べにくいものとなって、サランラップがかけられたのでした。(笑)

♪鬼はそと、福はうち〜

2023/01/23

♪鬼はそと、福はうち〜、パラパラ、パラパラ、豆の音〜という歌の声が聞こえてくるようになりました。保育園での生活の特徴に季節感を子どもに感じてもらうということがあります。日常生活から感じる季節の移り変わりは自然が伝えてくれるものが多いのですが、日本独自の習慣や行事からも子どもが気づくことが結構あります。2歳児クラスの日誌に次のような記述がありました。

・・・・・・

節分についての話をするとFちゃん、Rちゃんの方から「オニのお面を作りたい」という声があった。顔や目のパーツをハサミで切れるように作っていると、Fちゃんが近くにあった鬼の絵を見ながら、自分なりにクレヨンで髭や髪の毛を描いて作り始めていた。

井形ブロックを組み立ててあそんでいたYくん、Sくんもお面を作っている2人の様子を見て、興味を持っていた。

Sくんもハサミの使い方に慣れてきて、自信がついてきたようで自分から〇の形を切りたいと言って、作っていく姿があった。

お面を作る中で、「次はどうやるの?」と大人に手順を聞いてくることがなく、自分なりにこんな風に作りたいというイメージを持っていることに感心させられました。日々の遊びの中で、わらすくみ(3歳以上の幼児)の制作の様子を見たり、子どもたち自身が道具や素材を使い込んでいくうちにどんなことが出来るのか、何が必要なのかと見通しを持てるようになってきたのかなと感じました。

・・・・・

子どもの作るものを定番化させず、普段からいろんなものを材料に使って、何かの形にしていくという遊びを十分にさせてあげたい。作っていく途中にその子なりの工夫や考える力、創造性が見られるでしょう。そして作った後でどうなるか、そこからまた何かに気づき、新しい展開が始まるかもしれません。お友達同士での刺激の中で、「やりたい」が重なっていくことで徐々に協同性に向けた展開も期待されるところです。

そういえば、節分で鬼が子どもを怖がらせることには、何の意味ないと思います。大人が本心から鬼や悪魔が心の中にあること、子どもの人権を遠ざけている心が鬼であることとつながっていることに無自覚なうちは、形骸化したイベントが続くのでしょう。

保育における「解像度」とは?

2023/01/21

(青木尚哉さんのfacebookより)

公園に行ってきてどうだった?と聞くと、いろんな子どもの姿が報告されます。◯◯さんがどうだったとか、こんな時にこんなことがあったとか。出来事としての事実と、その事実から感じ取れる「よかったこと」が、よく語られます。子どもが楽しそうだったこと、面白がったこと、興味を持ってやったこと。見たり、聞いたり、触ったり、気付いたり、操作したり、そうした姿が日誌にも描かれています。そして、時々主任と話すのは、どこまでその意味を掘り下げて説明するといいんでしょうね、ということです。

ダンサーの青木尚哉さんと語ると面白い。一般的にアーティストの視点は学ぶことが多くて面白いということもあるのですが、青木さんの場合は自分がやっているダンスを習う人に教えるために、自分の表現ができるまでの過程を細かく分析して、そのダンスが出来上がるまでのプロセスで何が起きているのかを可視化しようとしているからです。その取り組みはまさしく保育の可視化に似ていると思い、語り合っているときに、これは、と思ったのは「解像度」という言葉でした。

青木尚哉さんのコンテンポラリーダンスは、常に即興的なので、変化する周りの環境との相互作用そのものが身体の動きになっていくので、そこには意識と自己の身体と空間の間にある無限の変化をモニターしながら、自身を動かすということをしています。頭から爪先まで、あるいは腕の指先から身体の中心まで、全身に数十箇所ものポイントを意識して、踊ります。

意識するというのは、そのポイントとポイントの線、面、図形、立体などの点や線(曲線や延長線も含めて)、図形の動き(とその軌跡を含めて)をその瞬間、意識して動かすようなことをイメージしていくのだそうです。ちょっと素人には想像できない身体感覚なのですが、その意識している内容の解像度を上げすぎると、ダンスとして意味のないものになり、解像度が粗雑すぎると、使い物にならないという、可視化のちょうどいいレンジがあるというのです。

保育の質は子どもの経験のプロセスを吟味して、何かの表象(ほとんどが言葉)で捉えることになるので、その時に「解像度」という概念が使えるかもしれないと思ったのです。テレビの液晶画面は、2メートル離れたところから見るなら、そこからの解像度で構わず、20センチほどから見るグラビア雑誌のインクのドットほど微細である必要はありません。

印象派の画家が描くときに、どの距離から眺めるのかということを想定して描くように、人の視力と脳の自動処理の関係から適当な解像度で描くことになります。子どもが身につけていくもの、世界を取り込んでいく内容は、生活という解像度にあった認識で構わないのでしょう。誰もがそこで了解しあえる言葉で、子どもの姿をとらえていく。

そうだとするなら、保育者が子どもの姿を捉える関係の網の目について、程よい解像度というものがあって、ある意味で写真のピクセル単位に相当するような、点や線や面や立体を想定してみたくなったのでした。すでにやっていることかもしれませんが、それなら、粗雑なもの、細くすぎるものとは、どんなものなのなのだろう? そんなことをふと、思ったのでした。

年長さんの大目に見てあげる

2023/01/21

保育園では協力ゲームを多く取り入れるようにしています。戦争の教訓からできたEUは移民受け入れを巡って対立が起きていますが、それでも「コーヒージョン」(粘着、団結、結束などの意味)を大事していることから、見習いたいことが多いのです。幼児教育でもそれがボードゲームのルールに反映さえていることがわかります。最後に誰が勝って終わりというゲームではなくて、勝者や敗者はおらず、いかに協力して何かが達成できたか、という競争よりも協同を育もうとしているボードゲームが多いのです。

そんな遊びに親しんできた園児たちは、競争の面白さに加えて、年下の子のやろうとしていることを大目に見てあげたり、協力し合うことを好む傾向も育ってきたと感じる場面が今週ありました。それは本来、早く揃った人が勝ちである「レシピ」というカードゲームを、年少、年中、年長が混ざって遊んでいたときです。作りたい料理のカードには、カレーだったらそのカードの下の方に、肉やじゃがいも、にんじんなどの材料の絵と名前がかいてあって、それをみながらテーブルに他の子が捨てた食材カードと交換していきます。その競争ゲームを始める前に、どんな料理を揃えて「ごはん」にするかをカードで確かめ合っていたそうです。その様子を、担任がクラスブログに書いているので紹介しましょう。

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カードゲーム「レシピ」 を楽しんでいる子どもたちです。

正式ルールの前段階の、ご飯作りをしています。

このゲームは、自分が作る料理のレシピカードを見ながら、作るために必要な材料を集め、そろえるゲームです。 いらない材料を場に捨てて、新しいカードを手に入れるのですが、場に捨てられたカードはもらう事が出来るのです。「ください」「いいよ」とやり取りしている間に、次はだれの番だったかなど動きが目まぐるしく、あそびながら順番を守るというよりも、ゲーム全体がどう動いているのかを広く見ていく力が必要であることがこのゲームの面白い所です。 相手や自分を意識し続けるということは、社会の関係性に広い目で見ていく力ともいえて、とても面白く力が必要な事が分かります。 今日は、交代交代で午前中止まることなく遊び続けていた子どもたちでした。

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全部の食べ物の材料カードの中には一枚しかないものがあり、それだけで料理との1対1の対応になっているものがあります。例えば、その絵の「豚肉」は酢豚の材料だとすぐわかるので、「ください」といっている子は酢豚を作ろうとしているとわかってしまうのです。そこで、何を作っているかがわかると、交換したいけどどうしようかな、他の子は何を作ろうとしているのかな、と「考える」ようになります。駆け引きのようなことがおきます。そして「ください」「いいよ」はランダムに起きるので、本来の順番とは別です。

その本来の順番が「次、誰だっけ」とわからなくなったとき、ちゃんとわかっているのが年長の「KくんとKさん」だそうです。その子たちは、年少の子たちが作ろうとしている料理も作らせてあげるために、持ち札を捨ててあげたりしているあたりに、本来の競争ゲームではない段階での配慮というか、優しさのようなものが見られたらしいのです。発達の異なる子どもたちが一緒に遊ぶ時に昔よくやった気がします。異年齢保育のよさかもしれません。

随分前ですが、協力遊びの重要性を学ぶために、オランダから講師の方を招いて複数の保育園が集まって研修を受けたことがあります。いくつもの活動や遊びを学んだのですが、象徴的だったのが全員が勝つ「椅子取りゲーム」です。普通の椅子取りゲームは、最後まで残った人が勝ちですが、講師のアナマイケさんでやっているものは、だんだん椅子が少なくなっていくと、どうやったら狭いスペースにみんなが譲り合って座れるかを協力し、一番少ない椅子はどれがを競うのです。今で言えば持続可能な共生社会のためにいかに協力できるかを、子どもの頃から学ぶのだというのです。協力型のボードゲームが日本製にはあまりありません。そこで海外ブラントのものを取り寄せて購入しています。

 

 

 

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