乳幼児がどんなふうに倫理観を発達させていくのだろうと思う時があります。昨日のことですが、3歳4歳5歳の子どもたち(実際には満4歳〜6歳になっている)が、ぞろぞろと揃って私のところに謝りにやってきました。「どうしたの、揃いも揃ってそんな顔して」というと、黙っているので「あ、なんかよくないことやったんだなあ」というと、うんと頷く。(可愛いなあ)。すると徐に、1メートル四方ぐらいのスチレンボードが引っ掻かれて、穴が空いているところがあるのを、付き添っている担任の先生が見せてくれる。どうも、遊んでいて引っ掻いて、破ってしまったらしい。
そんなことなら別に謝る必要もないだろうに、話を聞いていると、年長の他の子どもたちが「いたずら」を止めに入り、やめないから先生に言いつけて、その後話し合いになり、これは園長先生の大事な持ち物であり、それを引っ掻いて破って穴を開けるなんてことをしたのは、よくない、園長先生に謝りに行くべきだという結論になったそうだ(先生がある程度、誘導しのだろうが)。素晴らしい。
それだけでも、立派な子ども立ちだと感心したのだが、謝りにきた子たちに、あえて聞いてみた。「どうして謝るの?」そうしたら、Sくんが、犬かきのようは身振りをしながら「ダ〜ッてやったから」という。隣にいた4歳のKくんは「Hくんもやった」と、叱れると勘違いしたみたいで、自分だけじゃないことを主張する。それがまたKくんらしい。どうも、どうして謝らないといけないのか、分かっていないようだ。これはまずい。
やってはいけないと言われたけど、止めずに続けてやったことがよくない。そう思っているようだ。そこで私はこう言ってみた。「この柔らかい板はね、スチレンボードっていうんだけどね、皆んなが運動ゾーンで遊んでいる時に、危なくないようにこれを置いてたでしょ。みんなんが怪我しないように守ったりするときに使ってたよね。だから大事なものなんだよね。あ〜あ、こんなになちゃった。どうしようかなあ」と。
すると、もっとも率先して「いたずら」をリードしていた子が、私が困ったなあ、という気持ちでいることがどうもわからないようで「ノリでくっつけたらいい」と修理の仕方を熱心に教えてくれます。
そこでもう一度聞いてみた。「ねえ、悪かったなあ、って思うかな? そう思う子?」と聞くと、みんな手が挙がるではないか。そうか、みんな相手(つまり私の)の残念がっている気持ちは伝わったのかな?(あまり、そうは見えないが)
「悪かったなあって、思っているから、ごめんなさいなんだね。分かった、園長先生はね、みんなが悪かったなあって思うなら、許してあげる、だからもうしないでね」(言いながら、これでいいのかなあ?とよくできた話になってしまったなあと思いながら)
と話したのです。するとSくんはこういうのです。「こらあ、って怒鳴られると思った」と。(え!怒られるじゃないのか、ドナラレルなんだ!)子どもたちは一人ずつ、自分のやったことに対する反省の気持ちが違うのでしょう。家庭も含めた経験の積み重ねが、その子どもの内面を形成しているんだな、と感じます。悪いことをしたら怒られて謝る、という紋切り型の一連のセットのようになってしまっている事態を、もっとときほぐして、一旦バラバラにして、つぶさにみていきたいとさえ思います。彼らの中の心の動き、その彼らにとってのリアリティを感じながら、生活ができたらいいのですが。それこそ関係的、発達的システムとして、そこに発現されているリアリティとして。
そういえば、最近は言葉の使い方が難しくなって、例えば「真実」なんてことを真剣にいうと、そんなものはないんだと<真剣に>怒られそうな記述に出あうことがあります。でも自分にとってはリアリティのあることしか語りたくないので、それが私には真実であるという言い方は、間違いじゃないと思っています。私が感じて考えていることが、そうだから、嘘は言いたくないし、言えない、そういう意味で真実ですと。そのことがあなたはそう思わないかもしれませんが、それも貴方の真実ですよね、というような、そういう会話や対話のことです。そういう相対的な主観的真実の並行世界。でも、一方で、それを加速させていいのかな?という根本的な危惧も覚えます。
そしてもう一つ。これは全く個人的な知的関心なのですが、倫理の発達と遺伝の関係です。ウォディントンの「エチカル・アニマル」を読んでいるのですが、80年代のものなので、もう相当古いのでゲノム解析も終了して随分経つ現代は、進化と倫理の関係はどう理解されているのかと調べています。彼の唱えていた遺伝的社会伝達システムという考えはどう評価されているのか、何が生き残っているのかいないのか、というあたりをです。