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2023年 4月

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

誕生会の絵本プレゼントとせいが文庫について

2023/04/28

誕生会は、一人ひとりに保育園から絵本と手作りの色紙がプレンゼントされます。絵本はその年齢に合ったものを基本的に私が候補リストを挙げて、その中から先生たちがその子に合ったものを選びます。子どもの誕生を祝うもの、成長や大きくなることを慈しむような内容のものです。

毎月、書店には新しい絵本が並び、どれを買っていいのか迷います。そこで保育園には「せいが文庫」を設けて、ご家庭に貸し出しています。定期的に代表的な有名な絵本を、計画的に揃えてきました。誕生会では、そのリストにもまだ入っていない、けれどもいい絵本を選びます。

絵本選びの基準そのものも、選んでいます。私の基準は絵本に造詣の深い方の推薦です。作家自身のもの、編集者のもの、絵本研究者のものなど、絵本屋さん推薦のものなど、それだけでもかなり色々あります。その選び方の基準を知るのも楽しいものです。

始まりは馴染みやすいものから〜4月の誕生会

2023/04/27

4月の保育は慣れ親しんだもので安心するような内容を意識して取り入れています。給食の献立も家庭で食べことがあるようなもの。メニューの名前から想像しやすいもの。慣れていくこと、安心でいることは、子どもがそれ「知ってる!」といることが、その子どもが初めての場所を歩いていく近道だからです。それと似たこととして、玄関には金魚が泳いでいます。行事の出し物にも、その発想が入っています。

当園の誕生会は、乳児0〜1歳のクラス(1階)と幼児2〜345歳のクラス(2階のダイニング)に分かれて、開かれます。いずれもその月に生まれた子どもたちをお祝いします。一人ずつの手形の色紙と絵本をプレゼントします。藤森平司作詞作曲の「たんじょうかいのうた」を歌い、先生による小さな出し物があります。

4月27日(木)の、今年度最初の誕生会では、乳児では、くだものケーキをエプロンシアターで作りました。子どももケーキにフルーツを乗せる参加型です。

幼児むけには、ちょうどアゲバチョウの観察や、その卵がこれから「手に入る時期になる」ことを見越して、エリック・カールの大型絵本「はらぺこあおむし」を使った歌とミニ上演をしました。

その前に導入として、厚紙で作られた手製の仕掛け遊具で遊びます。開くと卵が出てて、さらに開くと蛹になって、最後は蝶になって・・また葉っぱになって、と繰り返す仕掛けのもの。

それにつけた「お話」も、最初はゆっくりと語り、また同じ絵が出てくると、あれ、同じだ!と気づき、3回目になると「またあれだ!」「また、そうなるぞ1」と予想して、面白がり、実際にそうなると「やっぱり!当たった!」と嬉しくなり、「またやって!」と期待します。

このような遊びを見ていると、知らないものが既知のものに変わり、そこから新しい見通しが現れ、それが実現していくことのワクワク感を感じます。繰り返されること、小澤俊夫さんの昔話の3回繰り返しのことを思い出しながら、知らない世界に入り込んでいく仕掛けのようなものを考えながら、その様子を見ていたのです。

先生の演じ方は、また同じものが現れることに先生が「驚いているふりをしていること」がわざとであることに気づき、「そんなこと、またわざとやって!」と面白がっています。先生の冗談を冗談としてわかり、ニヤニヤしているのは年長の数人です。

 

アゲハの綺麗な模様

2023/04/26

保育園のみかんの花が咲いたと思ったら、子どもたちが早くもアゲハチョウを捕まえてきていた。

和泉公園から帰ってきたら虫かごに「アゲハ」が入っている。綺麗な模様。虫眼鏡で覗き込んでいる。散歩に出かけるときは虫とり網や虫かごが必須アイテムになってきた。

鯉のぼりを子どもと揚げる

2023/04/25

「それって、面白そうだから、子どもに見せたいし、触らせてみたいね」。

そんなことがたくさん出てくるのが保育園です。大人ならすでに経験済みなのでしょうが、子どもには「楽しかった」こととして残っていきます。

今日のおやつは練乳クッキーでしたが、長い棒のようして、一旦凍らせれから輪切りにします。そして焼きます。その途中を子どもたちにさせてあげたいと思うのでした。

そういう意味で今日一緒に体験できたのは、鯉のぼり。数人の子どもたちと揚げました。

いったん、揚げてお終いではなく、上げ下げを毎日のように数人ずつ行います。今日25日も夕方から雨になる予想なので、この後、やりたい子数人と降ろします。

今もお迎えのお母さんとの会話も楽しそうです。

「今日、鯉のぼりやった」「え、朝なかったよね、鯉のぼり」

「うん、いっぱい揚げた」「そう、よかったね」・・・

 

環境との関わり方や意味に気づいていくプロセス

2023/04/24

私がぶらぶらと園の中を歩き回っていると「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」と2歳児クラスの女子二人が私にそう言って遊び始めました。「〜やるの!」のところで両足でピョンと飛び跳ねながら、抱きかかえたぬいぐるみを振り回しながら、足取りも軽やかにルンルンしています。自分がこれから始めることをそう言って始めるのは、それが楽しいことで、それを人に伝えたいコトになっているからでしょう。そこに気を許せる親しい人(私)が来たから、またそれはすでに知っている担任に言うのではなく、今ここに現れた私にいうのは漠然と「この人はそれを知らないだろうから」と意識したか、しないかはわかりませんが、とにかく私に教えてくれたのです。

子どもが言葉を獲得していく過程には、自分が伝えたいことがあって、それを親しい人や好きな人、特定の大人に伝えようとして、表現し始めるのでしょう。その時、私が現れなかったら「これからお店やさん、やるの!。これから準備するの」という言葉は発せられなかったかもしれません。彼女たちの表現にとって、私はそれを引き出すきっかけになったとわけです。私が現れただけで、彼女たちにとっての環境は変化し、言葉を引き出すリソース(資源)として働いた、と見ることもできるのでしょう。その子がそう言った時、多分あまり意識しているとは思えないので、無意識的なメカニズムが働いているように見えます。

そのような人と人、人ともの関係やかかわりに焦点を当てながら、その時のことを振り返ると、どうしてそういうことが起きたのかな、ということの理解の仕方が、変化することを実感できます。本人の特性にだけ還元して「気になること」をその子どもの原因として語るようなことではなく、そこで創発したことの複雑な要因のネットワークに視線を凝らすようなことが必要だと思えてきます。

人やものからその子どもに届く情報は、子どもにとってそれ見るだけで伝わってしまう意味が色々あって、それがその子どもの認識の変化を引き起こして、あることが気づかれたり、わかったり、できたりするように見えてきます。またそうやって発した言葉を聞いた私が「そう、お店屋さんやるの、いいね、何屋さんになるんだろうねえ」などと応えるものですから、より嬉しく思え、また楽しくなったりして、子どもが思ったことの注意の向かう仕方に影響を与えます。昨日までの話の続きに戻るなら、環境との関わり方や意味に気づいていくプロセスの一コマのようでもあります。

その子たちの遊びは、その後、延々と展開されていきました。このようにちょっとした「一コマ」をあえて虫眼鏡で拡大するかのように取り出しているのは、環境と子どもの間に起きている相互作用と言われているものの姿をよく理解し直したいからです。なぜなら、子どもにとっての経験のあり方をどう捉えるのかということについて、私たちの方が見方を変える必要性を感じているからでもあります。それは無藤隆先生の導きが大きいのですが、併せていま私が面白がっているのは佐々木正人さんの説明しているアフォーダンスと、鈴木宏昭さんの認知科学の知見、そして戸田山和久さんの知識論になります。

象さん、なんであんな風に動かないのかしらん?

2023/04/20

今日紹介したいのは「見方・考え方」を考えていたときに出会ったエピソードです。毎日のように、子どもと接していると、ちょっとした小さなエピソードがたまっていきます。流れていく生活の中から何を「エピソード」として拾い出すのか、何を考察する対象として振り返るのかは、こちらがかけている「メガネ」次第。「あは〜ん、やっぱりこちらが見方を学ばないと見えてこないなあ」と思い巡らしながら、これを書いています。私の「思い巡らし」は、ただの迷い道みたいなものなので、そのことは棚上げしておいて、それよりも子どもが「思い巡らす姿」に出会った時のことです。4月19日に乳児の部屋でしばらく遊びをそばで見ていました。

すると、私と衝立てで「いないいないばあ」をしたがる子がよって来て、私が相手をしてくれることを期待して、私と衝立を挟んで自分から、いきなり、しゃがみ始めたりします。<お、もう始まるの!>と私がちょっと慌てますが、子どもは思い立ったが吉日、待ってはくれません(笑)。でも、同時にまた別の子が玩具の自動車を「ほら、これ」と言ったふうに見せてくれたり、読んでほしい絵本を持ってきて私のそばにドンと置いたりする子も来ます。

今日の振り返りはこっち。どんぐりのような形をした木製の人形が、コトコトと坂道を下っていくおもちゃがあるのですが、さっと動かず、ゆっくりとコトコトなので、1歳4ヶ月のその子にとっては面白さがまだわからないようでした。握ってはポイ、という状態。どんぐりが壊れていないか点検を兼ねて、私はあまり意識せずにそばにあったレゴの象さんを手にとって、自分で坂道を動く人形「どんぐり」を追いかける遊びを何度か繰り返しました。私が像を揺らしながら「待て待て〜」とどんぐり追っかけます。まな板の台から落ちるときに「どて!」と倒れるという遊びです。先生はふだん私のように「介入」しない方がいいのですが、まあ、結果的に遊びのモデル提示みたいになってしまったケースです。というのは・・・

(写真はカタログから)

どんぐり人形遊びを終えてしばらくすると、それを見ていたらしい別のSくん(1歳10ヶ月)が近づいてきて自分でまな板の上にレゴの「象」人形を置いて、動くかどうか置いてみてたのです。私は手でゆらゆらと動かしたのですが、その子は自分でその動きをするかどうかまるで確かめたかったかのように、置いたり揺すったり試行錯誤しているのです。これは私の解釈ですが「あれ、動かない」といった風に見えます。そこで、その姿に私は「思い巡らす」がぴったりだな、と感じたのでした。

(写真はカタログから)

「思い巡らす」ということを学んだのは、ある教科書の「幼児教育の根幹」と題する「見方・考え方」を解説した文章からです。それをいかに引用します。

「・・・(子どもが)環境の関わり方を知り、こうしたいという思い気持ちをもち、それを取り込んで、自分のものとして自分の力でやってみたいと思うことから試行錯誤が生まれる。これは体を使い、諸感覚を使いつつ、思い巡らすことである。思い巡らすというのは、「じっくり考える」「あれこれ悩む」「こうかなと思う」「こうしようとする」といった、子どもの内面的な、知的であり情動的なことを表現した様子である。」

どうですか?乳児もいろいろ「考えている」んですよね。保育界ではルチアちゃんの時計エピソードが有名なのですが、私にはその事例の分類ケースにこれが加わりました。そして、その子の姿を見ていたら、なんだか私と同じだ!と思えてきます。私のワーキングメモリーは「環境との関わり方や意味に気づき」という言葉の謎解きで、「メモリーいっぱい、もう録画できません」のビデオデッキみたいで、外付けのハードディスクが、最近はchatGPT経由のクラウドに移っていく予感を感じています。

ちなみに、幼稚園教育要領の「見方・考え方」は「〜考えたりするようになる」ですが、無藤先生の文章は以下のものです。私はこっちの方を併せて、じっくりと「思い巡らして」いるところです。鈴木宏昭さんの「思考力などのきわめて曖昧な能力を検討しているきちんとした研究は現在では存在しない。そうしたものは中身が不明であるため、直接に研究を行うことはできないからだ」(ちくまプリマー新書『私たちはどう学んでいるか』P26)といった言葉に出あって、こういうことは「早く言ってよ〜」と、松重豊になりたい気分でもあるのでした。

以下は補足メモ。

「幼児がそれぞれ発達に即しながら身近な環境に主体的に関わり、心が動かされる体験を重ね遊びが発展し生活が広がる中で環境との関わり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして諸感覚を働かせながら試行錯誤したり、思いを巡らせたりする」(萌文書林「改訂 事例で学ぶ保育内容」シリーズの第1章「幼児教育の基本」から無藤先生の定義)

「幼児が身近な環境に主体的に関わり、環境との関わり方や意味に気づき、これらを取り込もうとして、試行錯誤したり、考えたりするようになる」(幼稚園教育要領)

上と下を比べると、無藤先生の方が長くて下線を引いたところが、要領にはない文言のところになります。

みかんの花が咲いている

2023/04/19

 

玄関のみかんの木に花が咲きました。

花の香り、どう?匂う?

ほら、蜂が蜜を集めてるよ。

「アゲハは?」

そうだね、アゲハもやってくる季節がもうすぐだね。

そして「はらぺこあおむし」の卵を子どもたちが見つけることになるのでしょう。

「資質・能力」をかみくだいた言葉

2023/04/18

私たちが普段日常的に使っている言葉遣いと、保育で使われている言葉遣いとの間にある開きを埋めるために、一種の日本語から日本語への翻訳に似たことが必要だなあと感じる時があります。その行ったり来たりに慣れる意味でも、専門用語のいわば「意訳」を使って、正装から普段着に、あるいは反対にカジュアルからフォーマルに着替えます。

(その「意訳」でいいんだ、と納得するためには、別の専門的な理解が必要になるのですが、私はどうしてそれでいいんだろう?とわからなくなることの方が多いので、できるだけ調べて「なるほど」と思えるところまで辿り着くようにしています。それでもまた新しい「?」が生まれるのですが)

例えば、子どもたちの姿を語るとき「資質・能力」の言葉遣いを取り入れる必要があります。知識・技術は「気づくこと、できること」ですし、思考力・判断力・表現力等は「考え、試し、工夫し、表現すること」ですし、学びに向かう力・人間性等は「おもしろく感じ、興味を持ったものにかかわろうとして、挑戦し粘り強く取り組み、また人と協力して一つのことを実現しようとすること」といった風に。

これに似た、近い言葉を連想しながら、それを用いてねらいなどを考えたり、振り返ったりします。保育にも国語力が必要です。

その具体例を今日18日(火)の乳児クラス(0〜1歳)のグログから見てみましょう。次のように書かれています。

・・・・・・・・・・

今日はお部屋チームとお散歩チームに分かれて過ごした ちぐん組です。(クラス単位、というよりも、子どもの様子や活動の内容など、一人ひとりの発達や体調などに合わせて過ごしています。)

お部屋チームは、テラスですこし外気浴をしました。はやくお外に出たいよ〜と、やる気満々です。
しゃぼん玉をふくと、追いかけてみたり、目で追ったり

 

ぐんぐん組のRちゃんも、まだ大人にくっつきたくなる瞬間もあるけれど、安心するとまた活発に動き始め、少しずつ笑顔も見せてくれました♪

ちっちのHくんは、マットの坂道の上り下りが得意技…!

下り坂のときは、ちゃんと後ろ向きに身体を回転させて、安全な下り方を知っているようです。色んな運動遊びを繰り返すうち、自分の身体の使い方や、”このくらいだったらできそう”というような自分自身の力の見通しも、だんだん分かってくるのでしょうか。

お部屋でもいろんな遊びを見つけます。

棚の影から「いないいない…ばっ!」

この笑顔にやられてしまいますね。

↑感触あそびゾーン。

↑Rちゃんは、ふわふわの上がお気に入りみたいです。

お昼ごはん。

Mちゃん、先生のひざの上は安心するみたいです。

U先生が歌ってくれる『ぐーちょきぱーでなにつくろう』の歌に合わせて、Mちゃんもちょこっと手をグー✊とパー✋にして動かしていました!

これは Kくんも、お気に入りソングです♪

一人ひとりのペースで、少しずつ保育園に慣れていけたらと思います。

・・・・・・・・・・

さて、いかがでしょうか?

こんな風に描写されている「子どもの姿」について、私たちは「乳児の3つの関わりの視点」や、先ほどの「資質・能力」の視点で振り返ることになります。自分自身の体の使い方がわかってくるというあたりは、乳児のかかわりの視点の中の「自分とのかかわり」がよくわかります。これが五領域、あるいは10の姿で見ることにつながっていきます。また養護と教育の一体的な関係も、特に養護の「情緒の安定」は「大人にくっつきたくなる瞬間もあるけれど、安心するとまた活発に動き始め」とか「先生のひざの上は安心するみたいです」といったあたり見られます。

このように保育の言葉を使って、子どもの姿に重ね合わせていくことで、私たちがこんな風に育ってほしいなと思っている姿が、乳幼児教育のねらいにあっている、間違いない、という確認にもなり、新しい具体的な活動を話し合って作り出していく計画に結びつくことになります。

ダンゴムシさん、ありがとう

2023/04/17

子どもたちの遊びを見ていると、そこに複雑な出来事がたくさん生じていて、それを動画に撮ってじっくりと見直したりするのが楽しい。こんなことが起きていたんだ!と驚くことがよくあります。今日は遊びの志向性の違いを見せてくれる場面がありました。

散歩へは行かず、室内遊びを選んだ子どもたちの中の数人がダンゴムシを観察していました。ある3歳の女の子はちょっと前までは、土の上をゴソゴソと動いているのを恐々と見ていただけだった記憶があるのですが、いつの間にか上手に摘んで自分の手のひらに乗せてその動きを見たり、しばらくするとまん丸団子から、動き出すので、だんだんと手首から腕へと登っていったりするのを、それに任せています。まるでペットを遊ばせてやっているような雰囲気に見えます。ダンゴムシへの愛着が深まってきたんだ、と感じます。

一方で別の男の子は床に落ちたダンゴムシが床を歩きだし、その様子が面白いらしくて「見て、ぼくのダンゴムシだよ」と周りに大きな声でアピールします。すると先生にストローが欲しいというので、どうしたいんだろう?と見ていたら、ストローを床に繋ぎ始め、長いトンネルのようにして、その中を「ぼくのダンゴムシ」を通らせようというわけです。スロトー繋ぎにはもう一人の男の子もすぐに加わりました。果たして、うまくいくかどうか?その中を通っていけるかどうか?こんな遊びに発展していったのですが、長いトンネルにダンゴムシはうまく入ってくれません・・・

そこで面白いことに、そこにはさっきまでいた女の子たちがいません。あれ、どこに?と思ったら、ままごと遊びの場所へ移動していたのですが、そこにダンゴムシも「家族」の一員になって一緒に遊んでいるのです。そうか、そっちの遊びか、と妙に感心して「その子たちらしさ」を見つけたのです。ただダンゴムシもいじられっぱなしでは可哀想です。でもそこにはまだ考えが及ばない3歳児たち。先生からの情報が届きます。ダンゴムシがじっと丸くなって動きたくない時は、ダンゴムシさんも疲れているんだよ、死んだりしないように休ませてあげようね・・といった話をしてあげています。こっちへの気づきも確かに大事。先生たちはいろんな「伸びしろ」を子どもの姿から感じ、そこへの辿り方のそれぞれを見守りながら過ごしています。

そして、ダンゴムシさん、ありがとうね。

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