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見守る保育(保育アーカイブ)

大人は子どものトラブルをどう受け止めるか

2023/05/30

私たちが立ち帰るものに保育原理があります。そこに書いてあることは、長い年月をかけて先人たちが作り上げてきた教育や保育や育児の要諦が、簡潔に記載されています。大事な原理、原則のようなもの、あるいは保育の道標のようなものになります。こういうことが起きていて、どうしたらいいのだろうか、どう考えたらいいのだろうか、という時、私はまず、「保育は養護と教育が一体的に行われている営みである」という保育所保育の特性に立ち帰ることにしています。

養護は生命の保持と情緒の安定ですが、そのためにはさまざまな欲求が満たされていく必要があって、とりわけ社会的な欲求、つまり人と人の関わりの中で見えてくる欲求、社会的な欲求が十分に満たされていないと、とかく不安定になりがちです。どんな関わりの欲求なのだろうか。それはケースバイケースです。

それはある時は愛情かもしれないし、私をみて「これ作ったの、みて」と認めてもらいたいという承認の欲求かもしれません。あるいは自分でやりたい、思う通りにしたい!という自在感のようなものだったり、何かを成し遂げた時の達成感のようなものの時もあるでしょう。また、お友達という仲間の一員になりたいという仲間意識、所属感のようなものも、あるかもしれない。

規範意識が育ってきたからこ生まれる葛藤もあります。自分はきまりやルールを守っているのに、そうじゃない姿を目にすると「違う」と言いたくなる気持ち。そうすることになっているという事を守れないお友達への注意をめぐって、手が出てしまうこともあります。公平感や正義感からくる「守らないのは悪いこと」という意識から、強い働きかけが生まれてきます。指摘されて「あ、そうだった」と、行動が変わればいいのですが、そう簡単にはいかないものです。それができるようになるまでに、ある程度の時間がかかります。

とにかく、いろいろな「思い」の伝え合いの中で、それが子ども同士の中でぶつかり合ったり、受け損ねたりし、誤解しあったりすること、やりとりしている間に、こんがらがってしまってうことも起きます。子どもたちは、幾つもの「こうしたい、ああしたい」が絡み合って、それぞれの主張がぶつかってしまう時もあります。さらに感情的になって、気持ちを抑えきれず、手が出てしまうこともあったりします。

子どもは「やり方が違うよ、こうだよ」と優しく教えることができず「違うよ、ダメだよ」という強い言い方になることもしばしば。それを無視したり応えたりしないと、伝えた方が「制裁」への向かうことがあります。先生に言いつけにくる、といこともあります。守ってほしいルールは子どもがやることなので単純明快な方がよくて、人を叩いたり(バンしたり)、蹴ったり(キックしたり)、噛み付いたり(ガブしたり)はダメだよ、ということは、大体小さい時から理解していきます。それでも、相手がそうしてくると、つい自分も「応戦してしまう」ということだったあります。

このような我慢できる力や、感情をコントロールする自制心などは、持って生まれた特性や経験の積み重ねの度合い、他の欲求が満たされているか(睡眠不足とか運動不足、お腹が空いているか)など、生理的な欲求も含めて、どうなっているかという個別の影響なども相まって、いろいろなことが影響します。

先生や親の話も理解して、わかっているのですが、実際にその場面になるとまだできないということもあります。私たちは、起きた事柄の経緯から、それぞれの子どもの「こんなつもりだった」という思いを丁寧に受け止めていくこと(言葉で表現できないことも多いくて、察していくしかないことも多いのですが)を大切にしながら、伝わっていないときは、仲介して「こういうつもりだったんだって」と代弁したり、橋渡しをしたり、しています。どっちが正しかったか、ということはあまり優先しません。そもそも、白黒つけることが目的でもなく、それぞれの折り合いの付け方、気持ちの寄せ合い方、許し方、仲直りへの気持ちの整理の仕方などを、体験的に学んでいく、貴重な体験の積み重ねだと思っています。

「怖いけど、やりたい!」を助けてあげる子どもたち

2023/05/02

さてさて、今日を振り返ってみると、子どもの数は、GWのはざまの平日なので、昨日と同じく普段の3分の2ぐらい。比較的のんびりと過ごしました。5月に新しく入園したお友達に遊び方を教えてあげたり、絵を描くのも室内と屋上を行き来して使い分けたり、先生と一緒に食べる食事のときに、みんなで同じ話題を楽しんだり・・・ちょっと人数が減るだけで生活の流れ方がこうも違うものかと思う場面もありました。

子どもは友達になる名人です。昨日から園に来始めた年中の女の子。登園初日から数人の女な子たちと一緒にドレスに着飾って、ごっこ遊びを楽しんでいます。人形の赤ちゃんをベビーカーに乗せて、室内をお散歩です。ときどき、ソファのある絵本ゾーンにきて、赤ちゃんと一緒に寝転がり、くつろいでいます。

今日は幼児のクラスブログにあるように、運動ゾーンで微笑ましい子どもの助け合い、というか協力し合う場面がありました。ちょっと紹介します。

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今日の運動ゾーンでのエピソードです。
この5月からの新しいお友だち、らんらん組のKちゃんが、ネットの遊具に挑戦してみたい!と やってきました。

少し、足をかけて登ってみるけれど、まだロープがゆらゆら揺れるのが怖いみたい…。
「こわい〜〜」と半泣きになりながらも、降りるのはイヤ!と、挑戦してみたい気持ちはあるようです。諦めずにチャレンジするKちゃんです。

はじめのうちは、まわりにいたお友だちもおかまいなくネットによじ登ったり、となりのブランコに乗ったりして遊んでいたのですが…
ふとJくんが、「Kちゃん、揺れると怖いんだって!だから、みんな乗らないで!」と、Kちゃんのことを下から支えながらまわりのみんなに伝え始めました。

すると、そこから少しずつ、一緒に遊んでいたHちゃん やMくん も、 Kちゃんのためにロープが揺れないよう押さえたり、怖くないように下に立って支えようとしてあげたり、協力しながらのお手伝いが始まりました。

Jくんを筆頭に、「じゃあ、こっちを押さえといたら良いんじゃない!?」と案を出したり、あとから何も知らずにやってきたお友だちに「Kちゃん 揺れるのイヤだから、いま(ネットに)乗っちゃダメ〜!」と伝えたり…。
そして、後半から加わったRちゃんも 一緒にお手伝い。

↑赤い玉が揺れるとネットも揺れてしまうと気がついた子どもたち。みんなで押さえています!

頼もしいチームワークのわらすさんでした。

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人間は「人への関心」や「利他性を持って生まれてくる」と言われます。協力することがヒトの特性だという説もあります。そう考えれは子ども同士がすぐに仲良くなったり、協力しあったりするのも当然といえば当然かもしれません。それでも、他人が困っていたら助けようとする心が動き出すのは、子ども同士の中に気持ちの通い合いがあることや、その遊びの面白さを知っているからこそ、Kちゃんの「怖いけどやりたい」気持ちが分かる、という同じ体験に基づく共有された心情もあるからでしょう。そういう要素が重なり合って「わかった、そうだよね」が受け入れられて、伝播していったと言えるのかもしれません。

優しさや思いやり、お友達が喜ぶことが嬉しい、困っていたら助けてあげたいという心情の育ち。それは確かにその子の「資質・能力」としての育ちになっていってほしいものなのですが、このような姿を生む要因を個人の資質・能力だけに限定した見方をせず、やりたいと思うネットという遊具(もの)や、お友達(人)などの存在(環境)が影響しています。その場に創発している、とも言えるのでしょう。

さらにこのことを、幼児教育の「見方・考え方」から捉えると、Kちゃんはネットでの遊び方、つまり環境との関わり方と、こうしたらこうなるという意味に気づき、それを自分に取り入れようとして試行錯誤しながら、どうやったら上手く登れるようになるのかを、自分の身体と会話しながら、思い巡らしているように見えます。自分と物と人との関わりが同時に起きているわけで、身体的、精神的、社会的な関わりが、乳児に限らず生じています。

もちろん同時に、そこにお友達も助け合う過程で、助け方や声のかけ合い方などの関わり方や意味に気づき、それぞれがそれを学び取っていきます。行動の起点は困っているKちゃんへのJ くんの気づきと共感から始まったことですが、それが力強く広がっていった事実の中に、人が世界に関わっていく力強さの芽生えさえ感じます。

気づいてできるように「なっていき」、その手応えとしての世界の変化を感じとりながら、新しく遊びに加わってくるお友達に「〜なんだよ」と教えたりして協力を求めたり「しようとしています」。ここには、共感や見通す力などの非認知的なものを合わさって、考えることも判断することも表現することも含まれています。

より善いことをしようとしていると信じており、また、お互いの自由を認めながら、共にそれが実現できるようにすること、つまり公正さ(ジャスティス=正義)を実現させようとしているようにも見えます。これをきっと、よりよい社会をつくり出すための、学びに向かう力、人間性の陶冶と呼んでいいのかもしれません。こうした小さな積み重ねが大きな変化を生み出していくのではないでしょうか。

 

AIが回答した「見守る保育とは?」

2023/05/01

(園だより5月号 巻頭言より)

生成型の人工知能(AI)の一つ、chatGPTをよく使っています。どのようなものか、実際に使ってみようと思って始めたら、私にとっては、すぐに手放せなくなりそうなくらい便利なツールになっています。例えば次のように尋ねてみます。「藤森平司が唱えている見守る保育とはなんですか?」すると次のように回答してきました。

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見守る保育とは、保育者が子どもたちを徹底的に観察し、子どもたちの個性や特性を理解した上で、必要に応じて手を差し伸べることで、子どもたちの自主性や自己表現力、思考力などを育む保育の方法です。

従来の保育は、どちらかというと保育者が主体的に子どもたちに指導を行うことが多といわれ、子どもたちはそれに従うことが求められていました。しかし、見守る保育では、子どもたちの興味や関心に合わせて保育内容を調整し、子どもたちが自ら学ぶ力を育むことを目的としています。

また、見守る保育では、子どもたちの成長過程を共有することが重要視されており、保護者とのコミュニケーションも密に行われます。保育者は、子どもたちの成長について保護者と共に考え、協力してこどもたちを育てることが求められます。

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どうでしょうか。よくこんなに平気でわかったような断定ができるものだと感心します。ネット上にある情報を集めて瞬時に回答するのですから、大したものです。藤森先生も同じことをやって「下手な解説よりも、よっぽどいいんじゃない?」と、新宿せいが子ども園だよりにも、A Iの解説を載せて、本人が間違いないと言っているから、正しいです、とユーモアたっぷりに紹介したそうです。

一方で、使っていくと、このチャットの限界もわかります。回答について、さらに詳しく問い質していくと、行き詰まりが露呈します。例えば見守る保育と要領・指針との違いを聞くと、方法でアプローチが異なることがある、というので、さらにそれは具体的に何が違うかと問うと、最初の回答の言い方を変えたものに、いくつかの要素を新たに加えてきました。それはどこでもありうる保育方法でした。自信ありげに平気で嘘もつくのです。この辺りから、知らない世界のことだと、私も騙されるかもしれないと思いました。

こう言う意味での精度は、ユーザが使うほどデータ量も増え技術もあっというまに、どんどん進化していくでしょうから解決されていくのでしょう。人間が言葉や映像や記号や音など、デジタル化されうる表象は全てAIの独壇場となるのかもしれません。しかし、もちろん人間の物理的な身体性に由来するものはAIそのものでは代替できないでしょうが、倫理的問題は別にすれば、人工人体などとの融合技術は進むでしょう。それでも人間の内部で起きている事実と人間性の関係にどんな影響を与えていくのか、専門家はきっと、そこの周辺を真剣に議論していることでしょう。

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