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見守る保育(保育アーカイブ)

グーカラ・グー カラ・チョーカラ!表象が繋がっていく契機をデザインするには?

2023/06/20

「グーカラグーカラ」というジャンケンが流行っています。グーで勝ったら「グーカラグーカラ」と言って、次に「チョーカラ」と言ってチョキを出したりする遊びです。バーを出すならパーカラです。あいこになったら先に「水」というと勝ちです。私も懐かしくてやってみたら、先に水と言われて負け続けました。子ども(年長)の方が、まぁ早い早い。

そのことの意味を考えていました。言葉の獲得にまつわる話として。言葉は文脈に即して獲得しやすいという話と、この遊びにようにグリコやしりとりのように、あるいはナンセンスな言葉遊びのように、それは言葉自体の、意味の文脈からちょっと離れた音そのものが主導する意味の世界で、独立的、あるいは自立的な発展みたいなこともあるということを考えていました。

ところが、さっきスマホにメールのアカウントを追加するために、備忘録を見ながらパスワード(記号でもあり言葉でもある)を打ち込んでいる時、突然、そうか!と閃き、この文章を打っています。その操作をしている時、過去にもこれと似たようなことをしていた、その情景が思い出されたのです。それとは違うでしょうが、その記憶の再現というようなことを子どもが毎日やっているのですが、どんな時にそれが再現されるのかという話です。

ちょっとめんどくさい話なのですが、体験したことがこうして、感覚的な、たとえば映像的な記憶、言い換えると状況的な記憶が丸ごと残っているということ自体が面白いと思います。人間の脳(と身体)というのはよくもいろんなことを蓄積しているものだと不思議な気がします。

その時、そうか!と思ったのは、その記憶が思い出されるのは、つまり自分のなから引き出されてくるのは、当たり前なのかもしれませんが、その状況と似た状況の中に置かれた時だ、ということです。状況の相似や類似が、そにれにまつわるあれこれの情報を引き出してくる感覚をリアルに覚えたからです。勝手に向こうからやってくるのです。

子どもは、それと似たことをしょっちゅうやっているのではないか。模倣やごっこ遊びや子ども同士の会話の中で、体験の再現と再構築を繰り返しながら、体験したことを自分なりの文脈の中に位置づけなおし、つまり意味づけながら、広がりと深さを獲得しているのではないか。

まるで子どもの方が「だったらこうもアリだよね」と言葉で言うわけではないのですが、現状以上の何かに進んでいく。自発的に動かしていくようなこと。遊びがはみ出ることや多頭性という特徴を持つのは、子どもが自分の文脈を再現して遊ぶことで、新たに足りないものや空白部分のようなものに無意識に気づき、そこにダアーっと目掛けていくような動きやエネルギーを感じます。そういうことをしているのかもしれない。

そういう風にでも考えないと、あれだけ自発的に活動していくエネルギッシュな姿には、大人が教えて身につくものを遥に超えていくような、あるいは自分達でやりたいんだ、という、場合によっては反抗的とも思えるほど、あるいはルールを破ってでも面白いからやりたいんだという欲求の強さを感じます。いったい、この生命力は、どんな仕掛けから生まれてくるんだろう。思わず遊びたくなる、というその「思わず」の仕掛けのところ。

生まれてすぐの、少ないはずの経験からこんなに爆発的とも言えるほど、どうやって色々なことを取り入れていってしまうのか?赤ちゃんが1歳半ぐらいまでに徐々に大きくなっていくのは、まだ「徐々に」という感じなのですが、それから数年の間に、6歳ぐらいまでの数年間に「もう大人と同じだよね」というぐらいに立派になる感じがします。大抵のことはできますし、話も通じます。たとえば言葉なら5000語ぐらいは獲得しているというのですから、すごいスピードです。幼児期後半ぐらいになると一日10〜15語ぐらいは覚えていくという計算になるそうなので、とても大人は真似できませんよね。

そんなことを考えていたものですから、子どもたちが毎日飽くなく遊び続けながらやっていることについて、私が「そうか、このタイミングの連続がプロセスなのかも!」と思ったのです。体験で得た表象がつながり合って、つまり表象=リレゼンテーションの原義、改めて目の前にあらわにするという再現性が働くタイミングのことです。どんな時に再現されるのか。それは状況が似ている時。そして物や空間などの環境が働きかけてくるとき(アフォーダンス的な)。

それは現実の生活空間でも絵本の世界でも同じ。そこに類似や相似があれば、人間は易々とそこに飛躍できるということ。そう考えると、子ども自身の文脈の多様性を考えた環境は、想像の世界も入ってくることになるのでしょう。仮想の世界と言ってもいいのでしょうけど、子どもたちは、自分の中に、どんな表象の広がりと深さを身体と環境のかかわりとしての「知」として作っていっているでしょう。身体知と環境知というそうです。

それぞれの人がどうやっているのか見えませんが、大人もやっているなあ、と思います。それは「チョーカラ」であいこになって、子どものいう「水」の速さに感心したり、忘れたパスワードを思い出せない時などに私の身体知の衰えは棚に上げて、環境のせいにしながらですけど。それに比べて子どもは、なんとしなやかなんでしょう。たくましいと思います。

大人は子どものトラブルをどう受け止めるか、の続き

2023/06/01

園だより6月号「巻頭言」より

子どもは「はみ出し」ながら育ちます。このことも付け加えておかなくちゃ、と昨日の「園長の日記」に書いたことの続きです。そのはみ出し具合を、できるだけ「ひろ〜く」とってあげたい。そういう話です。なぜ「広いか」というと、子どもは自然だから、と言うことなのですが。

大人が思う通りに育ってほしいというより、子どもはそれを飛び越え、予想外のことをやりながら、生きているのだと思います。それを「困ったこと」とか「例外」とか「普通じゃない」というように捉えたくありません。子どもを大人の狭い枠組みの中に押し込めたくはないのです。そうではなく、子どもは(つまり人間は)、そういうことが「自然」なんだと思えるといいのかもしれません。

子どもは自然そのものだという話は、私たち幼児教育に関わるものは、よく聞きます。自然というのは思う通りにならない、という性格を持っています。人間は自然を相手に都合のいいように変えて、都市や文明を築いてきたが、時々、自然災害や天変地異などが自然の怖さを思い出させる、というよくある話。それとはまた別に、人間の外側に自然を見るのではなくて、私たち人間が自然の一部であって、大きな自然の営みの中にあるという認識を忘れないでいよう、そういう話が一方にありますよね。子どもはその「うちなる自然」を思い出してくれるということです。

その話で私が思い出すのは、養老孟司さんの「子どもは自然に属する」という話です。どこかで聞いたことがある方も多いでしょう。大人は都会では道に段差があったり障害物があると、つまずいて怒ったりします。ちょっと不便なことや都合が悪い不合理なことがあると文句を言いたくなる、そんな気分を持っています。私たち大人が都合のいい「人工」世界にいるからでしょう。

でも山の中に入って、凸凹しているからといって、それに文句を言う人はいないでしょ。子どもが凸凹していて、大人が思うど通りにやらないからといってイライラしてしまうのは、山に入って歩きにくいと文句を言っているのと同じですよ、というそう言う話でした。

先ほど主任が「ある活動で、幼児がサンダルで山登りをしているところがあるんですよ」と教えてくれました。過保護にしないという趣旨の話ですが、もう一つ、自然の一部である子どもは自然の中なら裸足でいたがるもの、という話にも聞こえてきます。子どもは自然でいることを求めていて、その振る舞いの延長に、「人工的な」人間社会が求める決まりにうまく適応できないことが起きているだけ、という見方もなりたちます。ちょっと理屈っぽい話になってしまいましたが、子どものトラブルを有る意味で自然現象だから仕方ない、そんな大らかな受け止め方も必要な気がするのです。

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