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見守る保育(保育アーカイブ)

親子運動遊びを振り返って

2023/10/28

今日の「親子運動遊びの会」いかがでしたか? 普段やっている運動も、体育館という広い空間で、しかも親御さんと一緒というのはまた格別なもの。ご存じの方は「昨年はこうだったけど、今年はこうなった」という変化や育ちを感じられたことでしょう。子どもにとっても身体的な接触を伴う楽しさが、嬉しい思い出として残るといいですね。

◆子どもは「ただ走るだけ」でも、とても楽しいと感じている!

2〜3歳ぐらいになると、目の前の地面がばーっと広がると、子どもはそこへ目がけてトコトコと歩き出したり、ぐんぐんと走り出したりしましたね。安心できる親御さんのいる場所から、まるでタンポポの綿毛が風で飛び交うように、広い空間の方へ、走り出しました。広い体育館のフィールドが「こっちへおいで」と誘い、また、すでに気持ちよさそうに走り回っている子どもたちの姿も加勢していました。その時、もう運動会は始まっていましたようなものでした。

「そりゃ、楽しいよね、自分の二つの足だけで自分を好きな場所へ移動させることができるんだもの。しかもどんどん加速したり、カーブを曲がったり、自分の体を制御している自在感、ドライビング感がたまらないんだろうなあ」

私の隣で演劇を勉強されている保育士の方とその風景を見ていたのですが、私は思わず人間と動物の違いの話をしていました。火を使うこと、言葉を話すこと、そして直立二歩行すること。これは、ヨーイドンのかけっこではないでしょ。走る楽しさを味わいたいのに、競争する必要ないよね。・・・

◆「見る」だけではなく「聞く」からも「空間」を感じている

今日はドラマーの菅田典幸さんが、終始カホンを鳴らしていました。ギターの生演奏は坪井保育士。音楽が空間を作っていました。子どもはすでに音楽と動きがセットになっている「経験」をしてきたので、その音楽がなっている空間が、身体の動きを呼び覚ましているように見えます。グーパー体操は、そのリズムを体が刻んでいました。だんだん速くなりながら、またそのグルーヴ感を味わっていましたね。

◆即興は身体感覚が周りの環境と絡まり合って生まれる

子どもは何かの「ふり」が得意です。いろんな動物に「なり」ます。なるというのも動きの一種ですね。そこにも運動がありました。何かをイメージしてそれを体で表すという説明をしがちですが、本当にそれだではないなぁと思うことがあります。勢いですでにやってしまっていることが、後付けで「ペンギンさん」って言っている感じをもつときがありました。イメージと身体表現は創発的であり、同時多発的でもあるようです。

会が始まる前に、ダンサーの芝田和さんと「即興」について、こんな会話をしました。

「振り付けがないダンスなので、始まる前に覚えておくとか、思い出すとかは、しませんよね」

「それはしないですね」

「良いダンスになるためにはどんなことを準備するんですか」

「からだに雑念が入らないように、空っぽにしておく。そういう意味では子どもはそれが最初から、あまりないからいいんです」

「踊っていて空間や音楽がからだに入ってくる感じですか」

「体育館の屋根の骨組みの隙間に自分の手が伸びて挟まったり、コーンの青色のイメージが染みてきたり、そういうことが次々の起きていくのが動きになっていく感じですね」

◆体の動きがどんどんよき彼方へと誘われていく感じ

会が終わった後、ドラマーの菅田さんは「子どもたちからパワーをもらいましたよ。どんどん良くなっていったね」とおっしゃっていました。「よかった、楽しかった、の方へ、どんどん吸い込まれていった感じがした」。そんな感想を分かち合いました。

◆見ることも立派な行為の一つです

最後に一つ。親子運動遊びは、親子で「あること」を楽しめれば十分です。また見ることも行為の一つです。運動遊びは、こうでないとダメ、というものはありません。

最後の青木さんのソロダンス、私は毎回、ため息が出るほど美しいと感じます。劇場まで舞台作品を見にいったのと同じように。今日わさわざ見に来てくださった私の尊敬する先生からは「子どもたち、面白い大人たちに囲まれてよい刺激をうけますね」という感想をいただきました。

そう、運動にかぎらず、いろんな活動が、子どもたちが面白い!と探求し始めてしまうような「遊びのミュージアム」に、保育園がなるといいな、と思っています。

 

環境との関わり方や意味に気づく

2023/10/12

先週から毎日のように午前中は外へ出かけています。乳児は佐久間公園、34歳は電車で十思公園、年長は科学技術館と北の丸公園です。園庭がない当園のような保育園は、地域を園庭代わりに使いこなすために、それぞれの場所の特徴を保育に取り込んでいきます。それぞれの活動の様子は各クラスのドキュメンテーション(スマホで見ることができます)でご覧ください。

私は今日は年長と一緒に過ごしたのですが、科学技術館はお泊まり会いらい2回目です。1回目よりも今回の方がそれぞれの場所や装置に馴染みがあるので、少し体験が深まったようです。鍵盤が描かれた床を足で踏むとその音が鳴るのですが、当てずっぽうで歩いたり走ったりすると、それで音がすること自体が面白いようで、何度も繰り返しています。

NHKのピタゴラスイッチで球が転がっていくと物が動いたり倒れたりしながら、ゴールまで辿り着くのがありますが、あれと同じようなことを、ボーリングの球ぐらい大きな金属球で、フロア全体をぐるりと一周させるようなゾーンがあります。

機械を操作して押したり、転がしたり、クレーンで持ち上げたりしながら、その都度、止まってしまう球をなんとか次の場所へ動かすような仕掛けになっています。かなり力がいるのですが、球を動かすことで、仕掛けの意味(物体に働く力のパターン)に気づくことができます。

このようなことが面白いのは、自分の身体、感覚を使って働きかけながら、物が動いたり変わったり音がしたりするからでしょう。具体的に触ったり、握ったり、押したり弾いたり、引っ張って弾いたり、自分で働きかけたことで物が変化していく。そこには物理法則があるのですが、体験することで何か気づき、じゃあこうしたら?と考えたり工夫したりすることが起きていました。どうしたらいいのかわからなくなるときは、その仕組みを理解することが難しい場合です。それでも遊び方を教えるだけで、やり方がわかれば楽しめるので、大事なことはやることで気づけるようになっていました。

同じようなことが、お弁当のあと、北の丸公園の雑木林で遊んだ時にもありました。木登りです。

どの木なら登ることができるか?木の枝と自分の手足、バランスの関係を探りながら、あれこれ考えながら登ることができる手順を発見していきます。

枝の隙間に靴がや膝が挟まって動かなくなったり、斜めの木にお尻と足を押しつけてバランスをとっている状態から、次の上の枝に手が届かない時は諦めるしかない、ということに気づいたり。身体と木との会話のようなことが繰り広げられていました。環境との関わり方と意味に気づくことが、こんな形でも起きているんですね。

代弁とは「気持ちを言葉でなぞる」こと

2023/10/11

「先生、うまいこと言うなあ」と1歳児クラスのブログを読んで感心しました。以下に紹介します。最後に「こっそり共有するのが嬉しい」と書いてあったのですが、保護者の皆さん全員と共有したいので、ここに紹介させてもらいます。やっぱり、うちの先生たちは、子ども同士の関わりの育ちに関心が強く向くようです。

・・・・・いつものように、子どもの名前はイニシャルに変更します・・・・・・

昼食前、Sくんが水道で手を洗っていると、その隣の蛇口に、Yくんもやってきました。


Yくんが来ると、Sくんはさらりと隣の蛇口に手を伸ばし、ひねって水を出してあげていました。


Yくんも、そこで手を洗いはじめます。

言葉を交わすこともなく、ほんの数秒のことでしたが、なんだか、その言葉のいらない自然な関係や関わりが素敵だな〜と感じました。

さらにその後も水道の手洗いのようすを見ていると、Cちゃんが後ろで順番を待っていたRくんに「Rくんどうぞ〜」と、”自分の使っていた場所が空くよ”と伝えてあげたり、となりのお友だちに石けんを渡してあげたり…。

お友だちのものが欲しかったり、お友だちのことをやってあげたかったり、まわりの友だちに興味を持って関わりたい!という気持ちも強くなっているぐんぐんさんたち。
その分、時には相手との気持ちのズレやすれ違いで ぶつかって、ケンカになることも多いけれど、じっくりとよーく見ていると、こんな風に、相手への気遣いや “やってあげる・やってもらう(さらには、相手にやらせてあげる)” の関わりも、たくさん隠れています。しかも、そんな姿に限って、とってもさりげなく、自然に見せてくれるので、パッと見た姿だけでは、なかなか気が付きにくかったりもしますね。

お散歩前には、Rちゃんが、Sくんの帽子を持ってきて、渡してあげようとしていました。
みんな、自分のものだけでなく、それぞれのお友だちの持ち物をよく覚えています。

Rちゃんが、帽子を差し出しながらSくんを追いますが、Sくん、まだ帽子をかぶりたいタイミングでなかったのか、違うところに気が向いていたのか、Rちゃんが帽子を差し出していることになかなか意識が向いていないようすです。
Rちゃん、その姿を感じ取ったのか、”まぁいっか”と一旦帽子を渡しに行くのをやめようとしていました。それもまた、相手を思いやる姿かもしれません。渡してあげたい自分の思いもあったけれど、いまは受け取らないみたいだな…と相手の姿に目を向けて切り替えています。
・・・なのですが、この場面では、Sくんは帽子を嫌がっていた訳でもなく、そこに気が向いていないだけのように見えたので、大人が「Rちゃんが、しおんくんの帽子持ってきてくれたよ〜」と言葉にのせて伝えると、ふとその姿に気がついて、帽子のやりとりをしていました。


そうして、大人が言葉に乗せながら、子ども同士の関係を繋いでいく瞬間もあります。

子ども同士の関係を繋いでいくときに大切にしたいと思うのは、そこに大人の気持ち(主張)を入れ込まず、『それぞれの子どもの気持ちを言葉でなぞる』ということです。
例えばこのシーンで考えると、Sくんに対して「帽子受け取ってあげて」と言うのでなく、”Rちゃんが渡してあげたいと思っている”ということを、伝えていきたいな、と思います。受け取るか受け取らないか、そのときかぶるかかぶらないか は、Sくんが決めることだからです。
もしも、渡してあげようとしたけれど、Sくんが嫌がったとしたら、そのときは、「いまはかぶりたくなかったみたいだね。渡してくれてありがとう」ということをRちゃんに伝えたかもしれないな、と思います。
「子ども同士の関係をつなぐ」というのは、関わり合った結果がいつも『うまくいく』ということではありません。自分には自分の思いがあって、相手には相手の思いがある。そのお互いの気持ちに寄り添い、言葉でなぞりながら、「じゃあ、どうしようか」と一緒に考えていく・・・それを根気強く、繰り返していく中で、子どもたちも少しずつ、自分たちでその対話を試みるようになっていきます。
自分の「こうしたい!」の思いが強く表現できるようになって、ケンカも激しくなってくる時期でもありますが、その中で感じる悔しさや葛藤、気持ちを通わせていく過程も、まぁいっか、と思える気持ちも、すべてが大切な経験だと考えています。その体験を何度も繰り返して、対話やコミュニケーションを経験していく中で、子ども同士での関係性が育まれていきます。
わたしたちは、「こうしたら良いんじゃない?」「これは、嫌だな、悲しいな」などと大人の思いも伝えつつ(もちろん「うれしいね!」「ありがとう!」などのポジティブな思いも含めて)、あくまで子ども同士の関係の中にそっと寄り添うことを、大事にしたいなと思います。子ども同士の関係に関わりすぎず、でも引きすぎず…の距離感が、難しいけれど面白いところです。
だからこそ、最初の手洗いのシーンでも、大人は何も言葉をかけず、子どもたちのやりとりをそーっと眺めて、静かに感動していたのでした。そんな、静かな感動をひとりで噛み締めるのはもったいないので、こうして、お家の方やまわりの先生たちと こっそり共有するのが、嬉しい瞬間でもあります。

・・・・・いかがですか?先生たちの考えていること。大事にしたいと思っていること。気づかれていない言葉にならない思いが見えるようにする「言葉でなぞる」という表現に私は感心したのですが、昨日の「環境からの呼びかけに対する子どもの呼応」という話を思い出すと、これも子どもにとっては、お友達の気持ちを、先生が押し付けがましくなく、環境からの「呼びかけ」に変えてあげているように見えなくもありませんね。人的環境は、空間や物の環境とはまた異質ではあるのでしょうけれど。

自分で決めることを支えること

2023/10/07

頭で分かってはいるけど、行動に移すことができないこと。私にはしょっちゅうあります。できない理由はいろいろですが、案外自分でも「手強い」のは、納得できないで、もうもやしているのに、やらないといけない時です。頭でもよく納得できないでいるのでしょうね。でも立場上とか、言った手前とか、まあ、いろいろありますよね。

それは子どもだってあるでしょう。決めた時間に起きることや寝ること、好物の甘いものや炭水化物を食べすぎないこと、ケンカになって自分が悪いとわかているけど素直になれないこと。大人でも似たようなことありますよね。子どもの場合で、先週見かけたことは、どうしてもママに会いたいと朝から「お家に帰る」「ママに会いたい」と言って聞かないこと、それとは反対に好きな遊びを終わることがなかなかできず、お迎えの時間だけど「帰りたくない」と言ってお家の人を困らせること。また昼間でもありますが、遊びや遊具の交代は「わかっちゃいるけど、やめられない」の一つかもしれません。

今日は実習生の日誌を読み返して、総評をまとめていました。保育の理解の仕方の中には、そうはっきりと断言できるようなものは、意外と少なくて、例えば子どもが「自分でそうしよう」と決めているように見えていることも、いろんな要素や力が働いて、複雑な無意識の働きの結果、そうなっているのだろうということが多いと思います。その要素や働きの中に、保育者が支えるというによる影響も当然含まれます。それは、どういうことなのかを実習生にも理解してもらいたいと思うことがあるのです。

例えば10月2日(月)のことです。私はブランコに乗ってい3歳のIちゃんを後ろから押してあげていました。それが楽しいらしく何度も「もっと早く」とせがむので、押して大きく揺らしてあげていたのです。しばらく経ったとき、年長のHちゃんが「やりたい。代わって」と走ってきました。Iちゃんは黙っています。もうずいぶん乗っているので、代わってあげようという気になるのかな? どうするかなあ? と見ていたのですが、黙っているので「変わってほしいと言われていることはわかるけど、もっと乗っていたい」と思っていることがすぐわかりました。年長のHちゃんは、交代して遊ぶということを相手にも期待して「もう、代わって」と、強くもう一度言うのですが、だめだと諦めて別のところへ行きました。

そのいきさつを、ボランティアにきていた小学6年生のAさんもみていて「こういうとき(Iちゃんに)代わってあげるように言うの?」と私に聞くので「そうだね、Iちゃんはわかっているんだけど、そうしたくないんだよね。どうやったら自分で、いいよ、って気持ちになるのかな。大人が『代わってあげなさい』と、そうさせてしまうのではなくて、自分でそういう気持ちになるといいんだけどね」というと、小学生のAさんは「ブランコ、もっといっぱいやるといい」と言います。満足するまでブランコすれば、代わってあげようという気持ちになるだろう、と考えたようです。

年長のHちゃんは、乗るのを諦めましたが、乗りたい子が多いときは、また別の結果や違った行動になる場合もあります。ブランコに列ができるときもあります。そいうときは自分から交代することや、順番で遊ぶことなどを受け入れやすい状況だったりします。また相手によって自分のやりたいことを押し通せたり、自分が我慢しないといけなかったり、します。特に相手が知っているお友達だったり、その友達関係のあり方によっても、違ってきます。また援助している先生によっても変わるときもあります。また家でも、お父さんかお母さんかでも、子どもは自分の思いや気持ちの押し出し具体を変えることがあることに思い当たることでしょう。

このように自分から何かをしたり決めたりするのも、ある程度発達してきたからといって、いつも安定的に同じようにできるというものではなく、その資質や能力が発現しやすい環境や状況というものがあって、それと切り離せないようなかたちであらわれるということがあります。その繰り返しの中で、長い目で見た時に、成長を感じる時がきます。

また私が「Hちゃん、ブランコ、代わってくれないかな、だって」とHちゃんの気持ちをただ代弁したつもりで言ったとしても、Iちゃんにとっては、一緒に遊んでいた私がそれを口にすること自体が、別の意味を影響を生むことになります。自分でそうか!と気づいて行う、ちょっとした後押しになることもあれば、かえってIちゃんの気持ちを頑なにすることだってあるでしょう。

このように、どんな援助や声かけのようなものがいいのか、などをその状況判断を抜きに一般化することはできません。やはり個別具体的な判断とその振り返りの繰り返しの中で、その子どもにとっての、ある確からしいことが見えてくるのだろうと思います。その子どもが「代わって」と言われたことがわかり、どうしようかなと考えたり、どう言ったらいいのか工夫したり、表現することは、それぞれです。その過程で、内面で動いている心情は前向きな肯定的な気持ちや不快な否定的なものの間で揺らぎながら、自分なりに出口や光と思えるところを見つけていくでしょう。

思いつきで思わず手が出て、体が動いてやっている遊びが面白くなって没頭し、さらにこうしたいという目標が見えてきてそれをやろうと工夫します。自分だけではなくてお友達とのやりとりを通して、やりたいことや思いつくことも変わっていきます。その都度の積み重ねから、なぜかより善いことにつながっていくのでしょう。どうやってそこに至るのか、大人も子どもも、自分の中で無意識の仕組みの中で起きていることは見えようがありません。ただ、個別多様であっても、その2〜3年という長いスパンの中で成長していく筋道があります。その道筋はよりよい生活のありように向かって参加していくものになるといいのですが。

それだけに、わたしたち保育者は、いろいろ望ましい結果を生むように環境を考えますが、年中、年長ぐらいになる子どもにとっては「自分でやった」「自分で決めた」「それがよかった」という実感を生むようなプロセスを大事にしながら、他者のことも考えながら自分で決めたと思える行動に結びつくように思えるのが「幼児期にふさわしい生活」の一要素のように思えます。

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