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2024年 4月

「手作り鯉のぼり」5月5日に泳ぎます

2024/04/30

お迎えのときの「鯉のぼり」の親子手形制作、ありがとうございました。G W期間中の5月5日(日)に保育園の目の前の神田川を「泳ぎ」ます。皆さんに作っていただいた鯉のぼりは午前9時ごろから作業・用意しますので、その様子からご覧いただけます。

これは地域の3つの町会連合会が主催する「泉橋鯉のぼりまつり」で、当園と川向かいの泉橋出張所をロープで結んで、そこにたくさんの鯉のぼりを泳がせるイベントです。当日は保育園の「にちよう開放」にしたので、昼過ぎまで親子で13時ごろまで過ごすことも可能です。飲み物・食事は各自ご用意ください。(職員室だより5月号より)

こんな難しいことがでいていながら未熟な赤ちゃん

2024/04/29

昨日の続きです。両手で靴下のつま先部分をびよーんと引っ張って、取ろうとするのですが、かなり力を込めて上へ引いても、なかなか脱げません。靴下がかかとに引っかかっていることは理解できていないようです。それくらい子どもの認識はおおざっぱなのです。かかとを外してあげると、スポーンと勢いよく外れました。子どもの理解というのはこんな感じなのです。ここに物とのかかわりのなかで、靴下を脱ぐということだけでも、それが達成できるかかわり方を学んでおり、引っ張れば脱げるのだということも理解していきます。

ところで、こんなことがまだ難しいという発達でありながら(そこに面白さと注意が向けばもっと変わってくるのかもしれませんが)、もっとはるかに難しいことをできるようになっていることを思うとその落差に驚くほかはありません。はるかに難しいことというのは、私たち大人の話す言葉が通じているということです。うまれて数か月の赤ちゃんが大人の話す言葉を聞いてその意味を理解していくためには、音声と意味の相互関係が把握されているということになります、言い換えると概念の分析と音声の分析をやっていることになるのです。こんな難しいことができるのに、靴を脱いだり靴下を脱いだりする方法の理解と行為がおぼつかないというのですから、ヒトは動物と違って身に付けることの順番がかなり違うようです。身体的な行為よりもヒューマンコンタクトがとれる行為の方を優先するようにできているように見えます。

そこで大人はちょっと混乱してしまいます。確かに全体的には未熟でありながら、学び手としては有能であるという赤ちゃん像がよく取り沙汰されるからです。私もそうですが、そのあたりがうまくまだ十分に整理されていないのかもしれません。

Yさんと私の間には心地よい感情の交流が確かにあって、愉快な気持ちを共有し、そういうことがお互いの間に信頼関係を作っています。それはまだまだ漠然としたもので空想的なものなのですが。それでも、まだまだできないことがたくさんあって、それを支えてあげながらできた!という心地よい体験を積み重ねていることになります。

まずはリズムの中で自分の起点を作る

2024/04/28

自分から何かを始めようとする気になるには、気持ちが落ち着き、それに向かうスタート地点、つまり起点が必要です。その気になる不動点のようなものは、リズムの中で何度も何度も生じているようです。

昨日のYちゃんの姿から振り返ります。

すぽん!と靴下がぬげたときに私に見せてくれた笑顔からは、いくつもの物語を紡ぎ出すことができます。お散歩から帰ってきてまだ頬がほっていて呼吸も少し荒く感じます。暑い日差しから涼しい室内に入って、ほっとするようなタイミングです。ここでなにをするのかというと靴と靴下を脱いで部屋へ入っていきましょうね、というのがこの状況で流れている空気感です。しばらくここに座って涼もうか、というような空気ではなくて、大人がつくり出している期待という名前の気が流れているのです。子どもは大人の使う言葉や雰囲気からその「圧」を感じていて、おそらく子どもの中には自分がいまここでやってみたいことと違う感触に対して違和感や抵抗感のようなものを感じている子どもいるでしょう。

私はまずはほっと一息、どの子どもにも自分の不動点を見つけてみることから支えてあげたくて「ここに座ってみようか」と誘ってみるのでした。するとその子はそこに座り、隣の子どもが先に脱いでいった靴下を手に取って「これ」と私に差し出します。「Sちゃんの靴下だね。ありがとう」と私は受け取ってから、「Yちゃん、おくつぬいでみようか」と誘ってみます。この子たちは大人になにを期待されているのか、ちゃんとわかっているので、自分でそれを始めます。靴の上側を覆っているマジックテープをビリっとはがして、自分の足から靴を外します。靴はそのあたりに無造作に転がり、それは気にも留めずに、今度は靴下をとり始めます。それが前回の写真のときの様子です。

(明日に続く)

よく考えると「今」しかないんだよな、可能性の場は

2024/04/27

写真は散歩から帰ってきたとき。1歳児クラスの女の子が、椅子に座って自分の靴を脱ぎ、靴下もスポーンと逃げた瞬間の笑顔です。こういう瞬間に私は幸せを感じてしまいます。個人的な考えかもしれませんが。

ちょっとだけ真面目な話。

どうして私がいて、子どもがいて、保育があるのか。子育てをしている親なら誰でも思い当たる問いでしょう。私もそうでした。この3つの問いは全部クリアな答えがないのですが、それでも実際に存在し、過去からのつながりの中にあって今現在も動いている続いているもので、そのストリームの中に、私も子どもの保育者も巻き込まれています。その個体としての時々のそれぞれの「私」も「子ども」も「保育者」も個別の存在ですが、大きなストリームの中で現れたり消えてたりして、ずっと何かバトンを受け取り、また受け渡しています。

そのストリームは自然ともいのちとも言っていいようなものなのですが、ここの「私」や「子ども」や「保育者」などの個人にとっては「人生」です。とても不思議なことに、植物や動物と違って、生まれて死ぬまでの間、ただ何も考えない存在ではなく、意図的に何かをよりよくすることができる可能性をもった存在として、私たちは存在します。私にとっては、このことはどう考えても奇跡的なことに思えます。

さらに人類の歴史を振り返ってみると、それぞれの個別の存在が、植物や動物と違って、かけがえのない個、取り替えのきかない個人という重みがますます大きくなっていくストリームの中にありそうです。この流れはますます大きくなっているように思えるので、それに反するものは紆余曲折は経ながらも淘汰されていくことでしょう。その悲劇的な状況から少しでも免れていると思えるなら、そして先に生まれたものたちがそのことに気づいたら、個の人権や尊厳がしっかりと守られて発揮できるように、努める義務を感じます。その延長に保育があります。

そして子どもが生きている瞬間の連続の中に、過去の一切が流れ込んでいると思うと、先に生まれてきた私たち大人が子どもたちに渡していきたいものが何なのか、それをちゃんとしたいという思いになります。それができる場は、今という現在しか常になく、そこに私たちも集中できる力を整えておくようにしようと思うのでした。

遊びのなかに生まれる思いとすれ違いの行方

2024/04/25

ある子どもに「靴下がない」と相談をうけて探しているうちに「ブーメランをやりたい」と誘われて、運動ゾーンでしばらく遊んでいました。しばらくして屋上で遊び終わった子どもたちが一人二人と加わっていき、最後はワニのいるアマゾン川をターザンロープで飛び越えるという遊びに10数人の行列ができるサーキット運動になっていきました。

その約1時間ぐらいの間に、いろいろな面白い発見がありました。最初の数人の関わりのところまでを振り返ってみます。

年少のTAくんが一歳上の年中のNRさんとブランコを交代して遊ぶことが楽しいようで、3分の砂時計を待ちきれずにすぐにひっくり返して、すぐ交代するのです。

そして「一緒に乗ろう」「うん」と仲良く跨って左右に揺らして楽しみます。

ブーメランやネットやクライミングをひとしきり楽しみました。

その二人に、もう一人年中のAIさんが加わると、遊びと関係がダイナミックに変化します。

AIさんはブランコを乗った後、すぐにTAくんに替わってあげました。でもTAくんは次のNRさんの番なのですが「どうしようかな?」という風に考えています。

さっきまではすぐに交代していた間柄なのに、なぜか態度が変わりました。そしてAIさんに交代を促されると、口を膨らませて「いやだ」という意思表示を示します。

そこで面白いのですが、自分の番である当のNRさんは「もう一回やったら替わってね」と砂時計をひっくり返しました。もう一回、やっていいよ、というわけです。そこが3人の思いの中心点です。気持ちの折り合いが取れたバランス点がありました。年中さん2人が年少さんを大目に見てあげた、という格好ではあるのですが、そこにいたるのは、それまでのお互いのことについての経験からくる思いが、いろいろあってのことです。

そのやりとりの最中に、ブーメランを取りに戻ってきた男の子が「(自分のを)取った?」と意気込んで問い詰めます。見ていてハラハラするのですが「ただもっていただけ」と言われると何も疑いもせずに「守っていてくれたの?」と聞きなおすのです。すると「うん」と言われると、さっきまでプンプン気味に見えたのに、素直に「ありがとう」と言って、行ってしまいました。まるでそこに立ち込めていた気持ちのモヤモヤを突風が吹きさらってしまったような印象です。私は見ていて、おかしくなったのですが。

子どものそれぞれの「思い」は相手の間を飛び交い、受け止められて心地よいキャッチボールのように行き来したり、時には壁にあたって跳ね返されてきたり、あるいは戸惑って宙に浮いたりしています。

「そんなつもりじゃなくて、本当はこうなんだけど」という小さな思いの堆積物がそこら中に転がっています。その小さな思いの中身は、誰にもわからないのですが、子ども同士でそこを感じ合ってつながり合っているように見えます。こういう生の経験が貴重なんだろうなぁと感じるのです。

そして、3人がダイナミックに笑いながら、ブランコを楽しむのでした。

活動の展開には、同じことは二度と起きないようなものとして動いています。そこで生まれ続けていることは、切り離せない連続の中にあり、子どもたちは自分の中に生まれてくる感情や思いに立ち向かいながらそれを糧にして、たくましくなっていくように見えます。

4月25日 昼食

2024/04/25

コンソメピラフ

わかめスープ

お子様ワンプレート

(照り焼きチキン、コールスロー、ナポリタン)

グレープゼリー

 

選択という言葉遣いを選択しない

2024/04/24

ビッグワードを使うと微細な子どもの育ちを見損なうのではないか。このところ、この警戒感が保育を描くときの、私の通低音になっています。保育の目標や理念を語るときに自己決定、選択、参画、自己実現、愛着、信頼感などのキーワードを使うことがあります。でもそれを使うことは、そうなってほしい、そうでありたいということであって、実際にそうであるかは別問題でしょう。例えば最近ブームになっている主体性にしても、それを使えば何にでも当てはまるような言葉遣いにならないようにしたいと思っています。

今日の保育を振り返っていたら、先ほど主任とこんな話になりました。先生たちはそんな言葉を使うことはまずありません。きっとある意味で「そんな大それたこと!」と思うに違いないのです。保育を語るときに、子どもの姿をある概念でまとめたものをそのまま使うということはあまりないのです。その言葉で言い切ってしまうと、それは逆に何も言っていないように思えます。

そいえば、と思い出しました。22日にある学生さんが卒論のテーマとして睡眠の選択について見学に来られました。保育園、午睡、選択というキーワードでググると、うちの保育園がヒットしたそうです。そして、実情を説明すると「その日ごとに寝る寝ないを選ぶような選択ではないのですね」と理解してもらえ、ホッとしたのですが、逆に午睡は選択ですということで、こんな誤解を生んでしまうのだと反省しました。

一斉に同じことをさせることではなく、個別にその子に合った過ごし方や遊び方、寝ることも食べることもその子にあったようにすること、その子らしく過ごせるという趣旨なのですが、それを個人の「選択」というフレーズでまとめると、このような誤った理解を促してしまったようです。実際のところ、何にしても結果的には選択していると言えてしまいます。でもその内実は千差万別です。どのように最適なのか、あるいは個性化されているのか、と言ったあたり大事なのですよね。

子どもと揚げた鯉のぼり

2024/04/24

先週のことですが、晴れた金曜日に子どもたちと「鯉のぼり」を揚げました。

晴れ渡った青空の下にそよぐ鯉のぼり。

🎵おもしろそうに 泳いで、たかな?

しばらくは、天気によって揚げたり降ろしたりします。

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