MENU CLOSE
TEL

2024年 6月

カブトムシをA保育園へお届けに

2024/06/19

保育園で生まれたカブトムシをアイグラン保育園東神田にプレゼント。気温が上がらないうちに、子どもたちと届けに行きました。

とても喜んでもらえたようです。届けに行った、喜んでもらえた。そんな満足感があったようで、帰り道は足取りも軽かったようです。

これまで公園で出会うことはありましたが、保育園の中には入れてもらったのは初めて。こんど一緒に遊ぼうと約束してました。和泉小学校で一緒になる子もいて、就学に向けて仲良くなれるといいですね。

バットの音の違いを面白がる子どもたち

2024/06/17

今日もいろんな遊びの姿が報告されています。写真付きの説明でだいたいのことは想像がつきます。乳児から幼児までそれをみていると、子どもの躍動的な姿を生み出している仕組みのようなものを、どう汲み取って表現したらいいんだろうと考えます。とくに活動のうねりのような中で見せてくれる、ちょっとした道草のような遊びの楽しみ方、遊びの中に垣間見えるひねりのような面白さを、ちょっと拾ってみましょう。

 

きっかけは「探究」という言葉で指し示すことができることを探しています。すると遊びそのもののなかに、あの課題解決プロセスに似たところは探究と呼んでもよさそうだと思えてきます。たとえば幼児クラスの日誌には「運動ゾーンではらんすいを中心に「音」に注目が集まり、バットを色々な物で試してみる姿がありました。」と、次のように写真とコメントが書かれています。

・・・・・・・・・・・

いつもはサランラップの芯をバットにしているのですが、ボールが真ん中にあたると、「いい音がする!」とRくん。

色々な物をバットに見立て、どんな音がするのかの探求が始まりました..!お部屋の中を探し回り、バットになりそうなものを見つけ始めました。

「ペットボトルは音が当たると大きい音がする!」

「カーンって音がする!」

「あれ?音がならない?!」

「これはどうかな?」

「みんな静かに~耳を澄ませて~」とLちゃん。色々な音の違いを楽しんでいました。“音“との出会いですね。

・・・・・・・

野球ごっこは、このところ、かなり長く期間続いている遊びなのですが、日によって変化してきています。面白いことが、変わっていくのです。それはきっと好奇心というものの、特性でしょうか。それまでとは違うもの、新しいものを面白いと思い、それを取り込んで変化していくのでしょうが、今日はバットに玉が当たるときの「音」の違いを面白いと感じて、それを何人もが共有しているというのですから、ここには同じものを共にして楽しんでいるという、仲間意識も感じます。また同じ面白さを共有しているという暗黙の静かな探究心の交流のような空気も感じます。野球の遊びで、そんなところに興味が向かうものなんだ、面白いもんだなあと思います。

子どもの自己発揮を充実させる保育をつくる

2024/06/11

昨日と今日は全国の園の主任クラスが集まって学び合う研修会でした。

参加する前に、各園の課題を出してもらい、それを大まかに分類すると「リーダーのあり方」「人材育成・研修の方法、理念の浸透」「チーム保育」がスリートップで、1月に開催した時と同じ傾向でした。

研修会は子どもの権利条約、子ども観の変化、子どもの主体性を大切にした保育についての講義を受けて、その後、実践発表を聞いてグループディスカッション。活発な議論が交わされた充実した二日間でした。

子ども文化の知を経験すること

2024/06/10

今日からギビングツリーの「リーダー研修」が始まりました。その参加者が5人見学にいらして「子どもたちが自分たちでどんな風に生活をつくっていっているのかをみたいです」とのこと。子どもの「意見表明」「参画」が乳幼児の場合はどういうことになるのか、そうしたテーマが今回の研修になっているからです。半分冗談で「カブトムシの意見も子どもが尊重してますよ」「カブトムシもエイジェンシーなんですよ」と言いながら、園内を案内しました。

自然界の知覚と行為のシステムのなかに、人間の表象やシンボル体系がどう位置づくのか、この1年ほどでしょうか、時々その疑問を思い出すことがあります。私たちは日常生活のかなで「物の世界と精神の世界」を二分して使い分けるということを、何の疑問も持たずによく活用しています。デカルト的二元論。物と心。また、それと近い問題意識として子ども集団、子ども同士の関わりのなかに蓄積されている知というものがあって、子どもたちは取り出して活用しているといってもいいんじゃないか、ということを考えたりしています。

たとえば今、ある子どもたちにとってカブトムシが保育室のなかにある環境知として大きな意味を占めているのですが、その意味は子ども集団によって蓄積されていく違いや変化があります。私が八王子にいたとき、歩いて行ける場所にカブトムシがいたので、毎年捕まえてきては子どもたちが観察したり育てたりしていました。ある朝、3歳児クラスの子たちがカブトムシの入ったケースのふたをあけてさわっているとき、蓋をしないとにげてしまうと主張する子がいて、蓋をする、しないでもめていたのです。

すると担任はその様子をみながら、そばで別のことをしている年長のRくんに、カブトムシ騒動の方へ注意を向けさせると、Rくんはすぐに先生の意図を察して近付いて行き「昼間はにげないよ」と教えてあげたのです。すると「(へえ、そうなんだ)」という風に、いざこざは静まったのです。カブトムシは夜によく活動するから、昼間は飛んでいったりしない、ということを知っているのです。

そのようなことが毎年繰り返されている異学年が混ざって暮らす集団には、そのような子ども文化が伝承されていくもので、その知恵たるや広範囲に及びます。実に様々な知恵がつもり、成長していったように感じます。起きている子がうるさいと寝ている子が起きるから「しずかにして!」と子どもが子どもに伝えていましたし、食事のセミバイキングもよそってあげるのは当番の年長の子どもでしたが、食べ始めるタイミングをめぐる話し合いでは、当番の子どもたちの意見が尊重されていました。それに引き換え、いまの千代田せいが保育園は、まだその子ども文化の伝承があさく、新しい知恵をスポンジのようにぐんぐん吸収しているように感じます。

昨日の話の続きをすると、精神間機能から精神内機能への2つのルートには、子ども同士、子ども集団がつくり出す場についてのルートはどれくらい想定されているんだろう? そんなことを考えながら、この研修に参加しています。大局的な議論と緻密な議論を組み合わせたいという思いで。

 

退院してきたお友達を迎えて

2024/06/01

(園だより「巻頭言」6月号より)

「ねえ、一緒に遊ぼう!」「遊ぼう、遊ぼう」ー。歩行用の装具を右足に取りつける彼を取り囲んでいます。口々に言っているのが、この言葉でした。着いたよ、の一言で3階から駆け降りてきた子どもたちです。歓迎の気持ちがそんな言葉と行動に現れていました。

何人もの「遊ぼう。遊ぼう」の言葉に前に省略されているものをあえて想像で補足すると(やっとこの日が来たね。ZOOMで約束したように)「一緒に遊ぼう」とでも言っていいでしょう。昨日の「職員室だより」でお知らせしましたが、彼はある病気の治療のために入院して治療を受けていました。面会ができないので、病室と園内をオンラインで繋いで子ども同士のかかわりを持っていたのです。

親御さんと一緒にこの姿に接して、いろんな意味で「よかったあ」と胸が熱くなりました。自分だけどうしてこんな目に遭わなければならないのかと悲しく悔しい思いもあったでしょうし、友達とあったりするとかえってその気持ちを強くしてしまわないかも心配しました。でも親御さんが本人の気持ちを確認しながらZOOMで繋いだ時も、先日の親子遠足で参加した時も、それが前向きな気持ちを産んで、張り切ってリハビリに取り組んだそうです。

そして、退院というこの日を迎えることができました。黙々と装具をつけたり外したり、どんどん自分だけで室内を歩いていく姿を目にしてすごい、と思いました。私の予想をはるかに超えた先を彼は歩んでいます。心配したことを見事に打ち破ってくれました。私でさえそう思うので、ご両親にとってはひとしおでしょう。この病気では退院までの最短記録だそうです。

さらにもう一つ、子どもたちの再会を喜ぶ姿も私たちは嬉しかったのです。しかも「一緒に遊ぼう」という言葉になるところが、いい。やっぱり、遊びです。そして一緒に遊ぼうという、その一緒に、のところ。彼はずっと黙っていましたが、どう感じていたでしょうね。仲良しのRくんとはふざけて叩き合いごっこのようなことを長い時間やっていました。立ったり座ったの動作も自分で椅子や机の使い方を工夫しています。それを周りで手伝う子もいます。

昼食を2階のダイニングで食べるとき、ある子二人がテーブルを寄せて大きくして、彼を囲んで食べるようにしたのです。彼らの中から生まれたアイデアです。座る椅子が足りなくなると、お盆を詰めて寄せ合っていました。お父さんはちょっと離れたテーブルで見守って食べています。園生活の大事なところは子どもたち自身がつっているということを実感します。

 

top