今朝、アゲハが誕生しました。卵から幼虫になり、玄関の自動ドアの隅で蛹になっていたのですが、ついに綺麗な羽を広げてくれました。待ちに待ったこの日を、多くの親子が見ています。その反応もそれぞれが違っていて面白いのですが、「愛おしい気持ち」を分かり合える方々と、蝶の世界を語り合うのでした。
2024/07/31
今朝、アゲハが誕生しました。卵から幼虫になり、玄関の自動ドアの隅で蛹になっていたのですが、ついに綺麗な羽を広げてくれました。待ちに待ったこの日を、多くの親子が見ています。その反応もそれぞれが違っていて面白いのですが、「愛おしい気持ち」を分かり合える方々と、蝶の世界を語り合うのでした。
2024/07/31
巻頭言(8月号)より
こんなことが書いてある研修レポートを読んで「うまいことを言うなあ」と感心しました。散歩のとき、枝を拾ってもいいかどうか?という議論がなされた保育園のエピソード。
「・・何かルールとして決まっていたり、決定されていることを守る方が、悩みもないし、迷いもないけれど、こうして大人にだって“揺れ”があると言うことは、主体性を大切にしていく中ではとても必要は要素なのだと感じました。保育者を含めて“大人”という立場にいると、つい『こうであるべきだ』とか『こうなってほしい』という思いや願いが先行してしまうことも多くて、“揺れ”とか、迷いや悩みといった状態は、知らず知らずのうちに、なんとなくネガティブなものに捉えがちになってしまう気がします。でも、そうして白か黒かという結論を出すのではなく、その間のグレーの部分にこそ、さまざまな関係性ややりとりが生まれていくのだと感じました。
また大人は、そう考えようとはしていなくても、ついどこかで「成功」とか「成果」など、「めでたしめでたし」と思えるような“結果“を追いかけてしまっているのかもしれないなあ、と感じます。例えば、野菜を育てるときに、うまく育っていくように大人の判断でネットをかけたり葉を剪定したり・・。うまくいかずに枯れてしまって、子どもをがっかりさせたくない、という保育者の思いもあるかもしれないけれど、でも、この迷いや揺れ、そして失敗したり試行錯誤したりする経験こそ、子どもの生活の中では必要なものかもしれないと感じました。・・」
研修レポートはニュージーランドの幼稚園の「トマトデモクラシー」(注:ホームページの方で紹介しておきます)のエピソードが紹介と続くのですが、この主体性を尊重し合う「共主体」は揺れ動くものという話は、きっと信頼と対話を育むことにつながるでしょう。その過程を経験してたくさん潜り抜けていく中で身につけることの中に、大事な宝物がある気がします。そこに目を凝らしたい。その見えにくいものを大事にしたい。レポートはこう続きます。
「これは子どもと大人の関係に留まらず、大人同士もまた、何かを誰かに押し付けるような『こうであるべき』という論を持ちすぎず、みんなちがっていいというおおらかな気持ちで保育をしていくことで、より良い関係や距離感を持って良いチームワークでやっていくことができるのではないかと思います。・・・」
・・・・
(注:「トマトデモクラシー」のエピソード。皆で育てたトマトがよく育つように大人が芽をとったら、子どもたちが「なんで相談もしないで勝手に取るんだ」と怒って、大人も子どもも話し合って進めていこうという議論がなされたという話)
2024/07/30
8月3日(土曜日)午前中は園の「納涼会」ですが、引き続き、卒園児を対象とした納涼会パート2が開かれます。主催は保育園と保護者有志からなる実行委員会。親子共々70人ぐらいが集まる、賑やかな同窓会になりそうです。
保育園の納涼会は午前中ですので、お間違い無いようにお願いします。
2024/07/29
2024/07/28
皆さんはご自身の人生の中で、何かの気持ちで胸がいっぱいになった体験というのはありますか?それはどんな時だったでしょうか?
きっと子どもたちにもそんな体験があるはずです。飛び上がるような喜びや、ジーンとくる嬉しさ。それは子ども同士の関係の中で起きていることもあります。子どもがそんな体験をしている側で、大人が運良くそれを感じ取ることができるかもしれません。
そう考えると、そんな経験は私の場合はやっぱり幼稚園のときの初恋の人だったり、小学校時代の親友と遊び惚けた時間のなかのほんの一コマだったり、中学校のときの部活動の地方大会でペアを組んだ彼との「あの試合」だったりします。
大人になってからはどうして生きているのかといった悩みを聞いてくれたグルとの出会いや、知らないところで応援してくれた方からの激励をふいに受けた経験などがあります。
こんなことを思い出したのは、フェイスブックで知り合った「いいね」同士のある方が新幹線のなかでの偶然の出会いについて書かれていたので「そんなことが起きるのか」と、こちらまでエキサイトさせられたかからです。
やっぱり人生を変えるのは出会いですね。
余談ですが、ということは教育の場こそ、そこを目指すべきなんではないでしょうか?
2024/07/26
大きな模造紙に、大きな筆で文字や絵を描く体験をさせていただきました。歩いて15分ほどの神田ベアーズさんから、カブトムシのお礼にと、大学生による大筆パフォーマンスに招待されたのです。年長のすいすいさん7人と出かけてきました。
パフォーマンスは3種類。床に敷いた大きな紙の上で、リズムに合わせて踊りながら大きな筆で文字を書いていきます。出来上がると写真のような文章が書かれていました。
その次は、襖位の4枚の立てたパネルに2人ずつ入れ替わりながら、やはりリズムに合わせて体を動かしながら描いていきます。次の写真。
そして最後は子供たちも参加。床に敷いた大きな模造紙の上に、文字と絵を描きました。
保育園のお友達たちとの交流もでき、また大学生との会話や書き方を教えてもらったり、褒めてもらったりしながら楽しい時間を過ごすことができました。
2024/07/26
8月3日土曜日に開く予定の納涼会は、子どもたちの意見が反映されたブースが色々とできますが、そのうちの「輪投げ」と「的当て」は、遊ぶ道具を子どもたち自身が作っています。
その発展していく様子のいきさつが写真入りで、3階の部屋の入り口にど張り出されています。同じ内容が、日々の保育ドキュメンテーションでスマホで見ていただいてきたものですが、同じ遊びのところだけこうしてつなげて展示してみると、遊びの発展の変化がよくわかります。
5月ごろに始まった輪投げの輪の装飾が、国旗のカラーになったり、その頃参加しなかった子が最近は加わるようになってきたり、輪投げの棒をどうやったら作れるか、地面に垂直に立てる方法をいろいろ考えたり、話し合ったり。
屋上で行う予定の的当ては、水鉄砲で的に当てるのですが、その的は「当たって倒れるもの」にしたいと言うことになったようで、紙コップだと水が当たると壊れやすいので、プラスチックのコップで作ろうと言うことになったようです。色をつけ始めると、ステンドガラスのように綺麗だと言うことに気づいたこともたちが、トカゲや怪獣やうさぎなどを作り始めています。
看板もたくさんできて、その「ことば」や飾りを子どもたちが「あいうえお表」を見ながらつくっています。
2024/07/24
言葉は聞こえないと獲得できないので、生活のなかの声が赤ちゃんにちゃんと届くように、室内は図書館と同じ静けさを確保しています。
24日水曜日、見学者にそんな説明をしました。見学者の方と言うのは保育者です。そのうちの1人の方はベテランの先生ですが、乳児室の音環境と言葉の獲得との関係の話など、あまり聞いたことがないとおっしゃるのです。
しかも、当園の子どもが落ち着いていることや、赤ちゃんの泣き声が穏やかだで、その方が経験されてきた保育園での赤ちゃんの鳴き方と違うとおっしゃるのです。また、うちの先生たちが普段の普通の会話のような感じでしか話していないこと、大きな声を張り上げてないことなどに驚かれていました。
他の保育園の実情はよくわからないのですが、今でも先生が大きな声を出して、子どもたちを導いているような保育がまだあるそうです。
2024/07/23
保育環境研究所ギビングツリー(藤森平司代表)が主催している研修会が年間を通じて何回か開かれているのですが、そのうち最も参加者が多い「保育環境セミナー」を3回のシリーズ(7月9月11月)にして、それぞれの回に主なテーマを設けています。初回の今回(7月22日〜24日)は「子ども同士の関わり・異年齢」編です。
今回のセミナーで再確認したのは、協同性の中で年長児童(その集団の中で相対的に年上の子ども)のメリットです。0歳から満6歳までいる保育園で、その関係性は複雑で単純化はできませんが、私たちの異年齢保育を実践している園の中で話題になり、指摘されていることを箇条書き的に取り出してみると、次のようなことがありそうです。
まず「違いについて気づき興味を持つ」ということがあります。保育園では合同保育という時間があります。朝夕の子どもが少ない時間帯は、たいてい乳児から幼児まで年齢の異なる子どもたちが一緒に生活する時間帯があるものです。また年長の子どもたち(当園ではすいすい組になります)が、お手伝い保育などで、乳児の子どもたちのお世話を手伝っている姿をみると、発達や育ちの違いというもの(という言葉で大人がイメージしているものとは違うでしょうが)に気づいていきます。これは満2歳くらいの子どもでも、自分より小さい赤ちゃんのことを赤ちゃん扱いできる、という姿をよく見かけます。
じっくりと座って話し合ったりできる「ピーステーブル」の空間もまた、自分の思いや考えをしっかり伝え、また相手の思いや考えに気づくというためにもあります。幼児でよく見かけるのですがケンカなどなっとき、その問題を解決するための話し合いというよりも、相手の違いに気づくためという経験になっていそうです。
そのような繰り返しの中で「異年齢の子どもの欲求や興味を知り、共感することができる」という経験になっていそうです。「思いやり、援助の気持ち、寛容さの育ち」と言って良さそうな姿が見られるようになります。乳児でも「いい子いい子」と頭を撫でてあげたり、泣いている子どもにティッシュをとってあげたりしているのですが、だんだんとその姿に気持ちがこもっていくとでもいうのでしょうか、そのような育ちに見えてくるのです。最初は大人がやっていることを真似しているわけですが、次第に心情が生まれ、そこから意欲的にそういう姿勢を心の育ちとして感じるようになります。環境との相互作用の中で浮き出てくる姿、とでもいうのでしょうか。私たちはそこに内面の育ちを感じています。
反対になんでも譲るということだけではなく「年齢の違う子どもに対して自分の言い分を主張する」ということもいい経験になります。このことは言い換えると「異なる要望や行動様式をお互いに調整しなければならないという基本的姿勢を学ぶ」ことになっていそうです。
次のことは言われることですが、確かに「他人に教えることで自分の能力を定着させることができる」ということもありそうです。人類はどうして教える、伝える、手伝う、分け合うということを好むのかという「利他性」の研究がありますが、その中の他人に「教える」ことは、自分の持っている知識や技能を他者のために繰り返し使うことで、そのためにどうやったら相手に伝わるのかを考えて工夫したりしていますし、その表現の変化も見られます。そこにもいわゆる学びに向かう力や学びに向かう人間性の涵養ということがあるでしょう。
私たちのグループには「お手伝い保育の自己評価表」というのがあって「小さい子どもの気持ちに気づいたか」という項目を大切にしています。さらに「小さい子のお手本となることで、自信をつけることできる」ことは、大人の安全基地や賞賛や援助を補うもの、あるいはそれに代わるものとして、子ども同士の関係を育てていくことの基盤になっていきそうです。
このような生活は「異年齢の子どもとの葛藤の中で自分の立場を守ることができること」に繋がりそうですし、またお手伝い保育の振り返りやお集まりのミーティングなどで担任が意識している中に「自分をお手本ととらえて、自分の言動を振り返ってみることについて興味を持つ」ということを意識してもらっているのですが、そういう姿も確認できます。子どもがお手伝いを好むのは、小学校以降でよく言われる当番活動と似たようなことに通じる協同性でしょう。
2024/07/22
「日本の教育で考えると、押し付けすぎているとか、そもそもシステム的にどうなのかとか賛否あるじゃないですか、そのあたりどう思いますか?」
こんな質問に、デザイナーの大西拓磨さんが約1年前に、こんな風に答えていました。
「いやあ、ほんと賛否あるし、ぼくはどっち側でもないんですけど、一個人で言うとぼくは受験して大学にはいって、あなたは何もすることがありません、と言われるまでは、与えられたものに必死だったんですよ、受験勉強があって科目があって、社会に出て、ぼくはまだ出てないんですけど(当時)、大人になって必要だったものは主体性だったんですよ。自分で問題を発見して、自分で解決策を考える。答えがあるかどうかわかんないものに対して考え続けるというような態度が必要だった。
それでいうと、高校とか中学とか、自由研究と体育だけでいいんじゃないか(笑)。もちろん、リテラシーとして文字をよめるとか、計算できるとか、ある程度、数学の道具を知っていることは必要だったりするんですけど、個人個人が考えた問題を解くみたいな。私はこれが好きだから、これを研究しますといえるのが、そもそも大事なのかなと思って。
ここ(孫正義育英財団)にきてすごく驚いたのは、小中学生ぐらいから研究をもっているんですよ、自分の。私はこれの研究をしますといえる。最初は大学の研究室に出入りしたりするんですけど、普通そういう選択肢があることを知らないし、そうならない。学校の勉強があって、それをやっていればよい、褒められる。学校で与えられたのを勉強させておきながら、ある日突然、自由なものをつくりなさいといわれて、結果だけ見せてくださいと言われる。
今でも覚えているのが、小学校3年生のときにぐらいに木星の研究といって、木星が好きだったので本とか読んでまとめたんです。そんなの別に研究でも何でもない。どうみられるか、優等生であろうとしただけだったというか。でもそうではなくて、その背後で自分はすきでやっていたことがいっぱいあって、ルービックキューブもすきだったし、部屋の間取りが好きで、理想の間取りのマンションを描き続けていた。ずっとやっていたんですよ。そっちの方が、今からしたら新しい研究っぽい。私はこれが好きです、私はこういう新しいことをしましたと言えるのに、それが自由研究になると当時全く思わなかったし。・・(木星の研究にしたのは)なんか学問寄り出し。自分の別に好きでも何でもないけど、みんなこうしたらいいんじゃないとかで自由研究をやってしまうんです。
だから僕が子どもを育てるとしたら、これは君にあう研究分野だねってみつけてあげて、というか、当人が夢中になっているものを研究としてアプリシエイト(賞賛)してあげて、それに対して援助するというか。例えば学校の先生という立場であれば、毎週、進捗確認とかして、こういうことを知りたいんだったらこういう方法があるというノウハウを教えてあげてとか。
本人のやりたいことを、主体性を伸ばしてあげる機会が、少なすぎたな、僕の人生には。・・周りにあわせて周りの顔色を窺っていたら、結局社会のためにあまり役に立てなくて、学校で教わったものというよりは、好きでやっていたことの方が役に立っている。本来は中学ぐらいで、義務教育終わっているのに、みんな高校へいって勉強しているで、もう少しなんか選択肢があってもいいのかな。義務教育終わっているのにそんな感じで大学までいっている。・・」
・・・
夏休みになって卒園児がボランティアに来ています。自由研究の話になって、このちょっと古い動画を思い出したのでした。