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2024年 12月

ポストモダンの現在は?

2024/12/31

大晦日に私が出会った動画は、梅津庸一の作品群に対する浅田彰のコメントだった。その読み解きを聞いていると、1980年代から続いている「構造と力」のリフレインのように感じた。同時にその解析力が現代にも説得力を持って通じると言うのは、一体どういうことなんだろう?ある種の文化的停滞である。

この対談の中で明らかになった村上隆や草間弥生の斑点の謎が、アンチ・オディプスの解釈で説得力を持つというのは、あってはならない空白ではなかったのか? ポストモダン的振る舞いは、過ぎ去ったのではなく、表層的リフレインのように既視感を感じてしまうのは、本当のモダンが、もしかするといまだに到来していないと言うことか? コラージュが最先端なんててことがあって良いはずがない。

グローバル消費社会の中で、ただ見えなくなっていただけなんだろうか?だったら、もっとあからさまに、モダンとは何だったのかを総括してくれないかな? 私のような全くの素人にとって、古代から現代まで痛快に並べて見せてくれたのは、松岡正剛の「全然アート」だったけど。

今日第九を歌う意味を考える

2024/12/30

年の瀬である。1年の中で、何かと何かがぶつかり合うような時間帯。去ってゆくものと現れてくるもの。ぶつかり合うなら、音がしそうなものなのに。今年と来年が出会うなら、どんな音がするんだろう?音は物と物の接触で起きると言うのは、あまりにも物理学的すぎるんじゃないだろうか?なぜなら、観念の融合する音だってあっていいじゃないか。バッハだってベートーベンだってモーツァルトだって、そういうことを音楽にしてきたんだから。音楽を物理現象で解き明かそうなんてしないでほしい。

お察しの通り、年末ですもの、ベートーベン「第九」のことです。新しい社会への喜びです。2025年を迎えるにあたり、私たちはどれぐらい純粋に喜べるのでしょうかベートーベンがこの曲を作った時代と、現代と言う時代の差異に何を読み取ればいいんでしょうか?

せっかくの家族の時間だったのに。

2024/12/29

年末である。仕事は無い。家族の時間が始まる。私の子供夫婦が孫を連れて家にやってきた。手土産はモゾロフのプリン。久しぶりに食べたが、こんなに甘かったっけ?1歳3ヶ月になる孫が、何でも手にして、物の上で何度も手を上下に振る。何かの真似をしているのだ。ちょうどご飯の上にふりかけをかけるような仕草に似ている。袋から何かをこぼすような。小麦粉を袋からボールに注ぐような。多分、料理の真似事だ。1日何度も母親がやっている、その仕草。それに、言葉をつけてあげた。「ふりかけ、しゃしゃしゃ」と。するとどうだろう、ケラケラと笑って喜ぶではないか。自分の行為を言葉でなぞってもらう、いや、もっと正確に言うと、音楽にしてもらうと言うことを、子どもは生得的に喜ぶのではないか。生きると言う事は、言葉とともに音楽も伴っていたのではないだろうか。アニミズムを再評価し出している人類学には、もっと音楽が必要な気がする。私の孫がそれを証明しているような気がした。

あぁ、家族の時間なのに、また、保育を持ち出してしまった!

なぜかカッコつけて<アボカッ・ベイべーッ!>

2024/12/28

4回も続けて同じ絵本を読んだのは初めてでした。「もう一回!」という強い要求から、そうなったのですが、どんなところがそんなに魅力的だったのだろうと読みながら、感じ取ろうとして、それを今でも考えています。あの時空はたしかにちょっと特別でした。

お昼ご飯は子どもと一緒に食べることがあるのですが、その時、ある先生の赤ちゃんが生まれた話になって、そこから、たしか「じゃあ、元気な赤ちゃんの話がいいね」となったのでした。ジョン・バーニンガムの『アボカド・ベイビー』。「あるものを食べたら、すっごく元気なる赤ちゃんの話なんだ」とかなんとか言って、ご馳走さまをして、何人かと一緒に3階の「ゴロゴロするところ」へ向かったのでした。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、物語は、家族みんなが心配するほど、食欲もなく病弱な赤ちゃんが、なぜかアボカドだけは好きで、それを食べはじめたらとても元気になって、力持ちになって・・・(わざと抽象的に書きますが)悪い奴も懲らしめてしまうという、痛快なお話です。絵本には奇想天外なところがあって、そこが物語の面白さでもあるのでしょうけれど、私が「面白いだろうから読んであげたいな」という気持ちがなければ、この絵本は選ばれなかったわけですが、そもそも私が、たくさんあるバーニンガムの絵本から、これを思いついたのは、最近、ある大学生と絵本の話をしていて「気になる絵本の一つ」に挙げていたことを思い出したからでもあります。

ですから、私もタイトルの読み方からして、『アボカド・ベイビー』とは読まず「これはね、英語で書いてあるでしょ、英語の発音はね、<アボカッ・ベイべーッ>というんだよ」と、右手を銃の形にしてイェーイ!とカッコつけて、<アボカッ・ベイべーッ>とやってあげました。もちろん「もう一回やって」を何度か繰り返して、子どもたちも真似してましたけど。そういう空気感の中での、『アボカド・ベイビー』です。

ということもあって、この機会が生まれたわけですが、ちょっと前までこれを読んであげようという詳細なプランがあったわけでもなく、食後に絵本を楽しむという大枠の計画はあるのですが、そこで何をどう読んで過ごすかは、それまでの子どもたち、担任たち、私、その場所、その時間、その他の絵本、ジョン・バーニンガムの絵本への思い、担任の赤ちゃんの話題、私が大学生と話題にした過去の記憶の甦りなどと、それらは数え上げれば、それぞれの主体に無数にあって、それがあの時の空間に結晶化したとでもいうようなことではあります。どんな出来事だって、縁のないものはないので、そのつながりの中に、人は大切だと思えるラインを引き直しているのかもしれません。

でも、その中でも「こうこうことが起きるからいいんだよなあ」というのがあります。その空間で、子どもにとっては初めての予期せぬ物語に引き込まれ、「もう一回」のカーテンコールが4回続いたのです。これは滅多にない。それもそれで面白さの度合いが違う何かがあったのでしょう。話は奇想天外で痛快で、こんな感じ自分でも味わいたいという、何か胸のすく解放感が感じられ、絵本の中だから許される経験が疑似体験できるから、もう一回!と反復しながら、子どもたちの時間が生きられたのではないかと思います。そういう快感を求めたいほどの状況を生きている子どもたちだった、とも言えるかもしれません(じゃあ、どういう状況を生きているのか?と気になりますが)。

 

今週は3回、絵本を読んであげる機会がったのですが、上記のことは2回目のことです。1回ずつ、出来事として違いました。同じ絵本の読み聞かせという時間(園長の絵本タイム)であっても、その機会そのものとしても、おそらく個々の子どもたちにとっても毎回違います。まあ、当たり前ですが。それでも今週は3回あった絵本タイムのそれぞれが、違った味わいに彩られていくことが、とっても楽しいのです。

手作りのベイブレードができていた!

2024/12/27

「ちょっと見てくださいよ。すごいですよ」と年長の担任から言われて、年長のSNくんのやってることを見てみました。

確かに、すごい! 市販されているおもちゃにベイブレードというのがあるのですが、それと、同じようなものをRaQ(らきゅー)というピースパズルで作り上げているのです。しかも、実際によく回ります。

ベイブレードは、現代版のベーゴマのようなものです。紐の代わりに、ギザギザのある棒状の薄い板(写真の黄色)のようなものを勢いよく引きます。それによってギアが回転し、駒(緑色)が回ります。この3種類のパーツが、うまく噛み合わないといけないのですが、うまく作ったものですね。

RaQのピースは7種類あって、いろいろなものを作ることができます。これまでも、子どもたちが作ったものを見てきましたが、ここまで高度なものは見たことがありません。多少は教えてもらったりしたかもしれませんが、これは彼のオリジナルでしょう。担任は「ほんとに好きこそ物の上手なれ、の例ですよね」と感心していました。

あえてSTEM保育の文脈で言えば、Eのエンジニアリング的です。パズルですから幾何学としての数学的要素もあります。Aのマスマティックス(数学)。勢いよく長く回ること、戦いにして勝ったり、負けたりすることを面白がっているので、子ども用のストップウォッチを導入して、回っている時間の長さを計測する、それを量的な記号で表すという活動につなげてみたらどうなるだろうと、先生と話してます。

 

小学生や高校生と語り合う中で

2024/12/27

学校が休みになると、小学生や高校生がボランティアに来ます。大学生のアルバイトも増えます。この冬休みの間にも、高校生が四日間保育体験に来ました。人的環境がすこし変わるので、保育にも影響します。例えば、赤ちゃんが新しい大人と仲良くなったり、幼児の制作に少し目新しいものが増えたり、遊びが広がったりします。

この高校一年生はまだ16歳なのですが、自分の保育園の時に出会った先生が忘れられず、中学の時の職場体験でも保育園をえらび、ネットで調べてうちに電話してきました。素晴らしい行動力ですよね。私が高校1年の時にこんなことができただろうかと思うと、とてもしっかりしているなぁと感心します。

と同時に、幼児教育が楽しいと言う実感を持ってもらいたくて、赤ちゃんから、幼児まで、すべての年齢で子どもたちと触れ合ってもらいました。子どもたちとの気持ちの通い合いがとくに嬉しかったようで、夕方、5時の時間になっても帰りたくないような様子でした。毎日簡単な感想を書いてもらいましたが、今日最終日は子どもたちとの深い関わりが具体的に書いてあって「もっと続けて来たい」とあります。

卒園した小学校1年生や3年生もボランティアとして過ごしました。その小学校の校長先生や副校長先生と1月の訪問の日程を相談中なのですが、保育園での生活や遊びが、小学校以降の生活や学びとつながっていくために、特別活動や進路指導の内容から考えていくことも大切だろうなぁと思いました。

私たち、保育士は「現在を最もよく生き、望ましい未来を作り出す力の基礎を培う」と言うフレーズに慣れ親しんでいます。それを言い換えると「自己発揮と社会を夢見る力の実体化」と言ってもいいのかなぁと思います。現在と将来。そこに1本筋を通そうとする生活のあり方。その学びのあり方について、来年は小学校の先生たちとそこも語り合いたい、小学生や高校生の発言の場も設けながら。今日はそんなことも考える1日でした。

 

音楽性のある空間に満ちていた一年

2024/12/26

この一年を先生たちとちょっとだけ雑談的に振り返る時間があったのですが、いつも聞こえてくる歌の話になりました。たしかに、いろんな歌やわらべうたやダンスをしたような気がします。さっきも3階で「お正月」を私がギターで伴奏して、子どもが打楽器でリズムととって遊んでいたのですが、1階の乳児室からも、歌声と笑い声がいつも聞こえていました。

そういえば、大学の先生が当園の音楽のありかたを調査されたのですが、「絵本をまるで楽譜のように使っていて、いつも音楽に溢れていますね」とおっしゃったことを思い出しました。

保育空間の要素に「音」があると思うのですが、乳児の頃から人の声に感受性がある子どもたちは、先生たちの話し声をはじめ語り合いや笑い声、歌や踊りなどが大好きです。

柔らかいウクレレの伴奏で、先生たちのハーモニックな歌声が子どもたちを包み込み、そこで気持ちよさそうに体や声が動き出します。そういう感じは、保育参観やお楽しみ会できっとお伝えできていると思います。

見学案内の時にもお伝えしているので保護者の方はご存知ですが、当園の天井は質の良い吸音材をつかっているので、部屋にはいるとスーッと声が吸い込まれて反響音が少ないことが実感できると思います。コンクリートの壁がないので反響するところがあまりないようにしています。とくに乳児室をそうしているのは、言葉の獲得が大事な赤ちゃんにとって、大人の「声」が自然にこきえてくる環境にしたかったからです。部屋の隅にいても、声が届きます。

目の前に昭和通りと首都高速道路が走り、騒音と排気ガスが部屋に入らないようにすることも目的でしたが、結果的に音からみた保育空間を作っていく意味でも、良い効果をもたらしていると思います。そもそも音楽性をもっている言葉が、さらに躍動的に体に染み込んでいくかのような空間と、声〜ことば〜わらべうた〜音楽の空間は、もちろん先生たちが意図的にそれを作り上げているからですが、そこに吸い込まれていくような感覚があると思います。

一年を振り返って感じる印象が音楽的な空間性というのは意外かもしれませんが、保育の質には持続性が欠かせないと思うので、「それが継続できるといいよね、他のクラスにも発展していくと良いよね」と話しあったのでした。

サンタクロースの意欲が高まる時

2024/12/25

「今年もサンタクロースくるかなあ」。年長のSNくんが、去年のことを覚えていて、とても楽しみにしました。その話を聞きつけた<当園に来てもらう予定のサンタクロース>が、俄然、意欲的になっていたそうです。よ〜し!と気合が張っている様子をそばにいた人から聞きました。ようするに子どもの喜びがサンタの喜びなんでしょうね。

というわけで、いつものようにぷりすますプレゼントをもって、やってきてくれました。サンタがくれたプレゼントは、何かと格別なオーラをまとっており、包装から取り出すときは、まるで世にも珍しい宝に出会ったかのようなドキドキ感が伝わってくるのです。

<当園に来てもらう予定のサンタクロース>は、もちろん、ご想像のとおりです。家庭でもそれを子どもに隠し合って、これだけ壮大なフィクションにしてもいいという、あっけらかんとした合意ができているのも面白い社会現象かもしれないですね。そういえば、昨日はNHKがわざわざ、フィンランドから<本物の>サンタクロースの出発準備のスピーチを流していました。・・・

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