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10の姿(保育アーカイブ)

オニツカ家に赤ちゃん誕生〜年長児が編み出していく「ごっこ空間」〜

2024/12/20

年長さんの女子3人が家族ごっこをしています。赤ちゃんとうさぎのペットの5人暮らしです。

母親「じゃぁ、(子どもの)Rっちが誘って、私たちにあげるんだよ。私たちにちょうだい。3個ずつよ。6個あるから」。

転がっているボールは何か意味があるようです。

父親「あそこ、青いマットの下(にあるよ)」

母親と父親が3個ずつボールを受け取ると、母親が

「ちょっと買ってくるから。ちょっとお父さん、子どもとやっといて。私、行くから!」

といって、飛び出して行きます。一体どこ行くんでしょう? すると、子どもが「赤ちゃん泣いたよ」と教えると、母親が「あぁ泣いちゃった」と、部屋に戻ってきます。

私がそこから「トントンごめんください」と中に入れてもらうと、母親が「赤ちゃんです」と抱えて見せてくれます。名前を聞くと、まだなかったみたいで、ちょっと考えて「ななちゃん」といいます。

すると、子ども役のRちゃんが「ななみは?」とお母さんに提案。母親は「じゃあ、苗字は、おにつかななみ、ね」。(なんでオニツカなんだ?)

3人は私をリビングに案内してくれて、お父さんが「こっちにはすごいソファーがある」と説明してくれました。そしてお母さんが私に「写真撮ってもらいましょう」と言って、3人でポーズ。

「赤ちゃんちょっと泣いちゃったね」と、段ボールと布てきたベッドに寝かせます。お客さんである私に「ここは気にしないでください」と、ベッドが壊れ、かけてでもいたのが気になったのか「ここは違いますから。うさちゃんのベッド」と、お客さんに気を遣ってくれます。

すると、子供がペットのうさぎを連れてきて、ベッドに寝かせます。

「うさちゃん、おやすみ。ここでね。」お父さんが「2段ベッド」。

子どもが「うさちゃんのミルク」とミルクを飲ませます。私がお礼を言って帰ろうとすると、「じゃあ玄関開けなきゃ」とお父さんがドアを開けてくれます。

お母さんも走ってきて「ここはみんなの庭なんですけれど、ここは赤ちゃんのお庭なんです」と離れを見せてくれました。

・・・

私がお邪魔したのは、ほんの5分位ですが、こんな家族ごっこが1時間以上続いていたと思います。犬の散歩に出かけたり、野球をやったり、買い物に行ったり、ごっこ遊びといっても、オニツカ家は大忙しでした。

このように、遊びは単なる模倣に止まらず、そこに持ち込まれる道具としての物と、表現的な要素が流動的に影響しあい、新しい関係性や意味が生成される創造的な場であると言えそうです。

運動ゾーンで展開されるごっこ遊びの空間に入り込んでみると、既存の遊具が新しい道具として使われていることに気づきます。既存の何々ゾーンと言うラベリングを壊していく力を子どもたちの遊びは持っているようです。

絵を見ないで話してあげるお話の世界<ケ言葉による伝え合い>

2024/12/19

絵の少ない物語を読んであげていると、子どもがじっと想像していることがよくわかります。お昼ご飯を食べた後で、エルマーの冒険の話になって、「どこまでいったけ?」「ねずみがでてくるところまで」というので、3階のクッションの上で読み始めました。食後はゆっくりしたいので、子どもたちは「ごろごろタイム」と呼んで、自分たちで絵本をもってきて見たりしています。

想像するというのは、目の前にないものを思い浮かべるということだとすると、じっと目をつぶって、頭の中に絵を描くことに似ています。それがちょっと難しい時は、私は「ここだよ」と地図などを広げてあげます。

「今ここだよね」などと地図を指差しながら、次々と出会う動物たちから食べられずに、うまく逃げていくエルマーの足取りをなぞっています。また所々に入っている最低限の挿絵が、状況を「思う浮かべる」手助けにもなっています。

話の途中で「どうして?」と聞かれることがあって、その理由がその次に書いてあったりするのですが、そこを読んであげると面白そうに納得しています。今日のメンバーは「りゅうがあばれたら、ゴリラにほうこくすること」という箇所で、大笑いになりました。子どもによって面白いと思う箇所が違うので、それも読み聞かせをするたびに、面白いと感じるところです。

あまり絵に頼らずに、言葉を聞くだけで情景を思い浮かべながら、お話を楽しむというのは、今の時代にあまりない体験のような気がします。私の読んであげる言葉に、じっと耳を澄ませています。

このような体験をたくさんすることは、考える力に影響する気がしますが、どうなのでしょうか? 映像にあふれている時代だからこそ、もっと必要なことかもしれません。

<ケ言葉による伝え合い>

保育士や友達と心を通わせる中で、絵本や物語などに親しみながら、豊かな言葉や表現を身に付け、経験したことや考えたことなどを言葉で伝えたり、相手の話を注意して聞いたりし、言葉による伝え合いを楽しむようになる。

子どもはなぜ数を数えがるのだろうか?<ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>

2024/12/18

今日は不思議なことに、数をかぞえる姿が私に飛び込んでくるような日でした。毎日朝ラウンドしているのですが、7月で5歳になった年中の男の子が、RaQで作った輪が繋がったものをみせてくれました。仲の良い同じ位の友達と2人で作ったものです。「わあ、長いのができたね」というと、何かこんなに沢山作ったんだということを自慢したいようなことを言って、私の前でかぞえはじめました。

こういうことは、よくあるのです。1、2、3、4・・(いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、ひち、はち・・)とずっと数えて、途中で指を差しているのがズレたり、跳んだり、だぶったりしながら、また正確さはイマイチなんですが、最後は63まで数えました。すこし数え慣れている子どもなら、にじゅういち、にじゅうに、とはいわずに「にーいち、「にーに」とやるのですが、律儀に「よんじゅうご、よんじゅうろく・・・」とやっていきます。

私は思わず「すごいね、63個も作ったんだ、よくつくったなあ」みたいなことを言っていました。本当は67個あったんですが。私が本当にすごいな、と感心したのは、「よくもこんなに同じものを作る根気があるなあ」ということと、「それきた〜、わざわざ数えるんだよね、それやりたいんだよね、そうだよね」ということでした。ちょっとよく見えるように、天井から下げてみました。

実は、1ヶ月ほどまえに、手作りのお手玉とつくろうということになって、数珠玉を手に入れたのですが、それを紙コップにいれて事務所のテーブルに置いていたら、年長の女子二人が、その中に入った数珠玉を数えたみたいで、数字が書かれた紙切れが置いてあったのです。453。

子どもたちには、何かと数えたがる時期があるようです。その意味合いについては、シェルマとかカミンスキーとか、シュテルンなどが唱えていることの概略を読んだことがあるのですが、私が感じるのは、その数えるという行為にみられる「あくなき姿」のようなものです。大体大人になったらめんどくさいと思ってしまうようなことだと思うのですが、子どもにとっては、何か新鮮なものらしいのです。

今日はもう一つこんなことありました。年長の男子一人と2時間ほど過ごしたのです。やったことは、あやとり、一円玉の浮かせ競争、逆さまにしてもこぼれない水、水に移る絵、コマ回し、かるた、将棋です。

年長なのでかなり高度なことができるのですが、一年玉が浮いている数が多いときが勝ちにしたとき、沈んだ一円玉の数に対して、1対1、2対1、3対1、4対1、4対2、5対2・・というふうにスポーツ競技でやるような点数の進行を、やりながらなにも見ずにどんどんやっていって、最後は31対19で勝ち、ということができるようになっていたのです。

途中で沈んだりするので、25対11が、24対12になったりするのですが、それも数えなおすこともなく、そうだという確信があるようです。全部で50枚なので最終的には数が合わずに、私が数えなおしたのですが。それは浮いている一円玉を順序よく数えることが難しいということで、大人でもそうでしょう。

物のはずみで始まったカウンティングですが、よく考えると、この子たちは今年、野球ごっこで試合をたくさんやってきていたのでした。またトランプやオセロゲームなどのゲームは何十種類と遊んでおり、数は知らず知らずのうちに、多い少ないとか勝ち負けとか、何かをはっきりさせるものとして、機能しているのでしょう。そのようにして、何かと数えたがるのは、そうすることが自分の中に世界を把握する一つの方法を手に入れているからでしょう。

小さいうちから指折り数えていた時期に始まり、たぶん数を数えていくと必ず最後に行きつき、さらにそれがどんどん増えていき、それでも自分でやって結論がでる出る手応え感があって、しかも他の人に「こうだ」と通用する感じが、確かな認識を得ていくことの予感になっているのでしょうか。

そういえば、今月初め3年生になった卒園児がそろばんで賞を取ったと、わざわざ私に見せに来てくれました。数を数えるスキルはこうして大人のそれを、越えてゆくのですね。

<ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>

100センチに近い方が勝ち!<ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>

2024/12/11

午前中の課題保育として、木製の積み木を6分以内に積み上げ、100センチに近い方が勝ち!というゲームをやりました。主任が動画で配信しています。運動ゾーンのマットをどけて、床を平らにしています。入り口のところに、これが100センチという「正解」が置いてあります。

二つのチームに別れています。その高さにするために、片方のチーム(A)はだんだん近くなってくると、野球のバットを物差し代わりに使って、「これだけ(1本分)と残りこれだけ」のようにやっています。もう一つの方(B)は、OYさんが立った姿勢でままの自分の体の部位に手をつけて、そのまま移動して「ここ」とやっています。

どちらのチームも、ありがちな方法を思いついてやっており、同じ高さにするという方法を考えることよりも、積み木を高く積み上げることに興味がいっていました。Bチームは高くなりすぎたことに気づくと、慌てて低くしようとして、せっかく積んだ積み木が崩れてしまいました。でも「まだ時間あるよ」と主任が声をかけると、急いで積み上げ直していました。

最終的にはBチームが100センチぴったりで、勝ち。この経験から何に気づいていくのか、楽しみです。ちょうど100センチにするという目的のために、どんな知識やスキルを活用して、どう考えたり、試したり工夫したりしだすのか、次の機会が待ち遠しいのですが、主任がメジャーを使って測定していたので、それを使いたいとなったら、どうするつもりでしょうか?・・・その代わりのものを用意するとか、そういうことに気づくものかどうか? 楽しみです。

<10の姿 ク 数量や図形、標識や文字などへの関心・感覚>

遊びや生活の中で、数量や図形、標識や文字などに親しむ体験を重ねたり、標識や文字の役割に気付いたりし、自らの必要感に基づきこれらを活用し、興味や関心、感覚をもつようになる>

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