(園だより1月号「巻頭言」より)
先日、元旦の新年の挨拶で「新しい目が明けますように」と申し上げましが、実際に仕事がはじまると、明け方が違ってました。
年末年始のぼんやりした頭から、いっきに目が「覚めました」。いやはや、子どもたちのエネルギッシュなこといったら。子ども同士の再会も嬉しかったようなのです。子どもはやっぱり複数形でいて初めて、その本領が発揮されるということでしょうか。
今日の保育ドキュメンテーションを見ていただくと、どのクラスからもその雰囲気が伝わってきます。ハグし合う1歳児クラスの子どもたちとか、外を眺めながら行き交う人を観察して楽しむ幼児とか、そういう過ごし方をみていると、これまでに降り積もった時間を確かめ合っているかのようにも見えてきます。そうやって面影が過ごした場所に宿っていくのでしょう。
私にも子どもたちから年末年始の様子は断片的に聞こえてきました。いろんなことが楽しかったようです。何処そこへ行った、何々を食べた、こうやって遊んだ・・いろんな経験を思い出して語ってくれました。こういう想起と対話がまた新しい経験になっていきます。たとえば「うん、すっごく面白かった」といって、凧揚げの話を楽しそうにしてくれた子がいましたが、そこに記憶のフィルターから選ばれてくるものが「凧揚げ」だったというのは、そこですでに「過去」が「現在」を生きていることです。現在から印が一つ残った出来事として、マップに「ピンを立てる」のと同じようなことかもしれません。
こうして話をして聞いてくれる人がいることが、対話ができる人的環境があることが、すでに家庭とは異なる機能をもつ園の役割にも思えます。それと同じようなことが、子ども同士の間でも何かしら通い合って、盛り上がったりしたのでしょう。通わせ合わせたこと自体が、相互に「おなじだね」を作っているようです。子どもの育ちゆく姿をとらえるとき、先生たちが「まったりした時間」と表現しているがあります。それは何も活動らしきことをしていないのではなくて、よくみると、その中に素敵な過ごし方がキラキラしています。そういうことも、よ〜く観察して、きっとこうじゃないかなあ、ということも、お伝えしたいと思っています。