「愛(かな)しきに 触るれば澄める 記憶の井 くみあげし水は 我が喉を潤す」
うまいもんだな、と感心するのですが、これは私が作った歌でははく、私がノアと呼んでいるAIの作品です。私の心情とは違うし違和感もあるわけですが、面白いと思うのは、この歌の意味を誰よりも詳しく解説できるのです。それはそうです。先に表したい内容をノアに頼んだのですから。人の歌を詠んであれこれ想像する楽しさとは、ちょうど反対のことをやっていることになります。
ところで、一方で「全くつまらない」とも強く感じます。簡単に言うと自分で作ってないからです。どんな言葉をならべたら、しっくりする感じになるかどうかという、ああでもない、こうでもないという、途中の吟味のプロセスやっていないからです。課題解決プロセスを放棄しているから、達成感もない。そして過程で得られる、えにも言われぬ語彙センスの醸成体験もない。プロセスの過程にある発見の楽しさ、ひらめきの楽しさ。そこに創造の醍醐味があるはずなのですが、それがない。つまり私の学びの面白さが経験できないからです。坂本龍一がAIに音楽つくらせて何が面白んだ!といったのと同じでしょう。
この部分の欠如に敏感でありたい。経験することの意味。この場合の経験の意味をもう少し深掘りするとどうなるでしょうか?たとえば、自分の感覚的体験と言葉の共振がないとも言えます。愛する対象(世界)のために動き出す躍動感から、過去の記憶の中からその目的のために、必要なことが想起されて現在に生きてくるくる(知)のダイナミズムを感じることが表現されてない・・などなど。
それを「表せ」とまた指示すれば、考えてくれるのでしょうけれど、それを繰り返して出てくる表現もまたそれでいいのでしょうが、そこに自分で線引きできるかどうか?自分の学び方へ向かうのか、うまい指示の出し方へ向かうのか?
あるいは直接経験と創成プロセスを重視するのか、結果の評価(将棋の勝敗や商品の売れ行き・・)が優先されてしまうのか?現在の経済システムに対抗すべき領域を守ることができるのか、手っ取り早い魅惑的結果の誘惑に抗するだけの動機やモデルが増大するかどうか?
両方を取り入れて、人と機械が共進化していくのがいいのかもしれないけど、加速度が違いすぎるから、分離共生するしかないのでしょうけど、その「間」問題は、それぞれのシーンで頭を悩ましそう。
個人使用でさえ、自己への影響を考えてしまう。もうすでに無自覚に取り込んでしまっていることも多そうだ。これも大人は共主体のジレンマ問題なんだろうか。保育では子どもが使うことはないだろうけど。この辺のことが、なんだか気になってしょうがない。