よく晴れた元旦の朝。宇宙飛行ができる時代になっても、見えないクラウド(雲)のコンピュータが知らない間に「私の好み」を教えてくれる時代になっても、やはり多くの人々が地平線や大海原や霊山(例えば富士山)から陽が昇ってくることに重要性を感じているからでしょう、全国各地の初日の出の映像が、テレビで放送されました。何の疑問もなく、それが当たり前と思っているかもしれませんが、年の初めに太陽を拝みたくなる国民がこれだけいることには意味がありそうです。
それは紛れもなく太陽が生命の源であることを、日本人が無意識に生活律として体に染み込ませているからではないでしょうか。実は母音の「あ」と太陽は関係します。太陽が昇ってくる姿を見ると、太古のヒトは「あ〜」という感嘆の声をあげました。「あ」は畏敬の念を表す母音です。母音と感情は結びついているのですが、その話はまた別の機会にしますが、畏怖の対象でもあった太陽に神性を感じたのは神話を見れば世界共通であることがわかります。
日本ではイザナギの左の目からアマテラス(天照大御神)が、右の目からツクヨミ(月読命)が、そして鼻からスサノオ(須佐之男命)が生まれます。この三神を貴士と言います。こうした物語は、各地にありましたが時の藤原政権が編集して話を繕って都合のいいストーリーに仕立てていきます。日本神話は「古事記」や「日本書紀」に書かれている話ですから、ちょうど藤原不比等の晩年ごろ、つまり養老4年(720年)に編纂が完成しました。そこで今年は「日本書紀」編纂1300年に当たります。日本のはじまり、ここにあり。このキャッチコピーは、1月15日から東京国立博物館の平成館で開かれる特別展「出雲と大和」で使われています。
さて2020年がはじまりました。天照大御神を祀る神社は全国にありますが、伊勢神宮の内宮がその総本社です。しかし日本の神々は多種多様であり、記紀神話に出てくるもの、あるいはそれ以外の神々を正月に招き入れるために、松門を飾ります。なぜ松かというと、日本の海岸線には松がたくさんありました。この100年ぐらいで、原因がよくわからない「松枯れ」が急速に進んでしまったのですが、古くから日本には海岸にはクロマツ、内陸にはアカマツがあるのが普通でした。冬でも青く生命力のある松の木。縁起がいいもの、めでたいものを招く力を松に感じたのです。日本人は海岸や山中で、神やその恵みを待っていたのです。めでたいものに来て欲しい、それをもたらす神を呼び寄せる「依代(よりしろ)」が門松です。
松は、梅や竹と並んで、日本画や襖絵や舞台背景、緞帳にも描かれ、庭園や能舞台にも必須です。しめ飾りは、正月に神様が留まっていただく聖なる場所の表示です。それには藁とシダ(ウラジロ)が使われてきました。
行事のたびに、いろいろな植物を用いている日本の文化。各自が大晦日までたどる反省的時間から一転、朝日が昇るのに合わせて、今度は良きものの到来を自然界と交信し合う松の内の時間。面白いですね。私たちの精神の脈動のあり方にも、文化が流れています。