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園長の日記

人類進化の「必然」を踏まえて生きる

2020/01/09

目の前で起きていることが「事実」だとしても、そこにどんな「表象」を読み取るのかで、全く意味が変わってくる。それが私たち人間の性(さが)です。さがというよりも、文化といった方がいいかもしれません。なぜなら個人の問題ではなく、長い進化の過程でそうなったものだからです。

新しい年を迎えて、年と年の入れ替わりという、当たり前ですが年に一度しかない「非日常」が、こうして日常に帰っていく感覚。慌ただしい朝が戻り、満員電車に乗り、勤め先の人たちといつもの仕事に戻っていく日常。当たり前とは思えない現代社会の日常に、何ごともなかったかのように戻っていける適応力。これもまた私たち人間の持つ、適応力であり、その幅広さを示すものかもしれません。

それは際立った時間から平凡な時間に移行していくという、色褪せていく時間のように思えなくもないのですが、今日9日は、ある意味で最も「人間らしくない仕組み」である「現実」に引き戻される日でもありました。私が3月までいた「せいがの森こども園」で八王子市による監査(指導検査)があったからです。指摘事項はゼロだったので、何も問題がなかったのですが、このような「正しさ」の証明行為に虚しさを感じる理由を探っていくと、人類の進化からくる必然ではなく、現代が信頼社会に成熟していない証拠のように思えて仕方がありません。

その一方で、「やっぱりこれだなあ、人間の本来は」と思うのが、子どもの姿です。保育園が動き出すということは、「子どもたち」(複数の関係のタペストリー)が教えてくれます。子どもは子どもと過ごす社会の中で育つのだということ。親や先生の言ういことを聞かなくても、子どもの関係の中で身につけることを人類は本能的に優先していること。まるで子ども同士の中には、目に見えない強力な磁石があるかのように引き付き合います。

例えば、今日のちっちのブログのように、ヒトが生まれながらにして子ども同士の中で「模倣」を繰り広げることのできる人的環境があるのは、保育園のような集団のある場所だと言うことです。そうした、きょうだいやいとこの関係の中で、社会化され、大人になっていったのが人間だからです。大人がそうするように仕向けたり、教えているわけではなく、自然とそれをやり始めるのです。

もっと言うと、その関係の中では、実は親の影響はあまり受けないのです。例えば移民の子は親が話す言葉よりも、友達が話す現地の言葉を優先して習得することを思い浮かべてもらうといいでしょうか。今日は大学生も保育体験に来ました。そうした子どもの様子も見てもらったところです。

保育園がホームになる本当の意味は、この子ども同士の関係が育っていく過程にあります。この意味を「深く」理解していくことは、とても面白いことです。今年は、そうした姿の意味を掘り下げていきたいと思います。

 

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