(16日のバス遠足の出発。バスに乗り込むすいすいさんたちを「みんな〜」と叫んでいた、わい・らんの子どもたち。いつも一緒に生活している異年齢集団の良さを垣間見た瞬間でもあります)
今週末からいよいよ地域間の移動が緩和される見通しとなってきたタイミングで、政府の抗体検査で東京の場合は約1000人に一人が新型コロナウイルスにかかっていたことになる結果が16日(火)公表されました。これにどう反応したらいいものなのか、世の中は、すでに「感染者数は意味がない」ことをすっかり学習してしまっていることを証明しているかのように見えます。症状が出ているのか、重症かどうか、そうした判断ができて、きちんと治療できればいいというコンセンサスが見事に出来上がっていたというような、なんとも政府に都合のいいタイミングの中で国会も閉じました。よくできた台本があるのでしょうか。それとも本当にこれは偶然なのでしょうか。人間と自然(ウイルス)の関係ですから、全部シナリオ通りということではあり得ませんが。それにしても、都合のいい展開なので、不都合な真実を探したくなりますね。
その昨日の午後、ちよだリバーサイドプロジェクトの岡田さんと石渡さんが保育園にいらして、今後の打ち合わせをしました。こうした話し合いが再開したのもの、自粛にひとまず区切りが付いたという象徴かのようです。結論から申し上げると、この夏、屋形船に乗りましょう!という提案をいただきました。東京オリパラの延期で、頓挫してしまったイベントもあるのですが、改めてこの地域も確実に動き出しました。そして今日17日は海老原商店の海老原さんとも、来年に延期になった東京トリエンナーレで、柳原通りでの企画についても情報交換できました。保護者の皆さんとも、親子で参加できる楽しい企画を考えましょう。
さて、今日の考察はなぜ、人は模倣するのか?という古くからあり、いまだに結論の出ていない(一定の解釈はもちろんありますが)テーマについてです。子どもたちは、赤ちゃんの頃から真似をしながら育ちます。運動ゾーンの緑色の折り畳みマットが、バスになったり、バイクになったり、色々なものに「なれる」のは、子どもの方にそのイメージがあるからですが、実際に体験したものではなくても、その「つもり」になれる能力は、計り知れないポテンシャルを発揮するものです。
子どもたちはバスには実際に乗ったことがあるから再現模倣なのですが、バイクに乗ったことはないはずで、自転車かテレビなどの映像で見たか、そうした擬似体験のはずなのですが、それでも真似て取り入れてしまうのは、動物も持っているミラーニューロンの仕組みで、脳科学的には説明されています。ごっこ遊びとつもり遊びの違いは、リアルな経験の再現遊びなのか、それとも「お母さん」「お医者さん」「お巡りさん」など、その人や動物などに「なったつもり」になるという模倣なのか、かなり違う模倣なのだということです。
この違いがあまり関係がないように、軽々とイメージの世界の中を行き来できるのが子どもの遊びの世界というものであり、こんなに夢中になって、やすやすと1時間も2時間も、飽くことなく遊び続けることができるのは「間違いなく」発達上の意味があるのです。この謎は、子どもといると切実な問いとなってきます。疲れることを知らないこの魅力。今朝もH君に「園長先生、一緒にごっこ遊びしよう」と誘われました。子どもがある事柄を繰り返し行うことに出会ったら、こう考えてあげてください。今このことを通じて、この子は大切な何かを身につけているのだと。繰り返しの中でその子が使っている力は、使うことで伸びているのだと。
その力をどの視点で切り取ってみる(評価)するかは、切り取りたい視点、大人の価値観の世界の反映になっているので、つまり大人にとっての「都合のいい事実」が見えてくるような仕掛けになっているのだと心得ておきましょう。五領域もそうなっています。相対的な物差しなのです。ですから、仮に真似をしている内容が、バスやバイクやお母さんやお父さんなら「微笑ましい」のですが、テロ組織の子どもたちは「戦士」や「自爆テロ」のごっこ遊びをしているのです。そこには悪者は容赦無く罰しようという価値が何の疑いもなく模倣されています。
こう考えた時、私たちは本当に「真似されていいことをしているか」と自問せざるをえません。テロ組織ならわかりやすく否定できますが、正しいことだけ押し付けてくる大人の欺瞞を感じることができる思春期になると、それへの反発から暴力や薬物なのどの反社会的な行為に走る姿を「かっこいい」として、疎外感を持った若者がそれを模倣してく姿を、私は数限りなく見てきました。
その区別は何でしょうか。鯨岡俊は「悪への魅力に取り憑かれそうになったとき、そこに引き込まれることを自ら防ぐもっとも強い力は、社会的規範の力であるよりは、自分が自分らしくあることのへの自信と自分らしさを壊さない自分へのプライドではないだろうか」と書いています。引用はこう続きます。
「実際、自己の自信と尊厳が何かの理由で壊れかけたときこそ、悪事や不良行為への誘惑に惹かれ、そこに陥落するときである。そこから翻って考えれば、幼少の頃から、周囲の大人の丁寧な養護的な対応を基礎に、やはり自分への自信と周囲への信頼を培い、尊厳のある生き方をしている大人を周囲にみて、そこに学びを見いだすことが、負の学びに引き込まれない最良の道だと言えるだろう」
人は学ぼうと思えば、何からでも学ぶことができる(村上春樹)。ただ、気をつけたいのは、学ぼうと思っていないのに、もう学んでしまっていることだってあることだ。「感染者数に意味はない」って、本当だろうか?