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園長の日記

うんとこしょ、どっこいしょ

2020/08/19

今日は朝から大根3本、サツマイモ4本、ゴボウ2本を引き抜きました。とても大きく育っていて、なかなか抜けないので「うんとこしょ、どっこいしょ。それでも、ゴボウは抜けません」と、何回かやって、やっと抜けるのでした。抜けた野菜はその場で洗って、生のまま「むしゃむしゃ、美味しいなあ」といって、いただきました。根菜は洗われるときも、食べられる時も、ケラケラ、ぎゃあぎゃ笑って幸せそうでした。

朝9時ごろから3階で運動遊びをしていると、いつの間にか子どもたちは野菜になっていて、私に「引っ張って」(抜いて)というのです。うつ伏せになって、床のマットの端を両手でしっかり握って、私が両足を持って引っ張るという「野菜抜き遊び」なのですが、抜かれるもんか!と必死でしがみついているので、最初はなかなか抜けないフリをしてあげるのですが、徐々に力を入れて「うんとこしょ」とやると、スコーンと抜ける時、子どもたちは、それが嬉しいのです。もう一回!といって、またうつ伏せに寝転がります。

「うんとこしょ、どっこいしょ」

何気なく、調子のいいリズムで、それでもかぶは抜けません。とやっているのですが、もちろん、そうさせているのは1962年発行の『おおきなかぶ』があったからです。私たち保育者と子どもたちは、知らず知らずのうちに、日本ならではのこの児童文化に浸っているという事実に気づきます。さらにトルストイのおかげかもしれませんが。

このロシア民話を訳したのは、1928年東京生まれの内田梨紗子さん。私が前いた保育園ができた年の1997年に亡くなられていたことを後で知ります。早稲田大学露文科を卒業しているので、さすがロシア・東欧の児童文学にすこぶる詳しい方で、東欧の昔話や民話を日本に多数く翻訳して紹介してくださいました。ロシア語では、なんと発音するのか分かりませんが、よくぞ「うんとこしょ、どっこいしょ、それでも〜」と訳されたものです。この『おおきなかぶ』をはじめ『てぶくろ』や『ちいさなヒッポ』そして『しずくのぼうけん』も、内田さんです。

さて「うんとこしょ」が終わると、子どもたちは今度は野菜から動物になっていました。というより、私がエンチョウライオンにさせられていたのですが、ライオンは高いところに登れないから、小猿たちが枝振りのいい大きな木(ネットやクライミングウォール)に登って「ここなら捕まらないよ〜」とか「ここまでおいで!」などと囃立てるのです。私はライオンだったりワニだったりして、見守る保育どころか、まだ遊びの相手をしているのですが、どうやったら子どもたち同士で遊びへと発展していくのか、その見通しを想像すると楽しくなります。

そうなるには、子ども同士が再現したいと思う「物語」を共有することが必要なのです。子どもたちが再現したがるお話が、まあテレビのアニメやレンジャーものであってもいいのですが、そこには繰り返し味わえる心情やリズムが乏しい。呼吸を合わせて、ハラハラドキドキできるような物語、例えば北欧民話『三びきのやぎのがらがらどん』(1959年)のような世界を楽しみたい。私がトロルをやらされている時、きっと子ども同士での遊びが作られていくことでしょう。

「がらがらどん」は、これを手掛けたのは日本の児童文学の大御所である瀬田貞二。あのトールキンの指輪物語を訳した人です。「こどものとも」でも、ダントツに多いのですが、福音館書店の絵本をホームページでざっと拾い上げてみると、「あふりかのたいこ」「かさじぞう」「 ねずみじょうど」「三びきのこぶた」「ふるやのもり」「おんちょろちょろ」「お父さんのラッパばなし」「きょうはなんのひ?」など、よく知られるものばかりですね。岩波書店の「わらしべ長者」も瀬田貞二の再話です。

子ども同士の遊びの中でも、年中、年長ぐらいになると、登場人物を演じ合う<物語遊び>を楽しめるようになっていくのですが、そのためにも絵本による物語が大きな力を持っていることになります。内容が楽しく、それを再現したいという衝動をもたらすアート性、つまりごっこ遊びが表象になるということですが、これは「こどものとも」が発刊される頃にはびこっていた「童心主義」の絵本では、できなかった遊びなのです。

童心主義とは子どもの感性を絶対視して子どもの世界を理想化するような傾向のある、一種、センチメンタルな物語です。これらの絵本は教育臭くて子どもが再現したいという衝動になりにくいのでした。

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