絵本も能も豊島園もお化け屋敷も、みんな「ごっこ遊び」に見えるくらいの方が、ちょうどいいのです。
絵本はお話の再現だし、舞台上に再現される演目には物語があり、遊園地は大人も子どもも「めまい」を体験する装置であって、そして今日の制作ゾーンでせっせと遊んでいた子どもたち(グログ参照)のお化け屋敷作りも、まさしく「ごっこ遊び」と呼ばれます。
それでも、一昨年亡くなられた「かこさとし」の新しい絵本をもう楽しむことができないことや、コロナで能の持つ時間の流れを能楽堂で体験できなくなったり、メリーゴーラウンドのある遊園地がお仕舞いになってしまったりすることに「寂しさ」を感じるのは、それが「一途に日本らしかった」からかもしれません。
それぞれは、日本にあって良かったと思えるものばかりだからです。一国の総理大臣には、日本の文化を大切にする方になってほしい。
「一途さ」の中に潜む日本の表象の断片の数々を、宝石箱のように大切にしてあげたい。政治も遊びも、子どものお化け屋敷作りと同じ価値があるはずなのです。
そういう意味で、子どもが「一途にやっていること」は、丁寧にアルバムや屏風に納めてあげたい。2階から3階へ続く階段の一面が「すいすいギャラリー」になりました。
子どもたちが、目の前に再び顕にしたいと、再現している「ごっこ遊び」は、大人が庶民のあるべき生活を実現しようとしていることと似ています。つまりより良い社会を作り出すために、それを目の前に顕にする政策論を戦わせることの原点は、「あたなは何を表象しているのですか」に応えうる情熱がないと始まらないのでしょう。
実現させたい理念(イデア)があるから、それを再現させたいと思うことを、一般に「実現する」と言っているからです。何かを実現させるためには、どうしてもイデアが必要なのです。それには想像力とセンスと物語が必要なので、子どもの頃の経験は、そこを意識することが保育になるんだと考えます。