さあ、一体いつ頃から食事が「一人の方が気が楽だなあ」と思うような大人が増えてきたのでしょう。「こしょく」という言葉には、いくつか漢字があります。もっとも多く使われるのは「孤食」です。1人で食べる食事のことです。「個食」というのは1人ずつに分けられている配膳のことで、別々に食べることです。「小食」となると、少食のことです。少ししか食べない。「子食」はあまり使われないのですが子どもの食事のこと。そのほかにも「こしょく」はありそうですが、保育園の食事でとても大切にしているのが、共食です。一緒に食べること、家族でも友達でも誰かと一緒に食べた方が美味しいよね、という体験を大切にします。これこそ「孤食」の反対です。
今日の幼児クラス「わいらんすい」のブログで、友達と一緒の食べたい、隣に座りたいという子どもの様子が報告されています。このような気持ちが育てっていることに嬉しくなります。どこでも席が空いていれば、そこで1人で黙々と食べるからいいや、というのではなく、誰かと一緒に食べたいという欲求が自然と湧き上がるということが望ましいと思います。食事を美味しくいただくためには、「温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに」ということがありますが、それよりも、多少、冷めてしまっても、生温かくなっても、それよりも一緒に食べる方がいい、という心情が育ってほしいのです。
どうして「共食」にこだわるのか、というと、そこには「人間らしさ」の原点があるからです。人間が動物ではなく、人間らしくなっていった条件は、いろいろあります。二足歩行、火の使用、道具の使用、言葉の獲得、色々なことが言われていますが、進化人類学では「食べ物を分け合ったこと」と「共同保育」が人間らしさの決め手になったと考えられているからです。単純なことのようですが、実はヒト以外の霊長類は、食べ物は独り占めしますし、オスは自分の子ども以外は育てようとしません。人だけが家族を超えて村単位の共同体の中で食べ物を分かち合い、他人の子どもも育てあってきたのです。そこには共食とアロペアレンティングがあったのです。動物はできません。
ところが、食べ物を分かち合ったりせずに別々に食べるようになってきたのが、各家族が基本になった現代の都市生活者たちです。さらに戦後広まった3歳児神話が子育てから社会的親を排除してしまいました。そこで何が起きたかというと、人間関係の弾力性を育てる機会が失われていったのです。人間関係の弾力性というのは私の造語ですが「人間関係の希薄化」の反対の意味です。伝統的な社会では、食べ物が豊かではありません。基本的にひもじい思いをしていたのですが、それでも食べ物を分かち合ってきました。多くの兄弟姉妹が食べ物の奪い合いや、分かち合いの中で、喜怒哀楽の感情コントロールの体験が発生していたのです。
人間は生理的早産といって、脳の巨大化と引き換えに産道が通れるくらいの間に未熟児を多く産む進化を遂げました。その代わり父親の子育て参加が必須条件となりました。未熟児多産の戦略ですから、年子が多くなり、上の子は下の子が生まれると親から抱っこされなくなるので、そのころに脳は母親とのスキンシップによる愛情を我慢をしなければならない状態に置かれるのです。それが精神のたくましいレジリエンス(復元力)の獲得に繋がり、濃密な人間関係の中で育っていったのです。
下のグラフは脳の感受性(敏感性)の発達を表したものですが、ほとんどが発達のピークが1歳頃から始まっています。人との関わりの中で育つ「エモーショナル・コントロール」(感情コントロール)はピンク色の曲線ですが、ちょうど1歳半ごろに人間関係の体験があることが望ましいことが読み取れます。
現代は子どもの数は少なく、赤ちゃんの頃の人間関係の葛藤はあまりありません。満3歳から集団での体験が始まるので伝統的社会の人間関係の経験と比べれば、ずいぶんと遅い体験の開始になるのかもしれません。それでも保育園は人類が進化してきた人的環境に近いので、そこで育まれる友達との友情や喧嘩や仲直りや葛藤は、貴重な経験だと思います。そのワンシーンが食事の時にもみられるのです。