子どもの遊んでいる様子をどのように受け止めるのかという話をしていたら、ある人の言葉に「そうか!」と気付かされることがありました。3歳わいわい組のFちゃんが、ネットの高い方に自分で乗って、立ち上がって揺らしながら、ともて面白そうに楽しんでいたのです。そのときFちゃんは「こわいよ〜、こわいよ〜、たすけて〜」と言っていました。もちろん、本当に怖いわけではなく、本当に助けを求めているわけでもありません。その様子は、嘘っこの世界であり、彼女の想像力が働いて、何かのイミテーション(模倣)遊びになっています。私は「でも何をイメージしているのか、わからない、それは本人にしかわからない。地震なのか、船の上なのか、それとも何かのお話の世界なのか、それはどういうつもりなのかわからないです」そんなことを語っていたのです。すると、その人は単純に「ふりあそび、ですかね」という表現を使ったのです。
そうか「こわいよ〜」というふりあそびをしているだけ。そういうことって成立するのかもしれない。そう思えたのでした。怖いこと自体を見立てていると考えばいいのであって、何かの具体的な状況を想定しているわけではないかもしれない、そう思い直してみました。誰かになるとか、自分が具体的に体験した何か、という特定の何かではなく、「こわい思い」という、一種、一般化された「思い」や「感情」そのものを模倣することが、できているのだろうか? そんな見立て遊びが3歳児に可能なんだろうか? 地震や火事や泥棒や幽霊や鬼や、3歳になるまでにこわい思いは確かに色々体験しています。そんな体験から抽出された「こわい」という感情だけが、ふりあそびを成立させることができるものなんだろうか。そんなことをずっと考えています。
経験さえあれば、もしかすると、本人が本当はこわい思いをしていなくても、こわがっている何かをみて、それを思い浮かべているだけかもしれないですし、そんなに具体的な状況ではないかもしれない。なぜなら、霊長類は生まれる前から持っているものに不思議な模倣力があるので、そんなことくらい簡単かのかもしれません。新生児模倣と呼ばれる現象は生まれたすぐの赤ちゃんが、リラックスしているときに親の顔の表情を真似することができる現象です。舌を出したり、驚いた顔をしたり、しかめっつらをしたりすると、同じような表情を真似することができるのです。これは表層的な模倣なので、相手の意図や感情までを共感しているのではありません。
この模倣は3ヶ月ぐらいで消えてしまうのですが、子どもの遊びの中心に「模倣」がある限り、子どもが頭に思い浮かべている表象の広がりと豊かさは、大人が外から観察しているだけでは察しきれないものがあるのは確かだろうと思います。Fちゃんの模倣とは次元が違うのですが、それでも人間が持っている不思議な力、人と関わる力、間柄的な存在様式を考えると、他者に呼びかける「こわいよ〜」は、揺れるネットをこわい場所とみなし、しかも人と関わりたいという関係欲求が、こんな表象を呼び起こしている遊びになっているのかもしれません。