夏の暑さを避ける「避暑」の方法として、戸を開け放して葦簀(よしず)を立てかけて風通しをよくし、軒下に風鈴を下げて、打ち水をした路地裏では桶にスイカを冷やし、子どもは花火をしたりて涼をとる。こうした夕涼みの風情は、高度成長期の新三種の神器(カー、カラーテレビ、クーラー)によって、蚊帳は姿を消しながら、冷気を逃さないように戸は閉まっていき、テレビで室内で過ごす夏への変わっていきました。そして外へ出るのは、車で海や山や川のある自然や避暑地に向かい、登山や海水浴やプールやキャンプといった過ごし方になりました。
大方の子どもにとっては夏休みであり、帰省や旅行が心に残る夏の思い出になっていきます。旧自宅外から離れたニュータウン、ベッドタウンに多くの人が住むようになっていくと、そうした伝統的は納涼は体験できません。住んでいる町のコミュニティで、祭りや納涼会が楽しめるのは限られていきます。自治会や地域がしっかりあった地域には、たとえば神田明神に納涼祭があるように、ある種の伝統が息づいているのでしょうが、大抵は学校コニュティに受け継がれました。学校の校庭を開放して、自治会がテントを貼って、盆踊りや秋祭りを主催するものです。
そうした戸外で見られる「夏らしさ」「秋らしさ」が、今の大人の思い出になっているのは、多分、親子でいっしょに何かを楽しんだことが嬉しかったからではないでしょうか。特に大人が大事にしているお祭りの趣旨よりも、そこに出店される駄菓子屋さんや、お面、綿菓子、りんごあめ、ヨーヨー釣り、金魚すくい、宝探しなどが、やりたくて仕方がなく、金魚掬いやヨーヨー釣りなどは、何度かやるうちにコツを覚えて上手くなっていったという経験と重なったりします。
子どもは難しい趣旨はわからなくても、大人以上によくわかるのは、その時間が普段とは異なる、キラキラと輝く「ハレ」の何かだという感覚です。お祭りなら、大人もそれに輪をかけて「無礼講」だの、「年に一度だから」だのと、何か普段とは違う例外を許してもらえるような、社会学でいう「祝祭における蕩尽感覚」を醸し出すので、子どもはそうした雰囲気を敏感に感じ取っているのでしょう。
さて、明日の納涼会は、大人の方も、少しそうした雰囲気を出して、子どもに感じてもらいたいと思ったりしています。家族同士の触れ合いや交流は今回、あまりできませんが、親子で楽しんでもらえたらと思います。ちょうどRSウィルス感染症が流行ってしまい、乳児で体調を崩されたご家庭もありますが、しっかり療養して早く回復なさることを願っています。明日参加できなくても、規模は小さくなりますが、少し代わりの機会を設けるつもりですので、どうぞお大事になさってください。