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園長の日記

子どもは「自然」の住人

2019/04/20

【子どもは自然である】

「都会の子ほど、自然を大事にするかもしれない」と思うようになることが、今週の散歩のときありました。養老孟司さんは、子どもは大人と同じ人間だけど、大人と全く違うのは、子どもは自然そのものだと言います。この自然とは、人工の反対です。便利で安全で都合よくできているのが人工ですが、自然は不便で危険で思うようにならないものです。それと同じように、子どもは本来、大人が思うようにはならない存在だと、養老さんは言います。山の中に入れば、本来そこに道はなく、一歩前進するだけでも不便で危険で思い通りにはなりません。ところが都会で生活していると、段差の無い平らな舗装された道が整備され、スマホを見つめて歩いていても何とかなると思えるほどに、便利で安全なことに気づくことさえないのかもしれません。ところが、その人工の世界に子どもが現れるとどうでしょう。まるで珍しいものを発見したかのように、驚いたり、微笑んだり、手を振ったりする大人たち。改めてここが大人の街、人工の街だという現実をつきつけられます。

【数本の綿毛をめぐって】

これは、もちろん散歩してるときの話です。子どもは自然なのだと言うことを証明するのは、もっと簡単です。子どもは自然を見つけると、まるで仲間を見つけたかのように近寄り、触ろうとし、慈しみます。柳原通りを散歩した時、街路樹の根元に咲いていた、タンポポ、ナガミヒナゲシ、八重ヤマブキを見つけると、じっとしゃがみ込み、綿毛になったタンポポを手にして、「フーッ」と吹いて飛ばそうとします。
その様子を見て、正直ほっとしました。「あー、よかった、子どもだ、子どもだ」と。ところが私自身が、自分がとった言動に戸惑いを覚えたのです。数本ほどしかなかった綿毛をめぐる取り合いが起きそうになり、私は「たんぽぽは取らないで見るだけだよ」と言っていたからです。私はそんなことをこれまで言った事はなかったなぁと気づき、子どもたちが体験している状況に苦笑せざるをえませんでした。
養老さんは昔、子どもが虫取りを禁止されるような時代が来たら、その時の社会はもはや子どもを受け入れられないだろうと予言していました。私はその話を思い出し、もしかしたら、目の前に起きていることがそうなのかもしれないと、その日の夜、改めて保育園が置かれている状況について考え込まざるをえませんでした。自然である子どもが、自然であることを制限されてしまっていることがいかに多いことか。それに適応できる子どもだけが、聞き分けの良い「いい子」だとされてしまうことの危険性は、私たち保育者の間では常識だからです。そして、こう前向きに考え直したのです。誰に気兼ねすることなく、たんぽぽの綿毛ぐらい、いくらでも「フーッ」とできるところに連れてってあげよう。そうしたら「都会の子ほど、自然を大事にするかもしれない」と。
【レモンとブルーベリー】
保育園の隣に5メートルほどの花壇が空いています。屋上もあります。ベランダもあります。これを使わない手はありません。今日、行き慣れた園芸店に行ってみると、実が6個もなっているレモンと、花が咲いてこれから実になろうとしているブルーベリーの木があったのて、買い求めました。小学校の生活科で使う教科書に出てくる草花は、保育園のうちに存分に親しむつもりです。さぁ月曜日が楽しみです。
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