私たちは「どうしてだろう?」と思って、出来事を振り返ることがよくあります。私たち保育者もよくやります。自分達のことを振り返ったり、子どもの姿を振り返ったり。私たち省我会では、法人名の由来となっている「孔子の三省」、つまり論語「吾日に三省す」(自分の言動を1日に3度省みる)が法人の基本姿勢になっています。書店の三省堂と同じ由来です。さらに保育を振り返るときの三省は、「見守る保育の三省」というものがあって、これが私たち職員のクレド(仕事の信条)になっています。
なぜ、こんな話をしているかというと、何にしても「出来事」を振り返るときは、みる人の立場によって、その見え方や意味が異なるという話をしたいからです。そのためには、複数の見方、見え方を重ね合わせていくことを大事にしたい、そんな話です。実は、論語の三省には、解釈が複数あって、1日に3回省みるという解釈と、3つの視点で省みるという解釈に分かれています。
前者の見方に立つと、一つの出来事も、その時の感情で感じたことも、あとで冷静になってみたら受け止め方が変わることがよくあります。カッとなって怒りに任せて言動に移してしまって反省したり後悔したことは、誰でもあるでしょう。孔子の三省のように1日のうちの振り返りではなく、もっと間を開けて、あの時はそう考えていたけれど、年を重ねてくると違った価値観で考えられるようになる、といったこともありますね。
後者の見方に立つと、三つの視点の違いで見え方が変わってくるということですが、例えば、子どもの喧嘩の場面を振り返るとすると、やったり言ったりした「行動」の面から見るのか、どうしてそうしたのか「動機」に注目するのか、あるいは、そうなってしまいがちな「性格」や「特性」に目を向けるのか、さらに、そこに至る子ども社会の「関係」や「経緯」を長い目で捉えるのか、色々な観点によって、焦点の当て方が変わってきます。
さらに、それがAさんの立場、Bさんの立場、Cさんの立場でも違ってくるでしょう。観点も違えば、みる人によっても違うということもあります。子どもの姿にしても父親の見方、母親の見方、あるいは先生の見方、それぞれ異なることもあるでしょう。そう考えると、いろんな見方をいろんな人から聞いて総合してみて初めて「見えてくるもの」というものがあるような気がします。長く保育園の仕事をしてきた立場から申し上げると、さらに新聞記者時代からの「現場主義」「裏取り」の鉄則から考えても、自分だけの見方というのは、大抵、真実から遠いものです。特にファクト(事実)だけではなくて、保育のように「内面」や「心の動き」を捉えるとなると、「誰も本当のところはわからない」という謙虚さがないと、かえって危ないと思います。常に自分の見え方は、一面の真実でしかないかもしれない、という出来事への心構えと接し方(態度)です。
見えずらさ、ということから考えると、保育にも「死角」というものがあります。物理的な視野のことではありません。ちょうど、その時、みていたとかみていなかったとか、ものに隠れていて見えていなかったという種類のことではなくて、子どもの内面や心の動きを捉えるときの「死角」です。これは、実は「環境」との関係によって、現れたり隠れたりするものなので、その環境の中に入らないと見えてこない「死角」です。家庭では見える姿だけど、保育園では見えてこない姿だったり、お父さんにはこうなのに、お母さんにはこうなる、ということもあるでしょう。人や物、空間などの環境との関係によって変わる姿です。
その「死角」の分かり合いは、夫婦や親子なら、その環境を体験し合えるので分かり合えるのですが、家庭と保育園ではお互いに見えないし体験し合えないので、個人面談などでお互いの姿を伝え合っています。ここで課題になる「死角」は、家庭同士の分かり合いです。保護者同士のお互いの家庭環境は、お互いに見えないので、子どもの姿の背景を想像し合うことが難しい、そういう「死角」があるのです。私たちは保護者の皆さんが、子ども同士が仲良くなるのと同じように、親同士が仲良くなってもらうといいなあと思っています。普段から、日常的な会話や対話が弾む関係になっていくと、子ども同士も生きやすく、呼吸しやすくなります。遠回りのように、あるいは関係ないように思えるかもしれませんが、子どもは繊細に感じ合っています。
ご存じのように、コロナ禍で失ったもの、できにくくなったものの一つに保護者会があります。みんなで集まって子どもの姿を見合い、語り合うという懇親会や談話会などができなくなってしまい、親御さん同士のつながりができにくくなってしまっているかもしれません。私たちは保護者のみなんさんが、お互いにつながり合うような機会を大切にしていこうと考えていますので、実際にコロナ禍でできにくいわけですが、大切なことだという、その趣旨はご理解いただければ思います。
論語の三省に限らず、複数の立場から真実に迫るというテーマは、大事なものほどそうなっています。キリストの語ったことは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人の述べた福音書になって、微妙にキリストの誕生から死までの物語が異なります。ブッダが語ったことも、十大弟子や十六羅漢の物語で立体化された仏典に発展していきます。子どもの姿の背景を考えることは、実は奥深いことだと、私は思っています。
(写真は昼食で食べた七草粥です)