自らの力を引き出すことが教育であり、期待されていることを取り入れることも教育である。そんな話の続きを考えていたら、今日は子どもたちが元気に「鬼は外、福は内」と豆まきをしたので、なんだか、水ではなくて豆の話をしたくなりました。なぜ節分で豆を巻くのかという「いわれ」に関する絵本を、先生に読んでもらった後、実際に豆まきをしたのですが(クラスブログをご覧ください)、ここで追い払う鬼が象徴しているものは、人間につけ入ってくる「魔」たちのことですから、これを「滅」するために、豆(まめ)を撒くという説があります。語呂合わせ説です。
その真偽はともなく、邪悪なものと善良なものが、何かの力や人間の知恵などによって交代する、入れ替わるという話が、世界中に見られる物語であり、邪悪なものとして、鬼や悪魔や怪物や化け物などが生み出されてきました。そして、大抵、それらの「魔」たちは、人間に謎めいた問いを投げかけ、人間が答えられたら、魔の仕打ちから解放されたり、許されたりするというパターンになっています。
この物語の構造は、ずっと昔から、人生の謎、命の神秘といった事柄の真実を会得した者たちが、その真実をこの世の言葉で喩えたときに出来上がるお話なのでしょう。約束をして守らないこと、嘘をついて人を騙すこと、そういった行為は自分と他人の人生を傷つけることになるため、人々の間で戒められれてきたことがわかります。鬼や福は、一体何を意味しているのか。寺や神社で節分の豆まきをするのは、この年中行事によって「謂われ」の中に息づいている倫理的な人間性の意味を、思い出すためなのかもしれません。