先日NHKのドキュメンタリー番組で、写経に通う人たちの72時間を描いていました。般若心経を1文字1文字写すことで、どこかに忘れてきた自分を取り戻して、また日常に戻っていく。どこから来てどこに戻っていくのか、精神的コンディションを整えるためだったり、あるべき自分を思い出すためだったり、そこに通ってくる人たちは、それを行うことでまた、自分の「本来」に立ち返って行くように見えました。
写経は1人で行うものですが、仕事から離れて、あるいは家族から離れて、自分の中にある「厳かなものに向かう自分」と対面しています。1人でやっているように見えながら、無言の対話のようなことを、意識しているにしろ、しないにしろ、やっているのかもしれません。日々の生活の中で溜まっていく心理的な澱(おり)のような、あれこれを、浄化していきたいと願う欲求を私たちは持っています。
頭の中をスッキリさせたい、心を整理したい、すり減った感覚を蘇らせたい、そんな復元力を得たいと人は感じています。それはきっと子ども同じなんでしょう。モヤモヤした気持ちが渦巻いていたり、わけもわからずイライラしたり、自分だけでは収まらずに、人に八つ当たりしたり、泣き叫びたくなったり、思うようにいかない自分の気持ちに手を焼いてしまうこともあるでしょう。
もしかしたら、そんな時に、人に役立つことをすることで自分の気持ちを立て直していくことがあるような気がします。人間には生まれながらにして、人に役立つ存在でいたいと思う傾向を持つと言われています。利己的という言葉の反対は利他的という言葉になります。たとえば進化生物学者のドーキンスは、人間の遺伝子は利己的であると説明しますが、進化人類学者は、人間の本性は利他的であるといいます。どちらの側面も持っているのでしょうが、類としての人間が利己的であったとしても、個人としての人間は利他的であろうとしているように思えます。
わいわい組のお友達2人が、ぐんぐんさんのお手伝いをしている報告を読むと、利己的に振る舞って喧嘩になってしまったバツの悪さを、年下の子たちへの利他的な行動によって補っているようにも見えます。人は心のバランスを取るために、他者にまさる優越感を覚えたりする一方で、自分よりも他者を優先する行動によって満たされる心を持っているのかもしれません。子どもたちが、小さな社会の中で見せてくれる姿の意味を考えると、はっとすることがあります。