人間について研究している分野はいろいろありますが、人の「お笑い」がどのように発達していくのかについて、研究したものは見たことがないので、私はいつか論文にしてみたいと考えています。
大人の世界を見渡すと、これだけ多くの「お笑い芸人」が切磋琢磨している時代は、日本の歴史には、過去ないはずです。お笑いを楽しむ人たちがたくさんいるから仕事としても成り立っているわけですが、人間が生み出す表象文化の中で、人を「笑わせること」が仕事になる社会というものも、面白いことです。不要不急の最たるもの、そう思えるようなものが、実は最も求められているものかもしれないと言うパラドックス。お笑い大盛況の社会が、子どもに影響ないはずがありません。
今日は子どもが「笑い出したら止まらない」という経験をしました。午後4時から5時までの1時間、年長のすいすい組の子どもたちと絵本を読んでいたら、いわゆる「おふざけ」が始まり、調子に乗ってしまった数人の子どもたちの歯止めが効かなくなりました。そうなったら何を言ってもダメ。こちらの制止が、あるでボケ役になっているみたいで、どんどん、突っ込まれてしまいます。なかなか絵本のお話に戻れません。
こんな時、大人はつい「いい加減、ふざけないで、ちゃんとお話を聞いて!」みたいな気持ちになりがちなのですが、これほど根強い、子どもの可笑しさへのハマり具合を目の当たりにされると、いろいろなことを考えてしまいました。
まず、この欲求は、子どもたちにとって精神衛生上、不可欠なものだろう、と思えます。これを抑え込むと、ろくなことはないだろう、ということがまずあります。私の保育経験上、子どもが繰り返しやりたがることには「必ず」発達に必要な意味があります。どうして、そんなことするの?(いうの?)という、大人には不可解な出来事があったら(「いやいや」もそう)、それには発達のために必要な何かがあるんだ、と思ってください。私たちが、それはこんな意味があるんだ、ということを理解できていないだけで、必ず意味があります。
おふざけの場合はこうなります。ここで文字にするのは、ちょっと憚れるのですが、ウン◯という言葉が大好きで、それが、ああなった、こうなったというだけで、ゲラゲラと笑いが止まりません。品のない言葉を繰り返すのは、やめてほしい、先生は嫌な気持ちになるよ、ということは伝えているのですが、そんなことでは収まりません。我慢できるか、できないかは、そこは子どもによって個人差もあるのですが、それでも、この「おかしみ」を楽しむ心理というものは、健康上、何か必要な体験のように見えて仕方がありません。
この屈託のないゲラゲラ笑いは、子どもにとっては「あり」だと思います。というのも、同じことを大人もやっているのです。落語、漫画、アニメ、バラエティ、漫才、コント、ボケ、トークショー、お笑い番組・・・番組の司会やMCはお笑い出身者ばかりです。SNSやマスコミでたくさんのエンタメを消費しているのは、私たち大人の方であって、このエンタメ性へのニーズは、子どもの時から持っているのでしょう。ただ、子どもは、お笑いのバリエーションを持っていないので「おふざけ」一辺倒になるのかもしれません。
そう考えると、1日の中に、お笑いにハマる時間があることは、精神衛生上も好ましいのではないでしょうか。ただ、それが昂じて、危険な遊びや行動に脱線しないようにしないといけません。人にパンチを繰り出したり、机の上に乗ってみたり、不適応行動につながる場合は、即刻、制止します。超えてはならない一線があることも、学んでもらう必要性があるからです。