「なんだか体の調子が悪いな」と感じるとき、私たちは休養します。からだを休めて、養います。それはまるで、自分で良くなっていくことを見守っているようなものです。「あれ?おかしいな」という、そのサインはどこから来ていることが多いかというと、ほとんどが<臓器>からです。その「あれ?」という、そのサインが全て判読できれはいいのですが、それがなかなか難しい。サインの判読は、脳でやるわけですが、そのサインが脳にまで届かないことがあります。
からだの変調は、いろんな形であらわれるとわかってはいても、そのメッセージが自分では、なかなか意識化されない。無意識の方までは届いていても、ぼんやりとしか意識できない。とくに新しい脳、意識を司どる大脳皮質にまで、そのサインが届くかというと、そうでもないことが多いから、ことは厄介なんでしょう。三木成夫(みき・しげお)さんの名著『内蔵とこころ』を読んで、こんな考えをもつようになりました。
熱が出たり、発疹が現れたり、いつもと違って元気がなかったり、便の状態が良くなかったり、からだのことを身体が表してくれると、まだサインは読みやすいのです。医学の知見を生かすことができます。何かの病気ではないかという診断と治療へとつなぐことができるからです。しかし、ソワソワしている、寝つきが悪い、なんとなくだらりとしている、イライラしがち、ベタベタとくっついてくる・・・など、いつもとは違うけど、まあ時々あるかな?ぐらいでは、病気かもとは思えません。でも何かちょっと心配・・こんなことって、よくあることですね。
そこで大事なのは、そのメッセージに耳を傾けること、あるいは経験から「きっとこうじゃないか」と推測して、効果があると言われていることをやってみること。そんな試みが保育の中には含まれます。子どもたちが求めていることを言葉で言ってもらっても、そこは言葉になりません。でも、新しいレイアウトになった室内環境で、遊んでいる子どもの様子を見ていると、あることに気づきました。
遊びに熱中していることは、何かをそこで使い込んでいます。ある力を発揮しています。その力が引き出されるのは、ものや人との関係の中で引き出されてくることが多くて、それが「臓器」の声になっているかもしれないということです。今日もあったのですが、例えば全身運動をしたいという「上腕筋」の声は、見学者に「やってあげようか」とネット上りを見せたがる子どもの姿となって現れたり、お友達が作ったのを見て甘い美味しいものを欲した女の子の「胃」は、折り紙でいちごミクルシェーキを作りたいと言って、折り紙をカップのふちの丸に合わせることを求めてきたのかもしれません。ちょっと、アクロバティックなつながりの見立てかもしれませんが、案外、私たちの行動を裏で密かに動かしているものは内蔵なんじゃないか、という発想が私の妄想を活性化させているのです。
このことが、もっとよくわかるのは、今日のわらすのブログ「心と身体」で紹介されている、身体感覚が求める色遊びや感触遊びでしょう。その遊びへの新鮮さや熱中の中に、担任は子どもの接触感覚の強い欲求を読み取っているようです。感覚が求めているものは、内臓の声を代弁している気がしてきます。子どもは、大人よりも、自分の臓器が発しているサインをダイレクトに体全体で表しているんじゃないか、そんなことを感じた1日でした。