明日やってくる台風に備えるために、屋上のネットをたたみました。その時、ついでに雑草を抜いていたら、朝顔のツルがクルクルと巻き付いていたので、抜かずにそのままにしてあげたのですが、この朝顔の「つっかえ棒」に相当するものが、保育環境と同じだな、と思います。朝顔のつるは、くるくると回りながら、周囲に捕まるものがないかと探し、それを見つけるとしがみつきます。人間が育つときにも、周囲に人を探し、身近な大人を相手にしながら育っていきます。でも保育園での子どものありようをずっと見てきた立場からすると、どうもその「つっかえ棒」に相当する周囲の人は、大人だけはなくて、「子ども」もそうじゃないかと思えます。
今日12日も、保育では「人との関わり」を大切にする、という話の続きです。7月中旬から8月初旬にかけて、保育室の環境を変えたことから、いろんなことに気づくのですが、今日感じたのは「しつけ」も子どもがやっている、ということです。しつけというのは、大人がやるものだと多くの大人は思っているのですが、そうじゃないかもしれません。子ども自身が「人と関わる」ための資質をもって生まれてくるわけですから、子どもたちはすでに育ちの方向性を持っています。
私たち保育士は「しつけ」という言葉を聞くと、漢字で書く「躾」というイメージと、裁縫でいう仕付け糸の「仕付け」という意味の二つを学ぶ機会があります。前者が方向ずけに「美」というゴールイメージを持たせていること、後者が仕付け糸は緩やかに「あそび」を持たせて縫うガイドラインのような働きをしながら、その方に向かって本縫いがしやすいようにするためのもの、という意味が含まれます。どちらがどうかという話はここではしませんが、いずれにしても社会が期待する姿になってもらうための方向づけが意味されています。
ところが、保育園で子どもが過ごしている時間のうち、その多くは子ども同士で遊んでいるのですが、そこでは大人が指し示す「しつけ」の方向性は、それほど目立ちません。まるで朝顔の「つっかえ棒」のように、環境そのものが「しつけ」の役割になっていたり、子どもが子どもの「つっかえ棒」だったり、しています。そこではもやは「遊び」だけではなくて「生きている時間そのもの」という状態です。
写真は3歳児わいわい組、4歳児らんらん組の子どもたち4人が、神経衰弱のカードゲーム「メモリー」で遊んでいるところです。「(次は)Uちゃんだよ」と順番を教えたり、これだよと人に教えようとする子に「言っちゃダメ」と言ったり、ルールのある遊びをしていると、そのルールの伝え合いが「つっかえ棒」であったり「しつけ」のガイドラインであったりしています。そこには人と関わるための言葉のやりとり、相手の意図の理解や自分の意見の主張、公正さや公平な感覚なども学んでいます。
そのような時間の中に分け入ってみれば、子どもが経験していることは、とても複雑な要素が絡み合ってできていることがわかります。ただ、その絡まり具合は、もつれてしまってはいません。大抵は大人が間に入って解くこともあるのですが、子ども同士の方が解き方も上手になっていきます。裁縫の糸が絡まるのは、誰から強く引っ張ったりしてしまうからです。もつれた糸の塊を解くのは大変です。セイタカアワダチソウをつっかえ棒にして伸びていく朝顔のツルを外すのは無理です。すでに成長の一部になっています。
そう考えると、子どもたちの成長過程から、子ども同士の関係を取り除くことは、子どもたちの存在の在り方そのものを壊すことに近いのかもしれません。仕付け糸は本縫いの後で抜かれるので、消えてしまいます。確かに成長してしまうと無くなるのです。それはまるで蝉の抜け殻のようです。でも、つっかえ棒は花が咲き実が地面に落ちて枯れるまで、つっかえ棒のままです。子どもがお互いを必要としながら、自らを支え合っていく関係、その関係が育っていく姿に成長が見られるから面白いと思います。