わらす(3〜5歳)の制作遊びが活発です。昨日のクラスブログにもありましたが、やりたいごっこ遊びで使うものを制作しています。その集中ぶりに接すると、私は嬉しくなりました。制作ゾーンのテーブルでは足りず、ゲームゾーンでも制作しています。今日はそこで、ホールケーキを作ってました。かなり本格的です。昨日はカップケーキでしたから、スイーツが続きますね。ジュースもあります。このケーキ店は人気になりそうです。楽しみ。
さて、例によって「信頼と対話」の視点で今日の遊びを見つめてみましょう。この制作過程には、あまり「対話」はなさそうに見えますが、自分がやりたいことを実現させるために、折り紙、のり、セロテープなどの物との「対話」が盛んになされています。声の出る「言葉」ではない、モノとのやりとりは、ふつうは「対話」とは言わないのでしょうが、「こうしてみたら、こうなった」、とか「じゃあ、こうしてみたらどうなるだろう」とやってみるのは、モノからの応答もあるので、意図したことの働きかけによって、モノは変化し反応するので、これは広い意味でのコミュニケーションになっています。
モノが応答する、と言っても、モノからの応答は人のような手加減はなく、正確な働きかけをしなければ、期待したようには応答してくれません。でも正しく働き続ける限り、必ず同じように生真面目に反応してくれるのがモノです。人のような、気まぐれでムラのあるバラバラの対応にはなりません。なんと頼り甲斐のある、確実な相手なんでしょう。ここには、こうすればこうなるという、確かな信頼が成立していきます。こうやって作れば、カップケーキやホールケーキがゲットできるという確かな結果の見通し、約束を違わない、正直な他者がいてくれるのです。
それに比べて、私なんて当てになりません(笑)。そう言えばさっき、年長のOSさんにおこられました。「今日(こそ)は、ちゃんと園長ライオンやってよぉ〜」と。「わかった、やろう、やろう」と言いながら「ごめんね、今日も時間がないんだよ」と謝ってばかりで。やっぱり、なんど言っても当てにならない私のようはヒト相手の「対話」より、おもちゃやゲームや絵本などのモノ相手のほうが信頼できるというものかもしれません。それならヒトは子どもに愛想つかれる前に、ちゃんと約束は守れるようにしないといけないですね。そうしないと、ヒトがモノであるロボットやAIやアバターに乗っ取られてしまうかもしれません。
期待した通りに他者から何か反応が戻ってくることが、他者への信頼を得ていくのだとしたら、それはヒトに対してもモノに対しても同じように言えるでしょうか? そこは違いますよね。ヒトとしての「他者」には、決して分かり合えない他者性というものが厳然としてあります。しかしモノには、そういう意味の他者性はありません。モノを信頼することとヒトを信頼することは、その信頼の意味が180度違うのです。どう違うか?それは最終的には決して分かり合えない他者性というものを前提に人間関係は成立していくようにしていくのですが、モノにはそのような、分かり合えない他者性などはもともとないからです。
分かり合えない他者だからこそ、分かり合えることへの希望を持ち続けることが生きることだと考えるなら、こどもかいぎやサークル対話は、わかりあえない他者との出会いを学ぶ機会になっていくのでしょう。