割ったり、切ったりというと、神様によくないから、神様がここからお戻りになるように開くというんですよ。・・・こんな言葉遣いの配慮や、縁起をかつぐことにこだわることは、とても根強いものが残っています。二人をお祝いするときに2分されないように「3」や「5」の奇数にするとか、今なら受験シーズンなので、滑るや落ちるは使えない雰囲気さえあるでしょう。喪中は年賀状も出さないし、おめでとうとは言わない、祭事だった相撲をみれば悉く所作に意味を持たせていることもわかります。鏡開きをしました。さて、何を大事にすることが幼児教育に相応しいのでしょうか?
一つの考え方として、ずっと伝統的に守られていることには、きっと大事なことがあるんじゃないか?そういう発想が一つ。でも人権感覚や宗教観も変わってきている中で、どこまで何を大事にしたらいいのでしょう。また、地域社会や家庭の風習や習慣の中で、失われているからこそ保育園が担った方がいいという考え方と、サンタクロースの話ではありませんが、いつからか変形されていった経緯の要因への評価みたいなものも検討範囲に入ってきます。それも直感的なよさの判断が働いていくものかもしれませんが。
細部にこだわると、ああでもない、こうでもないとなるのが、私の経験であります。お餅つきを保育園でやるとすると、人手が足りずに親や地域の方と一緒に行うことになるのですが、そのとき昔は「船頭さん多くて船が進まない」ということがおきがちでした。餅米の蒸し具合、火入の加減、臼と杵で腰でこねる作法など、いろんな伝統的な知恵があって、だんだん、そうしたこだわりも減ってきた気がします。まあ元気よく、どっこいしょ、と楽しめばいいのでしょうから、と。
お供えした時、柔らかかったのに固くなっているだとか、ヒビが入った、割れた、中は柔らかいとか、青カビとか、さらに遡ってお米からお餅になる変化などに注目させることだってできるし、冒頭で触れたように言葉のことや、人間関係のこと、つくとか叩くとか運動面も色々あります。でも鏡割りでそうした分析的な五領域の話に還元しても、あえてやる意味としては何かピンときません。
私の中学の時の国語の先生が(私が12歳の時ですから半世紀前のことですが)「最近は仏壇が減ってきているらしい。朝夕に親が手を合わせている後ろ姿を子どもが見ることは減った」みたいなことを言っていたことを、なぜかよく覚えています。日本の住宅から畳が消えていったことに合わせて、神の居場所も減っていったというのです。朝夕のそうした時間と空間の喪失。
ふと、そのような気配を感じる空間というものを、園環境の中で作り出すといった発想に近いものは、茶室だったり絵本ゾーンだったりするかもしれませんが、ちょっと違います。人が何を精神の拠り所として生活しているか、そのためにふさわしい空間がどこにあるのか、そう考えると高層マンションからは消えてしまっても、ちょっとした街角に神社やお地蔵さんが、そうした空間を守っているようにも感じます。