昨日からの続き。6月1日木曜日の午前のことですが、室内の窓際に3人の3歳児男女がせっせと椅子を、バリケードのように(と形容するのは、私の勝手な解釈ですが)並べ、そこに椅子の扉を置いて、出入りできる空間を作っていました。その中で外を眺めたり、絵本を読んだり、お絵かきをしたがったりしています。主任とその遊びをずっと見ていました。これはどんな意味があるんだろう? そんなことを考えていました。そこに出来上がっていく空間の意味を。
・・・基地づくりだとか寛ぎ空間だとか、お家ごっこだとか、プライベート空間だとか、まあ、色々な言葉と概念が私の頭の中にはびこっていて、自分でも「なんて陳腐なことしか思いつかないんだろう」と思いながら、その子どもたちの表情を眺めていました。いずれにしても、安心できる快適な空間を求めているのだろうという。でも、どうもピッタリする意味が思い浮かびません。
そんなときに、子どものトラブルについて書いた巻頭言について「子ども遊びとはまずははみ出すことからですからね」というコメントをいただき、遊びと自由の関係、協同生と自由の関係が「いわば遊びの高度化である」という言葉で、ミッシング・リンクが繋がる思いをしたのです。私にとってはこういうことでした。
遊びに自由という言葉を頭につけて、わざわざ「自由遊び」と呼ぶことを、<屋上屋を架すようなことを言わないといけないのは、本来の遊びになっていないことへの留意だろう>と考えていたのですが、それは「遊び」に加担しすぎた解釈だと気づきました。自由の方にアクセントをおいてもいいのだと、気づいたのです。生きることだったのです。大事なのは自由に生きるということ。
子どもがそうしたがるのは、観念的に自由を求めているのでも、大人が考えるような概念としての自由を思い描いているのでも、もちろんありません。ただ、大人であろうと子どもであろうと、「生きる」というのは、そういう衝動に突き動かされているからであって、そのいのちの大きな傾向、動きというものの流れは、本人にしてみると切実なものなのだと思います。
それが時には周りへの抵抗、反抗だったり、大人だったら転職や起業、あるいは社会運動だったり、場合によっては犯罪にもなり、芸術家なら自身の内的真実をかけた戦い、表現への飽くなき探究(もちろん現実的に生計を立てるという切実な問題もあるのですが、それも飲み込みながら、妥協しながらでも美と表現を求めるように)になっているのだと思います。
それは、いずれも切実な「生きる」という姿なのでしょう。大人が小説や映画や伝記を通じて、それを感じるとき、自身のそれと感応しあっており、子どもは遊びの中にその芽生えを見せてくれているのかもしれない、と。
そして、子どもの作るバリケードのように囲われた空間(を撮った写真はないのですが)は、生きる姿の象徴のように見えてきたのでした。(こうやって振り返ると、当たり前の話に戻ってきたがして、なんだか恥ずかしい限りな、話になってしまいました・・)