「今日は・・・などに限らず、探索に行ってみたい場所やお昼のタイミング・・・など、それぞれの子が自分自身で生活を作っているような雰囲気が感じられる一日だった。その姿の読み取りや、やりとりを、丁寧にたっぷりしていく中で、子どもたちも安心して、自分の生活を作っていくことができていると思うので、大人自身も気持ちに余裕を持って、ゆったりと過ごしていきたい。」
私はこの担任の保育の振り返りの記録のなかに、とても大切な人権感覚を感じます。大人が気持ちに余裕をもって、ゆったりと過ごすことで、「子どもの姿の読み取りや、やりとりを、丁寧にたっぷりしていく」ことができ、それが子どもの主体的な活動を生み出していくことにつながるというのです。
保育界は昨年秋からこの1年ほど、子どもの権利や子どもの尊厳というものを、根底から見直すということが続いているように感じます。きっかけは、昨年秋からのマスコミを賑わせた「不適切保育」への対応と、この春から「こども基本法」の施行に伴う議論が増えたことです。保護者のみなさんにとって、保育の実際としては、表立って目出つ変化は感じないかもしれませんが、私にとっては、かなり勇気づけられていることや、さらにもっと深めたいと思うことがあります。
ここで紹介した担任の振り返りもその一つです。勇気づけられることであり、もっと深めていきたいことです。
昨日19日は、は朝から区内の保育園からの見学を受け、午後からは保育者養成大学の先生がいらっしゃいました。目の前でおきている子どもたちの姿を読み取りながら、目指すべき保育のあり方を語り合うことになりました。それは子どもと環境の関係であり、子どもと保育者の関係だったりするのですが、そこで「起きていること」をどう理解するのか、そこには見る方の人権感覚が反映され、その子どもの尊厳を感じ取るかどうかによって、そこに大きな差異が生まれるように感じたのでした。
これはななかな、うまく説明できにくいもので、どう表現したらいいものか。抽象的な言い方になってしまうのですが、その違いは、保育者が「子どもがどのように変化していくのか」を見極めていこうとする「まなざし」の違いとして表れているとはいえそうです。その姿とは、環境との関係のなかで「引き起こされている」と表現したい事態なのですが、それがそうなるようにするには、担任の冒頭のような表現のなかに見出されると思うのです。