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園長の日記

除夜の鐘と松の内~仏と神の習合

2024/01/11

今日は保育園で鏡開きをしました。こどもに「鏡開きって何?」と聞かれるので、神様にお供えしたお餅をみんなで、分けて食べることだよ。お餅を割るってことなんだけどね。ここでいう神様とは、トイレの神様と同じで、「八百万の神」を受け入れる感覚が風習であったように、ご先祖様が仏様であり神様であるような存在としてある何かです。神棚と仏壇が同じ部屋にあっても何も違和感のないような形で、私たちの風習のなかに溶け込んでしまっているものでしょう。

いってみれば、日本的な宗教的な営みは、条件としての信念や信仰はなくても、謂れや習慣で成立しているように見えます。それが宗教的な営みだという自覚すら必要としないほど、それとして受け入れてしまうあたりが神仏習合を成し遂げてきた日本文化の本質のような気がします。つまり日本的営みは儒教的な生活信条(クレド)も、「八百万の神」も、仏教的無常観も画然とした境界をもたないあいまいな連続体として成立しているように思えます。

保育園や学校の公教育のなかに特定の宗教を持ち込まないというルールを思うとき、千代田区区報に「正月は神様を迎える行事」という説明が書かれていても、そのルールに抵触することにはならないでしょう。なぜなら、たとえば他の宗教から「区報の新年一号に神道の説明をしていいのか」という問い合わせがあったとしても、たぶん「あれは風習や謂れの説明であって、特定の宗教をとりあげているつもりはありません」と答えるだろうと想像できるからです。

紙面の構成にもあのあたりの苦心がのぞきます。全体のタイトルは「正月小話」として構成されているのです。

同様に「大晦日小話」があるなら、除夜の鐘の謂れや習慣の説明ができ、決して仏教を取り上げているのではないということになるのかもしれません。それにしても一年を振り返るときは、つまり終点に極まるときはお寺で仏と出会い、始点に立つときは神社で旅立ちを清めてもらうという使い分けの機微に、日本的な心の動きの洗練さを感じるのですが、いかがでしょうか?

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