気の遠くなるような長い進化の歴史が正しいのなら(多分そうでしょうけど)、私たち人間よりもずっと昔から生きている昆虫たちが、こうして保育園の一角で生まれて育ち、私たち人間の文化にも溶け込んでいることを思うと、虫の方に、もし人間と同じような意識が備わっているなら「そんな瞬きのような束の間の出来事に心を奪われている人間の面白いこと!」と驚くかもしれません。生まれては死に、というように見える生の個体化なんて、実在である生から見れば、ただの仮の姿のようなものだからです。さらに、たまたま保育園で数年、何代目かになったからといって、生という存在からみれば全く大したことではありません。
でもそれでさえ、開かれた意識を持った人間からすると、そこに昆虫の個体の生死に倫理的まなざしを向けることさえできるほど、生の影のようなものでしかない意識が、いつの間にか自由を獲得しているとも言えるのかもしれません。そのように意識を働かせる力そのものが生のありようだと思えば、人間のやっていることがとても不思議なことのように思えてきます。ベルクソンの「形而上学入門」を読んでいたら、そんな気になってくるのでした。