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園長の日記

そこのところを大事に想像する難しさ

2024/10/04

子どもは気持ちや思いや考えを、言葉にしても表現にしても、まだ外に出すことが難しいので、何をどう感じたり思ったりしているのか、周りの大人がよくわからなくなることがあります。いやなの? 不安なの? ちょっとこわいね? 迷うよね?・・・というのは感じ取れる子もありますが、どういうふうに、なぜそうなのか、あるいはどうしたいのかなどが、本人と一緒にこちらもわからないで思案するという感じです。

思いなどの内容にしても、表しにくい仕組みにしても、その理由がわかると、そういうことだったんだね、ということになるのですが、その「わからなさ」と「そうだったんだね」の間の中間は、狭いのか広いのか、精神は性質なのに、そういう空間化して量にしてしまう私たちの誤解なのか、いずれにしてもそういう世界があるんだろうと思います。

思い通りにいかないで癇癪を起こすという見立てが的を得ているときもあるでしょうが、それはまだわかりやすい方の部類で、なんで?と、よくわからないこともしょっちゅうあります。私たち大人は(というか子どもそうですが)、その中間部分をなかったことにしがちかもしれません。大人によっては、なにかそれを表わしてくれない方が悪いみたいな空気感を醸し出してしまうときもある気がします。そういえば、子どもはそういう雰囲気はまず出しませんね。

 

それに輪をかけて、もちろん人によりますが、それを焦ったく感じたり、子どもの方へ「しょうがいないなあ」という気持ちをなげかえしてしまっていることもありそうです。私もしてしまうことがあります。そういう気持ちで投げ返され方は子どもの方は、また「ちっとも、わかってくれない!」という気になって泣きそうな気持ちになったり、イライラしたり、「もう、しらない!」とプンプンしたりします。場合によっては怒って、癇癪をおこすことだってありますよね。大人もいつでも仏様みたいに対応できるものでもない、というのが現実でしょう。

気持ちが落ち着くのと、気持ちの整理がつくのは違うのでしょう。この中間地帯にいる感じは、誰からに共感的に掬い取ってもらう中で、情動が突き上げてくる感じがおさまりながら、聞こえてくる言葉が幸運にも、自分の気持ちや思いの一部分を触ってくれたような気がして嬉しなるかもしれません。そこから自分の一歩が踏み出されていけば、素敵なことなのでしょう。なにか止まっていたところから世界方への光がさすような、そんな気持ちが表情にちらりと現れて、なにかが動き出す感じ。それなら・・と気持ちが動き出していきます。

私たちはそんなとき、「疲れていたし」「今日は体調もイマイチだったし」とか、コンディションの要因を語り合って中間部分をそっとしておくことにします。そういう光景をみると経緯をよく知っている担任のおおらかさに本当に感心します。そこは本人しか関与できない大事な人権の領域なのかもしれませんから、それを大事にしてあげているのでしょう。

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