お楽しみ会はいかがでしたでしょうか?今回は、初めて、保護者の方にも、出し物をやっていただき、ありがとうございました。園だけでは提供できないことや、親御さんのを子どもたちが見ると言うのも良い経験になりました。
早速アンケートの回答ありがとうございます。それを読んでいて、ちょっと反省しました。会の最後の挨拶で、私が余計なことを話したかもしれないと。ちょっと言い訳になりますが、長年の経験から、このような行事が子どもの出来栄えを発表するような集大成のような受け止め方をされると困るなぁと、ちらっと思ったからです。アンケートを読んでいて、余計なことだったと思った次第です。うちの保育園の大切にしていることをよく理解してくださっていると感じて、胸がいっぱいになりました。ありがとうございました。
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アンケートを読ませていただく前に、少し書いていたものがあるので、紹介させてください。お楽しみ会のアプローチで先生たちがかなり苦心している点です。先生たちの努力を褒めて欲しいと言う気持ちです。行事の前には紹介しにくかったので、ここで少し説明します。
これまでのお楽しみ会は、どちらかと言うと、劇と合唱合奏でした。しかし、その本質であるはずの遊び性の豊かさが伝わらないもどかしさを感じていたので、先生たちが最も大切にしているものをそのまま表そうと言う方針に昨年より変えました。以下の説明は、私の代弁的な説明になります。
(1)遊びの虚構性を劇にしたい
子どもたちが自発的にやり出す遊びの中には、いろいろな要素が混ざっています。幼児の場合、紙や粘土などの素材を活かして何かを作る遊び、道具を使って体を動かしたり楽しさ、何かになったつもりのごっこ遊びなどが混ざっています。
簡単にいうと制作や運動や模倣が相互に繋がりあっています。今年の幼児のお楽しみ会では、3歳児クラスのお店屋さんごっこ、4歳児クラスの野球物語、5歳児クラスのヒーローショーは、ちょうど制作遊び、運動遊び、ごっこ遊びが表に出ていたと言えるでしょう。
そもそも遊びには虚構性があります。自覚してやりだすと演劇性といっていいのかもしれません。年長さんのヒーローショーは演劇的でした。年少の本物のパン屋さんのようにやりたい、年中の大谷翔平のようにホームランを打ちたい、年長の悪者を打ちまかすヒーローになりたい。本当にはできないけど代わりにやっているとも見えますし、そのために思いついたいろいろな目的を達成する充実感もあります。
繰り返しても飽きない芸術性も含まれています。まるで本物のドーナツのような、透明な袋に装飾されたパンやお菓子。売り子や応援のグッズのデザイン。バットで打てば飛んでいくボールの感触。ヒーローに変身するための手の込んだ衣装。最後は音楽で、みんなが好きな「にじ」と「100%勇気」を歌いました。
それらを作ったり、やってみたり、演じてやってみたりする楽しさを繰り返し味わってきました。それをやっている時間は、子だもたちにとってかけがえのないもので、しっかり守ってあげないと、なんでもない時間のように思われがちな、壊れやすい空間なのです。目に見えない薄膜のような時空で覆われた空間とでも言っていいようなもので、その中は、面白さや楽しさで埋まっています。発見や驚きや冒険が展開されます。
(2)発達は経過で見なければ伝わらない
そのような遊びは、ただやることが楽しいのであって、別に誰かに見てもらうためにやっているものではありません。やっている遊びの中に、お父さんやお母さんも一緒に入って過ごす時空が継続的に成立すれば、それは子どもにとっては最も幸せな時間になりえます。似たような単発のイベントならできますが、時間をかけて作り上げていく遊びそのものに大人が参加すると言うのは難しいものです。保育者の専門性はそこにもあります。
ただ、子どもはやっていくうちに、その面白さを大好きな人、つまりお父さんやお母さん、お家の人に、伝えたい、共有してほしいと言う願いも、自然に生まれてくるのです。遊びは頑張ってやるものでも応援してもらってやるものでもありません。自分が発見した面白さや楽しさを、分かち合って欲しいと言う気持ちから、その心の交流を期待して、子どもたちは待ち遠しく思うのです。何かが上手にできたとか、立派だったと言うところを褒めてもらいたい、というのが主ではないのです、もちろん、それは嬉しいことですけれど。また、そう感じていたことも忘れてしまうこともあるようですけれど。
(お父さんによる、こま回し)
これらの遊びの進展状況や、活動がどのように変化していったかは、先生たちがそのプロセスを丹念にドキュメンテーションにしてお伝えしてきました。それぞれが、遊びの発端の頃から、その変化をたどっていくと、その過程に、それぞれが好きなことややりたいことを追求しながら、みんなで1つのものを作り上げていく、協力していく姿が見られました。
そのプロセスの中で、一つ一つ「面白い!楽しい!」と味わっている子どもたちの発見の連続がそこには見られます。そこに気づくことが、先生たちの面白さでもあり、保護者の方に伝えたいと思う動機もなっています。
(お父さんの、ブレイクダンス)
(3)子どもの遊び性を守りたい
そうすると、案外難しいなぁと思うのは、遊びの醍醐味を伝えたい行事なのに、その日が、何かの成果の集大成のように受け止められると言うことです。そこに至るまでの共同的で演劇的な遊びの世界に、まるで、リアルな現実の評価のまなざしが注がれるようなときのようで、それに沿おうとすると、見られることに慣れていない乳幼児の遊びの世界はフリーズしてしまいがちです。
気分良く、その流れの中で思いついたことも、ちょっと考えれば、違った!と思ってやめてしまうような、まるで泡のように素敵なこともすぐにパチンと消えてしまうようなことも、いろんなことが生まれては消えて、を繰り返しています。ものによっては大きく膨らみ発展したりします。できると思って、はいはいと元気よく手を挙げたけど、いざ、口にしようとすると、何も言えなくなってしまうような、誰もがそういう経験を持ってると思います。そのようなこと、丸ごと全てが、生き生きと活動していて、時に微笑ましく、時に素晴らしく、時に目を覆いたくなるような姿を見せてくれるのです。
(お母さんによるゲーム)
立派にやれているか否か的な評価の眼差しは、遊びの世界の風船を、簡単に破裂してしまいがちです。それだけは起きないように、子どもの世界を守ってあげたいのです。練習を繰り返して、何かが上手になり、立派なものが仕上がってお披露目をする。それはそれで一見何の問題もないように見える流れなのですが、そこに脱線や行きつ戻りつも起きていて、本当の意味での遊び性を保障していくのは難しいものです。何割かの子どもには、その道だけで通用するかもしれませんが、私は多くの場合、そこでは本当の自発性が育ちにくいのではないかと感じています。
それから蛇足かもしれませんが、子どもは基本的に多動性を持ってます。じっとしておくと言うのは難しいものです。個性の差もありますが、数の多い集団が何か同じことを同じタイミングで同じ場所で揃えてやると言うのは難しいものです。気持ちが、ハイになっているときは、なおさらです。ふだんなら情報を制限してあげたり、注意をコントロールしてあげたり、気づいていない時は声をかけたりと言う事は必要ですけれど、行事ような時は限界があります。