6日の午後のこと。おやつはレーズン入りスコーンでした。私も入れてもらって、子どもと食べようと席に着くと、ちょっと遅れて私の前に座った4歳児クラスの子が「一緒に食べたかったあ」と怒って涙をこぼしています。そうか、ごめんね「いただきます」がちょっと早かったんだね、もうちょっとで席に着くところだったのに。
この子の気持ち、大切にしたいです。なぜ、みんながちゃんと席に着いてから「いただきます」をした方がいいのかということを、この子が教えてくれました。行儀の話でもマナーの話でもなく、まさに「みんなと一緒に食べたかった」のです。私の園では、一人で食べる個食や孤食ではなくて「一緒に食べたら美味しい」という体験を大切にしているつもりです。よくそういう説明をしてきました。でもそれが叶わなかったから、この子は泣いて抗議しているのです。
急いで席に着こうとしている子どもの気持ちに添わない「いただきます」のタイミング。「みんな揃ったかな?」という配慮をしあうのは、このように、子どもの中には「いま行くから、みんな待ってて」の気持ちの子どももいるかもしれないと想像すること。そういう気持ちに応えるようにすること。
もし、そういうモヤモヤした気持ちが残ってしまっていることに、誰も目を向けてあげないとしたら、そこに集って共食する目的は、なんだったんだろうと反省してしまいます。
涙を流して嫌だった、と訴えている子どもの気持ちが事実としてそこにあって、それに誰も応答してあげないのは、見守っているとはいえなくなります。子どもの気持ちがスルーされないように、ちゃんと心の動きをとらえて保育をしていきたい。そういうことは多くはないのですが、もし多かったら、子どもたちの意見(View)を尊重しているとはいえないことになってしまいます。
こういうことは、ざわついた空気感に起きやすい事象だろうと考えます。大人の注意力も散漫になって、あるいは注意の向く方向があらこちらに分散してしまい、大事なことが見過ごされてしまうような時間帯。活動と活動の境目などにおきやすい。
先生が「いただきます」は始めようとする当番さんに「ちょっと待って、何々ちゃんが今、〜しようとしてるから」と注目を促すことも必要なのです。でも一方では、そんなときに、子どもが自身が「ちょっと待って、もうすぐ席に着くから」と伝えることができる子どもに育ってほしいと願ってもいるのですが。またこのような目の行き届かせ方を、保育士の「集団的敏感性」といいます。