「そこで遊んでいると気にしなくて済むよね。とくに雑木林のようなところだと、時間になるまでギリギリ遊んでいても大丈夫だし・・」。
こんな会話がありました。さて、この気にしなくて済むよね、とは何を気にしなくて済むのだと思いますか? 答えは後片付けです。砂や石や水、あるいは枝や葉っぱや木の実を使って遊んだ後で、それを元の場所に戻すなどの「後片付け」はほとんどいりません。
それら「砂や石や水、あるいは枝や木の実などの自然のモノ」は、その属性によって、いろいろな遊びを誘発します。長い時間、その遊びを下支えする万能なツールたちです。しかもほぼタダで手に入り、子どもたちにしかその価値が見出せないほど、普段は見向きもされず、場合によっては清掃や伐採やごみのように扱われてしまいかねない代物たちです。
そう考え直してみたときに、ふと今朝、室内のあちこちに転がっていた井形ブロックを私が拾って箱に戻したことを思い出しました。・・こんなとろこにも、あ、あそこにも。「何かを作って遊んだあとの証拠だけど、まだ片付けることまではできないんだろう、しかたないか・・」。作ったもので何かを見立てたり、戦いあったり、投げたりしたかもしれません。そういう名付けようのない子どもの振る舞いには、名前がなかったり、あまり注意も向けられない、曖昧な動きの印象しか残さないような遊びです。もしかしたら、当て所もなくフラフラしているという見方をされてしまうような姿だったかもしれません。
でも、それが雑木林のような自然の中で、枝や棒などを振り回したり、地面に絵を描いたり、何本も組み上げたりして遊んでいたら、それは立派な自然保育だと、どこか安心してみているようなところはないでしょうか?ところが井形グロックが室内でころがっていると、その前に展開していた遊びまでが、否定的に見られかねません。その違いはどこからくるのでしょうか?
遊びの最中には、子どもが何か働きかけて、その対象が変化したり、思わぬ謎や問いを投げかけ返してくるような相互のやり取りが引き起こされています。応答的、あるいは対話的なことが、頻繁に起きています。対象がものであろうと、友達であろうと、先生や大人であろうと、その呼びかけられたり、呼びかけたりという相互作用が豊かに起きていることが、生き生きとした遊びだといえるでしょう。それこそ<主体的な活動>となっていくものでしょう。
井形ブロックでも、こことことを繋いだたら、こんな形になった、それにもっとこうしたらどうなるだろう?お、こうなった、じゃあ、こうしてみたらどうだろう、うん、なかなかいいぞ・・そういう一連の<気づき>と<思考>と、楽しいといった<心情>や、それならもっとこうしてみたいといった<意欲>が働いていて、いいかえると、そこにいわば課題解決プロセスがうまれいて、最初あるいは途中から「こうなったらいいな」という目的も生まれては、それがさらに更新されていきながら、次々と何かを作り上げていく過程がそこにはあります。
さらに、そうした過程は、ずっと続いているわけでもなく、ときにぶらぶらとあとどなく過ごす<空白>も豊かにあって、そのなにもしていない空白の方が、熱中している遊びの土壌のようにも思えます。その空白の時間や空間は、自然の中なら、それこそ自然なこととして受け止めてもらえるのに、都会というか現代社会の時計の刻み方のなかでは、もったいない、無駄な時間とみなされがちです。
だとしたら、自然の中で起きていることと室内遊びで起きていることの、その扱われ方の差がどこから生まれているのかに目を凝らしてみたい。生き生きと遊んでいる、その部分だけを取り出すことができるなら、大きな差はない気がします。もちろん室内と自然のなかでは、もっといろいろなことが違うのですけれども。ともあれ、遊び込んでいる豊かな活動を生み出している背景や空白のところとセットで捉えることが大事なのでしょう。そのことを確かめながら、大切なテーマの焦点を外さないようにしていきたいと思ったのでした。