保育士は子どもと毎日心を通わせます。今日はこんな気持ちのやり取りをしたなぁ、と実感します。それがないと保育ではなくなります。そして「あ、あの時、こうした方が良かったかもしれないなぁ、ああするべきだったかなぁ」と毎日、振り返って反省します。
◆犠牲から学んだ人類の知恵
今日はベランダで収穫したゴーヤが熟れすぎて、食べるのを諦めたのですが、見た目だけなら、色鮮やかだったので「先生、食べてみようかな」というと、HSくんに「食べちゃいけないんだよ」と注意されました。担任の先生たちの判断で「今日はこれは食べない」と決まったあとの私の呟きだったので、子どもたちにとって私は「決まったことを守らない人」になっていたのでしょう。子どもは「食べる、食べないのルール」を厳しく守ろうとします。そしてルール違反者には厳しく接します。これはきっと、遺伝的なものがそうさせているのかな?とさえ思います。ホモ・サピエンスは自らの生存のために、先祖の犠牲の上に、毒を「食べない/食べさせない知恵」と「伝達力」を発達させて来たに違いないからです。苦いものには要注意、と。
◆動機がすべての判断基準に
ところが、味覚と違って「心」については、まだまだ学習が足りないようです。例えば、心が動かされることが、無条件にいいこととは限りません。感動を与えるものなら何でもいいとは限らないのです。そんな当たり前のことなのに、意外と騙されてしまうのが「世論」というものなのでしょう。これはほんとに、怖いです。全体のためなら例外的に個が犠牲にされることを受け入れてしまいます。『天気の子』では「人柱」という犠牲を、『アルキメデスの大戦』では「戦艦ヤマト」という犠牲を、世論は求めるのです。犠牲の美学が「理」さえも飲み込んでしまう恐ろしさ。「動機よければすべてよし」になっていまう怖さ。
◆長崎出身の私が夏に毎年思うこと
毎年この時期になると日本が真珠湾攻撃して長崎に2発目の原爆が落ちるまでのことを考えます。俳優で歌手の菅田将暉が映画『アルキメデスの大戦』で「数字は騙されない、数字こそ真実を語る」と叫びながらも、昔舞踏家で今俳優の田中泯に「それは表面的な真実に過ぎぬ。現実はもっと深い真実で動く」と静かに反論されます。理と情の戦いで、日本は情に負けたのでしょう。情は空気と言っても構いません。戦後の心理学的な総括が終わっていない終戦記念日は明後日です。