昨日は私、園長から見た「この日を忘れない!」でしたが、子どもからすれば、初めて散歩で和泉公園に「行けた」ことよりも、実際に「楽しかった」ことの方が大切なのです。
それと同じ意味で、今日の「ちっち」のブログ(日記)に、「相手の気持ちを察する力」が見えた様子が報告されています。
それを読みながら、このちっちの先生は「よくぞ、その様子を捉えてくれたなあ」と感心します。
と同時に、子どもは本当は謙虚なんだなと、子どもにも感心します。それは、倉橋惣三が子どもに魅了されて「こころもち」と表現した、あの子ども心のことです。この子どもたちが記憶はできないにしても、こんな心が育っている「記念日」として、忘れられない日であることは間違いありません。
◆乳児同士が共に過ごした時間があったからこそ
ここからは私の解釈ですが、「おもちゃを直そうとして、それを欲しがっているんだ!」と察することができるのは、相手の意図を理解しようとする「謙虚さみたいなもの」が備わっているからであって、そういう相手への気遣いのような、そっと見守る力のようなものを、赤ちゃんの頃から発揮できるのだとしたら、それは子ども同士の親密さを育んだ「共に過ごしている時間」があるからだろうと考えざるを得ません。
◆こうして信頼も育まれるのではないか
その親密さの中で子ども同士の「信頼関係」のような感情も育っていって、この写真のような光景が生まれているのでしょう。実に面白い姿です。こうやって心の通い合いが生じるのでしょうね。
◆どうして日本は0歳児室を隔離するのか?
あえて申し上げると、日本の全国の保育園は0歳だけで隔離した保育室を作らなければならなくなっています。これは見直した方がいい。世界的見たら「当たり前」ではありません。千代田せいが保育園のように、0歳と1歳のクラスが同じ空間を共有して生活できる保育園は、非常に稀なことなんです。
◆保健師には保健衛生と人類学(心の保健衛生)を!
0歳児クラスを独立させて、他のクラスを交流させないルールは、伝統的な子育ての原理から逸脱した、いかにも保健所が考えそうな、人工的で視野狭窄に陥った偏見であると申し上げておきたいと思います。感染症の予防は大事です。併せて心の発達も大事です。感染症にはならないけど、他人の気持ちに共感できない大人をたくさん育ててもいいのでしょうか? このジレンマに向き合って欲しいのです。保健師には人類学を学んでもらわないといけません。