MENU CLOSE
TEL

園長の日記

美味しかった七夕のカップゼリー

2023/07/07

七夕会は所どころ、入園見学の方と一緒に見ました。子どもは楽しかったことや面白かったことを再現させたがります。それは実際に「もいっかい」とやることになることもあるのですが、たいていは再現遊びになります。

今日は行事食だったので、いつもよりもちょっと凝ったメニューだったのですが、夕方の自由遊びの時間に、今日のおやつのカップゼリーを制作している子がいました。ブルーハワイ色のゼリーには炭酸も入っていて、食べるとプチプチ弾ける清涼感も味わえました。

そんなときに、「子どもはスキルを学びたがっている!」と強く感じます。こういうのを作りたいというイメージがはっきりしているときに、とくにそうなります。どうやったらカップゼリーが作れるか。その4歳児の女の子は、その味や美しさに心奪われているのでしょう、どうしても作りたいという熱意が伝わってきます。実物と同じ透明なカップに、青いゼリーを入れるのですが、過去にソフトクリームでやったことがあるらしく、テーパータオルをクシャクシャにして丸くすると、青色の折り紙で包み、その丸くなったぜリーをカップに押し込みます。

その上に黄色い紙を星形に切って(そこは私が手伝いましたが)セロテープでくっつけました。ほとんど自分でできたのですが、出来栄えに納得しているようで、うれしそういです。ところが実物の写真とくらべて何か違うと気づきました。白いクリームが抜けていたのです。またすぐに星を外して白い紙の上に載せなおしました。お迎えに来た母親にもその制作物をみせ、展示食ケースに入っている実物を親子でみていました。

私は模倣というのは人間の本質的なところに働く何かだと思うのですが、心動かされた世界と出会い、その魅力をもう一度味わいたいから、言い方を変えればもっとよく知りたいから、再現させているように見えます。それを繰り返しながらさらに、そのことが好きになり、その世界へ入り込みながら、またいろいろな差異に気づき、さらにもっと知りたい、できたいとつながっていくのでしょうね。

水遊びにおける表出から表現へ

2023/07/06

水遊びは気持ちを解放させてくれる。その文章表現を見て、ちょっと考えることがありました。当園の夏の「保健だより」にそう書いてあります。今日は屋上やベランダで子どもたちが、バシャバシャと水をかけあってキャーと声をあげて遊んでいる姿を見ると、健康的ないい活動だなあと実感します。

そこで、そうか!と気づきました。水という媒体とのこの「かかわり方」を領域表現で大切にしているプロセスと重ねあわせてみると、気持ちが解放される子どものありようのこと、つまり表現以前のことと思われる中に、表現へとつながっていく何かがあるな、と気づいたのです。

確かに保健的な養護的な側面と、なぐりがきをしたり、新聞紙をちぎっては投げあげたり、かえ歌をある種デララメに歌って、繰り返し口ずさんだりしている教育的な保育内容的な姿との重なり合いです。

それは感覚的、感性的にうちから出てくるエネルギーがあって、それが表出されているのですが、それが一旦十分に楽しまれた後で、さあ、水ってこんな感触があって面白いね、と改めて向かい合っていきたいと思います。

水というのは固定されにくいので、ジョウロや色水遊びのように別の何か容器のようなものを介するか、雨や川や海のように自然にあるものを利用するか、あるいはコップや水筒や食事などの「飲む」という、もっと生活に密着したものもあるかもしれませんが、いずれにしてもを水を表現の媒体にはしにくいのですが、身体的なかかわり方の対象としての水を考えることは大事です。浮く、沈む、泳ぐという身体的な体験も領域健康としても、これから始まるわけですが。

それを造形や音楽や劇やダンスとは同じように扱えませんが、身体的な水遊びではしゃぐ姿を見ていると、領域環境では何か対象化されすぎているようにも思えてきます。色水遊びや絵本の楽しみ、水族館で見た生き物たちの水中での動きなどがつながっていくときに、子どもが自分の身体と水との間に何かしらのコミュニケーションがもっと起きていでしょうし、実際にすでに対話が繰り返されているだろうからです。

 

色々なことの「いつ頃から、どのように?」

2023/07/03

伝統的な行事と言っても、それには必ず歴史的な起源があるはずです。日本に根付いているものが、いつ頃どのようにできて、またどう変わってきたのか。はっきりしているものから不確かなものまで色々です。七夕はどうなのでしょう。なぜ「たなばた」というのか、についても諸説あるようです。その話はまたの機会にするとして。

さて、保育園にも笹に願いごとを書いた短冊が飾られています。昭和や大正のころの願い事は、機織りや習字が上手になりますように、といった生活上切実なものだったのでしょうが、今ではそういう願いとはいささか違いますね。

保育の活動としては、七夕飾りの製作や装飾を楽しんでいます。飾りは折り紙などを使って、色々な形になるのが面白いですね。四角い紙が、切れ目の入れ方はひねり方、糊でくっつける場所の違い、輪にしてつなげてみたり、「色とりどり」になっていく、できている中に「わあ、きれい」「こんなになったよ」が色々できて、そこには確かに「いいね」「きれいだね」ができていきます。

そういう美への感性が育つのは、どんな時なのだろう。ということを改めて考えてみると、考えれば考えるほど、結構、謎めいてきて大人にとっても面白いテーマです。確かに「それいいね」はあるので、それをを作っていくことが楽しいのですが、子どもにもその差がわかるとすると、いつ頃どのように芽生えてきて、どのどうに育っていくのでしょう。

私の世代は橋本治を読んだり、一つ上の(つまり10年上の)世代は吉本隆明の「言美」だったりしますが、どうして「美しい」がわかるのか、や何かにとっての美とはなにか、ということも、「いつ頃どのように」の経緯がありそうです。孔雀の羽が美しいのを、雌の孔雀がそう思うのなら、動物にも「それがある」ということなのでしょうから、さて、それは人間の「それ」と同じなのかしらん?などと考え出すと、果てしない美の冒険となっていくのでしょう。

運動の中の「美」を体験する

2023/06/28

今年で4年目を迎えるコンテンポラリーダンス。今年もその遊びが始まりました。子どもたちに指導してくださるのは、子どもたちが大好きな青木尚哉(あおき・なおや)さん、芝田和(しばた・いづみ)さん、木原萌花(きはら・ももか)さん。ダンスと言っても何か決まった振り付けがあって、それを覚えて上手に踊る、というものではなく、自分の身体を気持ちよく動かす回路を開いていくようなものです。乳児から幼児まで、全てのクラスで楽しみました。

乳児の子どもたちとは、まずダンサーの方々と親しくなることから始めます。いつもの歌を歌ったり音楽に合わせて体を動かしたり。普段の遊びを一緒に楽しみました。この人たち、誰だろう?という感じから、すぐに慣れていってくれました。にこにこさん(2歳児)たちとは、膝の上にのってヒコーキになって跳んだり、ペンギンになって歩いたり。わいらんすい(345歳)になると、バリエーションが増えます。

じゃんけんのぐーやパーの形(格好)を顔や手や足や全身で表す「グーパー体操」。相手とてのひらを重ね合わせる「やさしくタッチ」。それを歩いたり走ったりゴロゴロ転がったりしてやります。タッチの代わりに「ぎゅー」になったり、「高いたかい」になったりと触れ合い方は様々に変化。これらは自分の身体が人と触れるという、関わり方のバリエーションの広さに改めて気づくことになっていきます。

青木さんのダンスの面白さは、それが「よくなること」が、自分の身体と周りとの接触の仕方や度合い、距離感というものに敏感になっていくこと、その感覚の解像後が高くなっていくことが「よさ」なのです。その運動の代表が「ポイントワーク」という青木さんが開発したメソッドです。例えば「マネキンとデザイナー」は、片方がマネキン(人形)役になって、もう片方がデザイナー役になります。そしてデザイナーがマネキン役の体をゆっくり優しく動かすのです。

子どもたちは身体の骨の模型を見せてもらっており、体には骨があって、関節のところで動くことを学びます。それ以外のところは動かないことを体感します。音楽に合わせて1、2、3・・・と数えながら、デザイナーはマネキンの手や指や腕や胴や脚や踵などを動かしていくのです。10まで数えたら、つまり10回手や足や頭の少しずつ動かして、最終的には「いい感じ」の格好を作り上げます、そして、その格好をデザイナーも真似ます。

ダンスのためのオリジナルわらべうた「鬼さん鬼さん何するの?」は、円陣を組んで鬼が「これするの」と応えると、みんなもそれと同じ動きを真似します。輪になって並んでいるので、順番に「これするの」をやる番が回ってきます。どんな動きをしようかなあと考えながら、思い切って動いてみると、どんなものであっても、それが表現として受け止められていきます。即興的に考える創造力、それをみんなが真似する面白さ。その中に、格好やポーズのかっこよさや美しさが垣間見あられるのです。慣れてくると、早く自分のところに来ないかなあというようになっていくのがわかります。

鬼ごっこやわらべうたでも、体を動かしますが、その関連を調べてみると面白いことがいろいろ見つかります。例えば「わらべうた」を「遊び方」と「隊形」で整理されているものと比べると、青木さんとやっている運動と重なり合ったり、独立している領域が見つかったりします。

やっていることは違うことだと思っていても、身体の関節が動いている運動であること、それと同時に起きている身体「感覚」の体験は、重なり合っているのです。

その運動の起点となっている前後の動機やイメージなどは、移り変わっていくのですが、その連続性の中に「美」がいたるところに見出されるのが、ただの運動ではなく、アーティストであるダンサーの作り出す運動の楽しさです。何度も楽しんできたものなのに、今回の「マネキンとデザイナー」の動きの中に、主任はいたく感動していました。「青木さんたちがデザイナーをやると、違う。10カウント目の最後の動かし方で、ドキッとするくらいよくなる」と。それはきっと子どもに伝わっています。あんなふうに自分も「やる、やる」と、デザイナーやりたいという顔にそれを感じます。

さらに「なるほど」と思う感想を主任からもらいました。「これって、感覚統合からみると、とてもいい運動になっていると思う。そして主体性ということでは、マネキンの方がやらしてあげていて、デザイナーと対等じゃないか」と解説してくれました。自分の身体が教材や環境になっていく協同的活動としての遊び、とでもいうのでしょうか。

子どもにとっての風景や光景とは

2023/05/06

普段は考えないようなことを思い出しては、頭の中でパズルのように遊んでいられる時間があるというのは幸せだ。確かに言われてみると、保育でそういうことはあまり意識してこかなったと気づく。何かというと風景画です。

(写真は、5月20日に予定している親子遠足で、ちょっとだけ歩く隅田川テラスに掲げてある浮世絵の拡大図です)

塗り絵、自由画、人物画、そういうカテゴリーで子どもの「作品」を整理することはっても、子どもは風景や光景そのものを再現しないかもしれません。そこにある物にはもちろん興味はあっても。

それに似たことは、いろいろやるけれども、いわゆる大人が思うような(と言っても人それぞれでしょうけど)自然とそれを再現(リプレゼンテーションとしての、ですが)はしないと言っていいのかなあ。でもこんなことはやってました。

以前の八王子の園でのことですが、インスタントカメラで子どもが写真を撮って、展示するとか。その前は、ネイチャーゲームにハマっていた時にいろいろなゲームがあって、自然の中の美しいと思ったところに絵葉書大の額縁をかざして空間的に切り取るというのをやっていました。

千代田区に来てからは須田町二丁目の会長に頼んで、会長がオーナーのビルの11階に昇らせてもらい、そこから秋葉原絵周辺の光景を眺めたことがあります。園に戻ってくると、幼児は早速、室内に駅や線路を作り、新幹線を走らせて遊びはじめました。

下を散歩で歩いているだけでは見えない風景だからでしょう。園周辺を一望することで、あそこにこれがあったとか、こっちの道がどうとか、神社がこっちでこれはホテルとか、模造紙の上に建物の箱が並びました。散歩マップ作りにどう役立つかな、と思って楽しみでした。絵にした子がいたかどうかわかりません。

確かに風景画という切り口は、科学と同じでただの日常的な生活だけでは、子どもからは出てこないような気がします。虫眼鏡で見るのと同じように、この枠で見たらどう見える?的なものを置いておく必要があるかもしれません。

高尾山に子どもたち(年長)と卒園前の時期のお別れ遠足で登った時、広い場所に出ると子どもは走り始め、わ〜っと展望できる場所へ駆けていきました。高い場所に上りつめて、目の前がば〜っと開かれていく風景。その開放的な気持ちのいい感覚を子どもたちは山登りで味わいました。

そこで、もし子どもに写真を撮らせたとしても、きっと物を撮りたがるだろう。それを「風景として」は、撮れないだろうという気がします。そういう認識の枠組みをまだもっていないでしょう。そのフレームがどういう意味で必要なのかと考えると、別に枠組みの話ではないでしょうね。その枠に縛られない方がいいでしょうから。

どこに何をどう描くか、再現させるかは、その時の制約から生まれました。古代の洞窟壁画にしても、教会の祭壇画も、飾る部屋の大きさに合った人物画も、どこに飾るのか、大きさや形、画材などの制約を受けながら、おおむね成立していったと見ていいでしょう。

その展開の中で慣習的に今にも伝わっているのがキャンバスのサイズだったり、額縁舞台から始まった舞台空間やコンサートホールでしょうから、日本の能舞台は西洋とは全く違うし、画用紙がどうして四角なのかも、まあ、裁断機のサイズなどいろんな意味で落ち着くべきところに落ち着いていると見ていいのでしょう。新聞紙の大きさもそうでした。

ここにきてデジタル化です。その辺りもどうなるのでしょう。「書く」や「描く」という言い方では収まらなくなってくるのでしょうか。若い人たちはネットでの注文をポチるというように。

保育園の目の前を流れる神田川。その川にかかる和泉橋。散歩の時にそこを渡りながら、船を眺めたり、ゆりかもめが羽を休めているのを見たり。

そういえば、ちょっと意識してやってきたのは、風景に季節感を感じることです。春にはたんぽぽやハルジオン、ヒメジョオンを摘んできます。夏には朝顔や園舎の屋上のひまわりの黄色が見えるように、また同じ場所に秋にはコスモスが見えます、そして冬にはクリスマスの電飾がツリーをかたどります。子どもがいつも通る同じ場所から、季節の変化を感じてもらいたくて、そうしています。そうでもしないと、都市のビル街に自然や季節を感じるものが少ないからです。

それらを子どもが写真にとって、季節ごとの変化を「絵はがき」にして飾るという活動を子どもがやってみようと思います。そこから何か見え方が変わってくるかもしれません。

話は、そもそものことに戻りますが、子どもは心動かされたこと、印象深いことは再現したがります。「ねえねえ、あのね」と話してくれたり、絵にしたり、ごっこ遊びになったりします。いずれにしても、何らかの再現・再演・表象表現が起きて、表しやすい表現手段と結びつくと、その表象を目に見えるコトに変えていきます。

アイスクリームにもして、パン屋さんにしても、蕎麦屋さんにしても、お寿司屋さんにしても、実演があると子どもは食いつきます。そこを再現したがる。そこを面白いと思うのです。遊びの模倣というジャンルをひろ〜く捉えれば、遊びはそこに入ることがとても多いような気がします。なので幼児の自由遊びはごっこ遊びが多くなります。その表現のバリエーションに風景や光景などが入っていくための、心動かされる体験とは、どんなことなんでしょう。・・・

子どもたちと覗くと「見えた!」と喜ぶお月様の観測。スマホで撮った写真です。

ワールド・クラスルームヘようこそ

2023/04/29

ちょうど子どもの「言葉の獲得」について調べていたので、冒頭の展示から引き込まれた。本物のジャベルの左側に写真のシャベルが並び、右側には辞書のシャベルの定義が文章で書いてある。この3つが合わせて一つに作品になっている。

まさしく三項関係である。これがアートになっているのは、作者のジョセフ・スコースがアートの本質をコンセプトにあると考えているからだ。この3つの要素はどれも表象だが、そのどれ一つを欠いても、アートにならないとスコースは考えた。展示の解説も図録もそこまでしか書いてない。しかし次のようなことを考えると、保育がアートになる境目というか、関係性によって3つの要素が明らかな者にとって、それは作品となるだろう。以下はこの展示のスコー スの発想からインスパイアされた私のアート論である。

どんなアート作品でもいい、その作品Aが何かBを表しているとしよう。宗教画でも歴史画でも人物画でも風景画でもなんでもいい。これは絵画に限らない。彫刻でも建築でもなんでもよい。小説でも俳句でも映画でも音楽でもなんでも。物象化しているものならなんでもいい。どんな現代アートも含まれる。その時なんらかの説明に相当するCがあるから、アートはアートたりうるのだとスコースは考えたに違いない。

もし作品Aが、誰がみてもそれとわかるシャベルじゃなくて、「無題」と題した何かの物体だとしよう。それでも、人によってはそこに何かを表象してしまう。つまりBがそこに存在してしまう。AとBの間の関係性はCが補完するとき、その時にAはアートになるのだ。なんでもないものがCの説明つまりコンセプトの生成がアートの条件ということになるだろう。それなら保育の風景の中に、それは無限に存在することになる。それは一見するに、アートらしいという私たちの概念とは全く異なるものだ。それらしいものに描かれたものが作品で、そうではないものが無視されてしまうだろう。私がみている風景の美しいと感じたものを写真にとりインスタにアップしているものも作品である。

極端なことを言えば、赤ちゃん自身がぼんやりとした風景の中に、母親の笑顔を見つけた瞬間の映像を、そのまま物象化することができれば、それもまた作品である。赤ちゃん本人にその意思がない限り、アート宣言はできないだろうが、保育者がその関係の中にコンセプトDを持ち込み、それがコンセプトC の代理であるといった展開なら可能なのかもしれない。保育では実際にそういうことをやっているのではないか? 子どもの描いたものは大人が描いたものよりもアート性があるとか、なんとか。

ということは、同じ風景であっても見る人によってそれは作品となりうるAとBの関係にCのコンセプトを意識できるかどうかにかかってくるということになるのだが、こういうことはすでにどこかできっと論じられていることだろう。なぜなら、このコンセプチャルアートは1960年代からあるものだから。それでも私はもっと深掘りしてみたいと思う。

ワールド・クラスルームは、こんな調子で国語・算数・理科・社会と続く。写真は理科のナフタリンで作った靴。展示ケースの中で揮発して再結晶化したもの。靴が再結晶していく過程がアートになっている。なんと美しい理科実験だろう。

ひなまつり

2023/03/03

♪ お内裏様とお雛様、二人並んですまし顔・・今日は楽しいひな祭り〜

2月中旬ぐらいからずっと歌っているひな祭りの歌『うれしいひなまつり』ですが、男女がくっきりと分かれているものを扱うとき、LGBTQも考えながら、どこに配慮が隠れているのか、歌詞も吟味しながらという時代になりました。お嫁に行くとか、三人官女とかジェンダー的役割分担がそこにはあるのですが、それでも歌わないと、知らないということになってしまいかねないので歌います。

ひな壇を飾ると、そこに込められた親の子どもへの健やかな成長への願いが詰まっていることがわかります。紅白のまんじゅうの意味や、菱餅の3色の意味、ひなあられの4色が季節を表していることなど、子どもたちに説明します。

子どもから大人への成長は、変化です。その変化は生物学的なものと社会心理学的なものと、一旦分けて捉えられてきましたが、現代の発達科学はそうは考えていないようです。お互いに影響しあって変化していくものとなっています。それは調べれば調べるほど、複雑な仕組みになっているようで、それを理解するのも一苦労です。子どもの発達について、だいたいこういうことに配慮しながらやっていきましょうということがあって、その最低限のところは、強調していくことになります。

 

たにじゅん展 明日25日から 海老原商店で

2022/11/24

「見たもの・出会ったものを残すこと。愛でること」

明日25日から「谷川潤」さんの個展が海老原商店で開かれます。とにかく彼の「描く」という意味が大好き。個展のコンセプトをパネルにこう表していました。

https://www.instagram.com/p/Ck0rn3bJwgs/

 

<描くこと=

大学3年生になった頃にはじめた、「自分と素敵な人・もの・場所との出会いを形にして、贈り物としてその人たちにお渡しすることで、また素敵な出会いのきっかけになっていく、」(たにじゅん日記)

美味しかったパン、一緒に暮らすワンコたち、大好きな人

よく見ること、そして気づいたことを形に残すこと、その行為を通すことで、対象により愛着をもつようになること。

描くことは、僕にとって、目に見えている世界に愛おしさを、より自分の中に深く刻み込む行為であり、また、そうして得られた幸せを、他に人にお裾分けする手段の一つでもあるのです。>

・・・・・・・・・・

こんな関わり方ができる時間。

教育の五領域「表現」のこんなふうになっていくと、いいな。

 

 

子どもの姿をアート作品としてみる

2022/10/11

今日は見学に来られた大学の先生と、子どもの動きをアートとして観てみました。その先生と一緒に保育室を見てまわりながら、気づきました。子どもの姿や行動を「アート作品」のように鑑賞することができることに。ただ、その作品はその瞬間に生起して消えてしまうものなので、この場(言葉を連ねて写真や動画を添えるメディア空間)に再現させることはできません。ただ、私に印象として残っている記憶を頼りに、言葉でリプレゼンテーションしてみます。

少し静かなところで話をしたくなって、3階のパズルゾーンのところから、吸音効果の高い運動ゾーンに移動して、見学者の方と「演劇」について話していた時です。3歳児クラスのKSくんがネットにぶら下がって遊び始めました。時刻は朝9時35分。遊びを終えて2階で朝のお集まりに移るタイミングの時でした。私がいるので、ネットに登り始めたのですが、もし私が「今はそれをやる時間じゃないよ」みたいなことを言う先生だったら、きっとネットに登り始めることはないかもしれません。でも私がそんなことを言う人ではないことを彼は知っているので、ネットに寝そべって、私たちの演劇論に耳を傾けています。

私たちが、どんな話をしていたのかというと、「子どもが、こうやってネットで揺れている動きは、これもダンスと言えるかもしれませんよね。地面の上で踊る姿を見て、それをダンスと思うことは難しくない。でも、こうやってネットの上で揺れている姿は、ダンスじゃないのか? ダンスは自分の身体と周囲の環境との対話のようなものなので、例えばこの子は今、なぜネットに登り始めたのかを考えると、ネットという物的、空間的な環境がもつアフォーダンスが、その子にぶら下がることを引き寄せたという要素もあるでしょうね。

あれ、私の方へ寄ってきました。・・・(子どもと会話を交わす)・・・こんなふうに私がお客さんと話をしているという状況が、彼の興味を引き出したとも言えるから、彼の身体と環境と意識とが、一つの動きを生み出したわけですよね、例えば、いま起きたことを、何かのコンセプトで切り取ってフレームにはめて作品らしく見せることができてしまう。それを演劇にすることも可能かもしれない」・・といったことを話していました。

先週のことですが、入園先を探すために来られた見学者に、YSくんがネット遊びを見せてくたときがあります。その時のネットへの登り方がアクロバティックで、「こんな登り方があるんだ!」とびっくりしました。彼らなりに、登上ルートを開拓しているのです。これもわかりやすい技、アートです。うちの子どもたちは、身体がネットにとても馴染んでいます。難なくネットを自分のものにしているスパイダーだちです。そう思うと、技の洗練というものがアートの美の探求に近いのかもしれません。作品がどうこういうよりも、それを生み出す子どもの身体そのものがアーティスティックになることが大事なのかもしれません。それを突き詰めると、これからの時代を捉えるために、一つの方向として「人間は生まれながらのサイボーグである」(アンディ・クラーク)のようなテーマになっても面白いですね。

例えば、この冒頭の写真に「子どもはサイボーグである」と言う題名を付けることもできるでしょう。その説明はこうです。「人間は生物と非生物の間にまたがる認知体である。服を着て、靴を履き、帽子を被る。すでに人間は自然と人工のハイブリッド体と言ってもよい。子どもがネットに登り座りぶら下がるとき、運動をしているのではない。手足はネットと融合していくサイボーグとなり、子どもはアート(技)と共生し始めているのである」といった具合。

こちらは子どもの作品「ブドウ」です。こちらの話はわかりやすい。

でも、このように技(アート)の結果として制作物が作品になったものを通じて、私たちは、身体の機能の発達に目を向けがちなのかもしれません。またダンスや演劇も、身体がもの語る何か、メッセージに目が向きがちかもしれません。

そうではなくて、身体が持つ自然と非自然の重なり具合、その接面で動くものをアーティフィシャル(技能)と定義していたことを思い出したいのです。美術としてのアートではありません。藤森先生は「STEAMの中にARTが入るのはおかしい。アートは他のもの全部に必要なんだから」と喝破されているのです。科学にも技術にも工学にも数学にも、アートは含まれているからです。

なんでも遊び、運動などの粗雑な用語で括ってしまうのではなくて、どんな「視座」を持ち込むと、広がりや深さやコアな何かに気づけるのか、科学者やアーティストと協働すると、ものの見方・考え方が揺さぶられて面白いのです。

表象としてのコンテンポラリーダンスの魅力

2022/10/05

「今日は青木さんがくる!ダンスができる!」

そういうふうに「嬉しがる子どもたち」の姿に接すると、こちらの方が嬉しくなります。コンテンポラリー・ダンスにしていて、よかった、と思います。決まった振り付け通りに踊るダンスではなく、自分のイメージ(表象)を身体表現にするダンスです。ですから同じ形にはなりません。その子らしいダンスです。しかも、これがダンス? と思うほど、その表現は幅広いものです。じゃれ遊び、わらべうた遊びのようなダンスでもあり、私はこれこそがダルクローズが思い描いたリトミックの再生ではないかと思っています。

ジャンケンの「ぐー」をしてみてください。そう言われたら、大抵の人は手で「ぐー」を作るでしょう。では「顔でグーをしてください」と言われたら、どうしますか? 子どもたちは、難なく顔でグーを表します。では全身だったら? こんなふうに表象と表現を結びつける想像力を楽しむダンスなのです。走ったり、跳んだり、転がったり、急に動いたり止まったり。頭から足先までの身体の部位を意識して動かしたり、動くところと動かないところを意識したり、自分の格好がどうなっているのかを想像したり、常に頭の中も動かしています。

保育所保育指針や幼稚園教育要領には、教育の領域「健康」の心情のねらいとして「自分から体を動かすことを楽しむ」、意欲のねらいとして「自分の体を十分に動かし、様々な動きをしようとする」とあります。これを具体化したものの一つが、ダンスです。0歳の赤ちゃんから6歳の年長まで、同じ考え方です。また教育の領域「表現」では、心情として「身体の諸感覚の経験を豊かにし、様々な感覚を味わう」が、意欲として「感じたことや考えたことなどを自分なりに表現しようとする」が、ねらいになっており、ダンスにはそれも含まれます。

ダンスですから、健康や表現がまず、教育のねらいとしてふさわしい活動になるのは、想像しやすいでしょう。ところが、実際に楽しんでいるダンスを見てみるなら、さらに人間関係や、環境でもそのねらいを具体化したものになっていることがわかります。人間関係の「身近な人と関わる心地よさを感じる」「周囲の子ども等への興味や関心が高まり、関わりをもとうとする」も当てはまります。また環境の「身近な環境に親しみ、触れ合う中で、様々なものに興味や関心をもつ」「様々なものに関わる中で、発見を楽しんだり、考えたりしようとする」さえも該当するから、面白いのです。

総合的な保育、というキーワードがあります。これは一つの活動が色々な要素を取り込んで総合的な活動になるように、という意味ではありません。子どもの体験はいろんな場面で起きており、一見、バラバラに起きる体験が、実はつながりを持った発達の経験になっていくという意味での「総合的」なのです。しかし、このコンテンポラリーダンスを、五領域の視座から分析してみると、とても豊かな経験になっていることがおわかりいただけると思います。

さらに実は、言葉の領域からも「非言語的コミュニケーション」や「身体の声」という活動になっていることも、添えておきたいと思います。

top