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園長の日記

感覚の洗濯〜柳家花緑の見方・生き方

2020/10/18

◆感覚の洗濯

昨日は朝から雨で、参加者も少なかったのですが今日18日(日)は晴れて、海老原商店にはアート作品としての洗濯物がたくさん並びました。東京ビエンナーレのプレイベントとして開かれた「感覚の洗濯」です。企画したアーティストの西尾美也さんは奈良県立大学地域創造学部准教授で、専門は先端芸術表現。「状況を内破するコミュニケーション行為としての装いに関する研究」で博士号を取得されています。

http://yoshinarinishio.net/biography/profile.html

東京ビエンナーレ2020の事務局はアーツ千代田3331にあり、そのジェネラルマネージャーの宍戸遊美さんがビエンナーレの事務局長を担当されています。当園と3331は、いずれコラボレーションすることになると思います。保育は原理的にアートを内包しているからです。

◆柳家花緑の努力の仕方

今日はその後、有楽町ホールでの「さくらんぼ教室開設30周年記念イベント」に招かれました。この教室は代表の伊庭葉子さんがマンションの一室から始めた発達障害をもつ子どもたちの学習塾で、現在は11教室2500人が通うまでになりました。イベントのテーマは「一人ひとりちがうからこそ、人生はおもしろい!」です。その記念講演として柳家花緑が落語「寿限無」と「つる」を披露しました。彼は自らが識字障害(ディスレクシア)で、その体験談を明るく愉快に語ってくれました。好きなことだったので努力ができたそうです。

花緑師匠は「掃除、笑い、感謝」を大事にしているそうで、その軽妙なトークで「なるほど」と思ったのは「感謝は今あるものに向かうからありがたいと感じるもの。だけど努力は無いものにエネルギーを使う。方向が正反対でしょ。あまり頑張らなくていい。頑張るは我を張るにつながるから」。この感謝の反対は頑張ること、という捉え方は新鮮でした。これは自己を保つ、自信を失わない生き方にとって大事です。「得意なことをちょっとずつ伸ばしていく」「苦手なことは自分なりに工夫する」「大丈夫は魔法の呪文」「みんな違ってみんなふつう」・・こんな花鹿語録が満載の時間でした。

「月白風清」青山で尺八とダンスのぶたい

2020/10/03

「満月の夜に、尺八とダンスのしらべ」。こんなタイトルのイベントに2日(金)に参加してきました。

ダンスはご存知、青木尚哉さん。日本のコンテンポラリーダンスの第一人者です。保育園の24日の運動会をいま構成してくださっています。この夜は尺八とのコラボレーションです。

舞台となったのは、表参道駅から5分ほどの公園内にできた小さな野外ステージ「ぶたい」。都営団地の再開発「北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト」でできた高層マンションの裏手。遊歩道に作られた小さな雑木林にせせらぎが流れ、虫の音と秋風が気持ちいい夜でした。夏井敬史さんによるエレクトロニクスの環境音楽が、尺八とダンスを引き立てます。

 

尺八は黒田鈴尊(れいぞん)さん(37歳)で今、注目のアーティストです。人間国宝の二代鈴木鈴慕と三代青木鈴慕に師事、国際尺八コンクール2018in Londonで優勝しています。プログラムによると、幼少よりピアノを学び、武満徹の「November Steps」を聴いた事が契機になり20歳で尺八に転向したそうです。青木さんが今回の企画に共演を誘ったそうです。

(この写真は黒田鈴尊さんのホームページより)

人の体は、それ自体美しいと思うのですが、動きがさらに美を生み出すためには、それにふさわしい環境が必要だという事に、このイベントで実感しました。これは当たり前のようでありながら、忘れがちです。秋の満月の夜の野外。風と光のなかに響き渡る音楽を、身体が即興で「それ」を見えるようにしてくれます。もちろん、青木さんがダンサーだからできることなのですが。環境と会話しながら体を自在に動かすことの美しさ。

尺八の音はまさしく「和」なので、月や雑木林にふさわしいのですが、青木さんのダンスは、その和に溶け込むような舞いでした。舞台で見る西洋的なダンスではなく、日本の舞踊やアジアのエスニックテイスト、モダンなステップなどを感じた方もいたでしょう。私が一番「ぞくっ」としたのは、やっぱり「間」や「呼吸」でした。高揚と静寂を沈黙がつないでいくのです。見事でした。

青木さんは、舞台演出もされる方だということも強く再認識しました。光や照明も大切な装置です。

このようなイベントは毎月、満月の夜にイベントを開催するそうです。主宰する「ののあおやま」(2020年5月オープン)の水野さんは記念すべき第1回を青木さんに依頼しました。その理由は「なぜ、ののあおやま、という名前にしたのか」という解説でわかりました。

「のの、という言葉は、日本で伝統的に使われてきた言葉です。自然の尊さに包まれ、その有り難さを感じられる場所になること、そして感性を磨いて共感する仲間たちを集め街に新しい魅力を育てていくことを願っています」

月が毎晩、少しずつ姿を変えるように、自然と人生に同じ日はありません。その日しかいない風や姿に日本と美しさを感じることのできたひと時でした。

 

 

創造力を育んでいるダンス遊び

2020/09/25

創造的にダンスを楽しむ子どもたちーー。保育園にいると、子どもたちの溢れ出る意欲の旺盛さを毎日、目の当たりにしています。登園からお迎えまでの間、どの子も自分のペースでやりたいことがいっぱいで、友達と関わり、いろいろなことをやるたびに発見があって、それを表現して伝え合います。汲めども汲めども枯れない泉のように、溢れ出る意欲が賑やかな生活をつくりだしています。

今日25日は、その意欲が体を通じた創造力を育む様子をたっぷりと確認することができました。今日はダンサーズ青木チームによる「ダンス遊び」の日でした。9時50分から12時まで、2歳、0〜1歳、3歳、4〜5歳という順番で4セクションに分かれてダンスのワークショップを楽しみました。3〜5歳にとっては昨年から数えて6回目、今年度は4回目のダンス体験になりました。

回を重ねて慣れてきたことから見えてくる「育ち」にも気づきます。スキップで走ってきて途中で「ポーズ」を決めたり、見られていることを意識して演じている姿が垣間見えたりと、そこにちょっとした心の余裕も感じさせるほどになりました。人気の活動になっている「マネキンとデザイナー」も、自分で両方ができるようになってきました。

このように「体を動かすこと」は、体育でも体操でもスポーツでもないことがはっきりします。自分なりに想像することが先にあって、そのイマジネーションが身体の動きを生み出しています。イメージから生み出される創造的な動きです。単に「ポーズをとっていいよ、好きなようにやってごらん」と言われて、大人だってすぐにできるものではありません。それが子どもたちは、自分なりのポーズを創り出しています。このような意図的な身体の動かし方は、「アート表現としての身体運動」だと言っていいんだろうと納得します。

思うように体を動かせることは、上手にスキップができることではありません。これがスキップだと思う自分なりのスキップで構わないのであって、それを楽しそうにやっている姿が、とても美しいのです。顔が輝いています。ちょっと恥ずかしそうだったり、自信たっぷりだったり・・・。想像力から動いていく運動です。イマジネーションが豊かになることが、体の動かし方も豊かになることに気づきます。

運動遊びとダンスの違ってなんだろう?

2020/09/11

世の中には子どもだからできないことと、子どもだからできることがあります。大人ができることを子どもができるようになるのではなく、大人ができないのに子どもができることを見つけるのは楽しく、同時に人間の奥深さに驚きます。

今日11日(金)は、ダンサーの青木さんたちが来てくださり、クラス別に体を動かして楽しみました。ちっちやぐんぐんの子どもたちは、これまで何度か会っているので警戒心も緩んでいたようで、ダンサーの面々と握手したり、抱っこされたりして触れ合いを楽しみました。

にこにこの子どもたちは、前回に続き動物の鳴き声からその動物になったつもりで四つん這いになったり、飛び跳ねたりと、元気に体を動かしていました。子どもは何かになったつもりになることが、こんなに好きで、やりたがります。これは大人にはできません。

わいわいの子どもたちは、青木さんが持ってきた人骨を見せてもらいながら、関節という動くところと、骨のところは棒のよいうに動かないという説明を受けて、自分たちの体の中には「骨が入っている」「体が動くのは骨が動いている」ということに興味深げでした。

3〜4歳で音楽に合わせて体を動かし、音楽が止まると体を止めておくというのは難しいことです。走って行って「ポーズ!」をとってみる。そのつもりになってやってみて「すごい!できたね」と言われてとてもうれしそうでした。なんでもやってみたい!という子どもたち。彼らの心臓は好奇心でできているようです。

らんらんとすいすいの子どもたちは、音楽のリズムや動く映像に合わせて、体を揺らしたり、動かしたりと、感じたイメージを身体で表現するという、まさにコンテンポラリーダンスができていました。きっとこれまでの積み重ねを通じて、瞬間的な反射的判断の中で、自分の体を「こんな風に動かしてみたらどうなるだろう」という、体を動かしてみることへの好奇心が、体に芽生えているのかもしれません。

運動ゾーンで朝、遊んでいる体の動かし方と、このダンスの違いはなんだろう。それは、きっとダンスという言葉では収まらないほど広い運動になっているのは間違いありません。それは頭の使い方の違いと言って良いかもしれません。健康よりも表現の方に比重を置いているのは間違いありません。

そしてダンスという限り、「見られる、見てもらう」ということが暗黙の前提になっている要素があるようです。その自意識が自由な表現の発露を邪魔をしないように、体を動かすことを楽しんでいきたいと思います。

 

 

再現遊びとしてのダンス

2020/08/24

今年の運動会は「コンテンポラリーダンス」のテイストを含んだ「親子運動遊びの会」になります。10月24日(土)の午前中に、和泉小学校体育館(昨年度と同じ)をお借りして、完全入れ替えの2部制で実施します。親子運動遊びにダンスを取り入れることになった経緯は8月8日付のこの「園長の日記」でご紹介しましたが、今日24日(月)は、青木尚哉さんを含むダンサー4人に来園していただき、2歳児にこにこ組、3歳わいわい組、45歳らんすい組に分かれて、体を動かして遊びました。三密を避けるために、それぞれ30分、40分、50分ずつ、2階と3階を使っての運動です。ずっと録画しながら見ていて、次のような感想を持ちました。

私たちは「ダンス」というと、音楽やリズムに合わせて、予め決まっている振り付けに合わせて体を動かすというイメージがあります。型があって、それを真似して身につけ、正確に再現できると「上手」となるようなダンスです。体がその振り付けやリズムに合わないとダンスが「下手」ということになってしまいます。これでは、それが「できる」子どもでないと楽しくありません。

青木さんのグループが目指しているダンスは、その真逆です。例えば、身体をマネキンのような素材として動かしてみるという「ポイントワーク」は、10 カウントの間に「10回だけ動かしてみる」型はあっても、その制限の中で、その子なりの自由な発想や想像力が引き出されていくような楽しさがあります。紙が丸められたり、くしゃくしゃになっていくのに合わせて、体を小さく縮めてみたり捻じらしてみたりするのです。先にイメージが動いて、そのあとで体が動き出すという順番です。そのイメージの想起力がこのダンスの決め手です。この心の動きは「再現遊び」と同じですから、ごっこ運動といってもいいかもしれません。

これを「お絵かき」に例えると、描く対象物にそっくりで写実的なら「上手」と評価されるような絵ではなく、それぞれの心に思い描かれた像(イメージ)を形と色で自由に表現してみるような絵です。その描きたいという意欲を大切にしながら、思い浮かべたイメージの通りに描きたいというモチベーションが結果的に表現スキルも高めていくようなアプローチです。

このように、保育の原理と同じだなと感じたのは、子どもの身体の動きは心の動きと連動しているが故に、まず子どもの意欲や動機に働きかけることから始まることです。動物の絵を見たり、録音された動物の鳴き声を聞いて、動物の動きを真似してみることが「ダンス」になっていきます。NHKの「おかあさんといっしょ」の「ブンバ・ボーン!」や「からだ☆ダンダン」などの「体操」と何が違うのでしょう。きっと、それは「振り付け」をみてただ真似するよりも、個々が思い浮かべる「イメージ」の想起が、動きの起点(スタート地点)になっていることです。つまり表象としてダンスなのです。再現欲求に働きかけるようなダンスと言っていいでしょう。

運動会では親子でこれを楽しみましょう。練習は全く不要。必要なのは柔らかい頭の方かもしれませんね。ところで今日は全国各地で2学期が始まりました。短い夏休みを惜しむように、今夜、東京でも花火が上がりました。

 

花のある生活の幸せ感に改めて気づく

2020/05/19

5月19日(火)。花のある生活の素晴らしさに気づきました。どうして、「こんなに素敵なものだ」ということを見過ごしてきたんだろう。その理由を探したくなるくらい、身近なところにあったはずの「花」が、幸せな感覚を運んできてくれまました。今日から始めた、親子フラワープロジェクトのことです。フランスのことわざだと記憶しているのですが、花屋に入る泥棒はいない、を思い出します。

「どっちにする?」とお父さんやお母さんが聞くと「こっち」と子どもが選んでいきます。子どもが選ぶことを、こんなにも尊重している、見守っているお父さんやお母さん。結果的にどんな風に選んでも、素敵な花束に仕上がっていきます。主役の花と脇役の花や葉があるからこそ、全体が調和していく美しさ。花が奏でるハーモニーです。しかもワンセットごとに違っていて、その無限に近い組み合わせは偶然のなせる技でありながら、一定の幅の中に収まっていきます。こんなに簡単に「造形」できる「作品」だと思うと、これはハマりそうです。

花を飾るということは、お茶碗や箸の持ち方と同じように、改めて大人も学ぶといい。しかも子どもの頃から。単純でありながら、楽しい組み合わせの基本形を。その型を知ると、そこから自分なりの好みや発展が楽しめそうですよ。花のある生活を楽しみたいですね。

花を愛でることは人間だけができる技(アート)です。わざわざ、アートという言葉を使うのは、人間性と結びついているからです。自然物でもある人間が自然物でもある花を愛でる。実は人間も花も、どっちも「半自然」なのですが、それが引き合っている姿に、長い歴史と深い心情を感じてしまうのです。この辺りは今回の活動に協力してくださった花屋さんにじっくりとお話を伺いたいと思います。ご協力、ありがとうございます。

年の瀬と「美」の極め方

2019/12/29

生活の中に「美」があるとすると、年の瀬はそれに拘りたいという意識が鮮明になる気がします。それはこうするもんだんだよ、という日本の「伝統的作法」を目撃することが増えます。日本ならではのカウントダウン、といってもいいのでしょうが、その時の刻み方の中に、なが〜い時間をかけて濾過したり、純化したりした技が覗きます。

それは例えば、食事がわかりやすいかもしれません。年の瀬になると、ふだんとは違って、色々な調理の仕方を再認識することが多くないでしょうか。帰省すると子どもの頃食べた味と再会できたり、味覚が幼少の記憶を蘇らせたり、思わずその味がエピソードを思い起こさせたりしますよね。美味しいものを食べたくなるとき、味のルーツを求めたがる自分がいます。

そんなことから、久しぶりに会った親戚と「せっかくだから」と今日は神田の老舗店で「なべ」を食べたのですが、そこには海の幸、山の幸がそれぞれ「どうぞ召し上がれ。どう、美味しいでしょ」と迫ってきました。長い間、多くの人がこの味を美味しいと賞賛してきたことを思うと、ちょっと大げさかもしれませんが、味を通じて、その世代を超えた江戸文化のコミュニティに参画している、といっていいのでしょう。伝統の味を体験するというのは、きっとそいういう時間軸を感じながら味わうことなのでしょう。帰省されているみなさんも、故郷の味に、懐かしさの時間を感じていらっしゃるのではないでしょうか。

もう一つ、美味しさには「産地」「仕入れ」のこだわりもあります。日本の食文化を「持続可能な社会」にするためにも、そのこだわりの価値を共有することが大事だと思います。特に海外の人にも説明できることが間違いなく必要な時代になります。どうやったらこんな味になるのか、そこは老舗ならではの秘伝の技が隠されているわけですが、その要素の主役は、やはり「ネタ」でしょう。それを美味しいと感じるように、作りあげてきた伝統の作法は、無条件に受け入れ賞味したいと思えます。

日本食は餅をついたり、魚を焼いたり、根菜を煮たり、茶碗ごと蒸したりしますが、そうした調理方法と食具を編み出して、味を極めようとする営みは、人間だけが持つ好奇心のなせる技です。大人が「美味しい」と食べるとき、その側に子どもがいること。子どもは、風景としてそれをよく覚えているものです。それが食卓を家族で囲むことの大切な意味の一つです。

お祭りの起源、そして子どもの「ハレとケ」

2019/12/18

「お祭りなんだから、さあさあ、呑んで呑んで!」

(17日の科学博物館で)

今年5月の神田祭の神輿神霊入れの座で、石渡さんにお神酒を勧められたことを思い出しました、「せっかくだから奥の席に座って」と。それは有り難いお誘いでありながら、こんな時間から飲むわけもいかないので、その旨を言い訳にすると「お祭りなんだから、無礼講でいいんだから」とその方はおっしゃいます。

嬉しいやら困ったらやらで、曖昧で煮え切らない、いかにも無粋な様子だったのでしょう、そばから「園長先生はまだこれから仕事なんだから、無理にすすめちゃダメだって」と救いの手を出してくださったのが、ちよだリバーサイドプロジェクトの岡田さんでした。まだ夕方の4時過ぎだったので無礼を詫びて園に戻ったのです。

忘年会やら懇親会やらの時期になりました。会社勤めの私たちには、こちらの方が「祭り」の気分を味わう機会かもしれません。ちょっとだけ「無礼講」の要素がありますよね。ちょっと寄り道します。

社会科学の学問によると、お祭りは定住社会になってから生まれました。その社会が生み出した言葉と法の中で毎日を過ごしていると、それは本来的に不自然なものなので、徐々に生命力が枯渇していきます。日本では「気=生命力」が枯れるという意味から「ケガレ」ることとみなされます。

そこで、日常世界の外側、人的社会の外側への接点を求めて、そこから生命力を呼び込んで回復しようとします。そこに聖なるもの、大いなる異質なるもの(自然や神や被差別社会)を呼び込み、穢れを晴す「ハレ」なる祭りを企てるのです。その時は、平時のルールは破られるので無礼講というわけです。「お酒の席ですからお許しを」というのも、似たような起源でしょう。

1960年生まれの私などは、その掟を破ってもいいという感覚、お祭りのキワドサの消息を皮膚感覚で知っています。私の小6の担任の先生は「おくんち」というお祭りに連れて行ってくれたのですが、その時、先生らしからぬ、普段は見せないある行動をしました。それはここでは言えませんが、私は小学生ながら「お祭りだと、それくらいは許されるんだ」ということを学びました。

ハレとケの世界を行き来することは、とても危険なことだったので、そこには心を鎮めるための儀式を必要としました。それが神輿だったり、お囃子だったりするのです。こんな経緯を抱えているのが、文化的歴史の中で生きている私たちの「心」なのです。

さて、寄り道から戻ると、本来子どもは、自然そのものです。異質な存在です。養老孟司さんに言わせると「子どもは自然だってことを、大人は忘れている。自然はいいなりにならないものと心得たほうがいい。デコボコの山道で転んで山に文句を言う人はいないでしょ。都市の平らなアスファルトの道を歩くことと同じように、子どもの安心、安全にばかり気を使い、言うことを聞く子にしたがっている」ということになります。

私には子どもは、赤ちゃんの頃から危険を回避する力を持っていて、大人をハレに導く力さえ持っているような気がします。大人が子どもの危険回避能力を奪っているのではないでしょうか。

昨日17日は、わいわい、らんらんの子どもたちが上野の科学博物館にバス遠足に行っています。その様子は「クラスブログ」で紹介されています。私は行けなったのですが、自然の存在である子どもが博物館で何に共振するのかということに興味があります。その私なりの「目撃」は次回に持ち越しです。

私は保育園を子どもたちのための「遊びのミュージアム」にしたいと思っています。子どもたちが、科博で何に着目しているのか、どんな印象を持ったのか、知りたいところです。子どもたちにとっても「ハレ」を感じる何かがあるんじゃないかと。

 

「天気の子」をめぐる10代の心情

2019/08/12

ニュースで台風10号の進路を気にしながら、園の防災計画を確認しました。「豪雨や強風で送迎が危険と予想できるときは行政と連携して、送迎時刻の変更などの措置をとる」。今週水曜、木曜あたりは要注意ですね。天気になってほしいですね。
◆子どもにとっての切実さ
台風10号とは関係ないのですが、ちょうどテレビに映画『天気の子』の新海誠監督が出ていました。ぼんやりと、テレビを見ながら朝ごはんを食べていたら、語っている内容の重さにもかかわらず、平易に語るので、ちゃんと見てしまいました。
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「大人の目からみたら些細なことも、10代の子どもにとっては切実だった」
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・・・みたいなことを言っています。テレビのボリュームを上げます。そう言えば、昨日の同窓会でも20歳になったSY君が同じようなことを言っていました。大人は子どもに「正しいことと大事なこと」ばかりさせようとして、子どもにとっての「日常のリアル」を想像できなくなっているのが、私も含めて大人であると。
◆新海誠自身の体験からの視線
団塊ジュニア世代の新海世代が15歳だったころ「いちご世代」と呼ばれていて、私は彼らの文化を追ったルポルタージュを手掛けたことがあります。この世代は雑誌『ムー』創刊時の読者層でもあり、当時、他の世代と比べて神秘現象に高い関心を示していたことを思い出しました。彼は今9歳の子ども(子役の新津ちせ)がいるお父さん。彼が手掛ける表現の新しさが話題になっているので、観てきました。
◆10代に共感を呼ぶところ
映画の主題歌を歌うロックバンドのRADWIMPS(ラッドウィンプス)の歌詞もまた10代に届いています。
再生回数1700万回を超える主題歌「愛にできることはまだあるかい」にでてくる「荒野」という言葉に注目したい。
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「愛の歌も歌われ尽くした/
数多の映画で語られ尽くした/
そんな荒野に生まれ落ちた僕、君」
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と「失われた世代」でもある彼らの閉塞感を漂わせる心情。
「それでも/愛にできることはまだあるよ/僕にできることはまだあるよ」
と歌う。映画もここでグッときました。
◆10代が大河ドラマを見ない理由
「やり尽くされたあとで、まだやることがあるだろうか?」まだやったことのない時代なら、目指す目標は見つけやすかっただろう。大河ドラマが描く東京オリンピックも、朝ドラが描く北海道十勝の酪農やアニメも、その時代なら、まだ誰も踏み入れたことのない未知の大地が広がっていた。しかし現代は違う。何をやっても、きっと過去になされてしまっているだろうという「想像できる既視感」を感じる時代だからでしょうか。それでも「やれること」は愛であり、愛する者への祈りでした。新しく感じるのは自然現象のパワーと一体化している美しさです。
◆細部に潜む自然の美の描き方
長野育ちの新海監督は少年時代に朝暗いうちから凍った湖面でスケートをしていたそうで、日が昇ってくると、山の端から陽が差してきて、真っ暗で青かった湖面がだんだんと縁の方から銀色に輝き始めるのをみるのが好きだったらしい。この監督の映像が美しいのは、そんな感性があるからなのでしょう。

シンカリオンを見てみる

2019/08/07

「子どもが興味や関心を持っているものは、大人も見たり体験してみよう」。私は保育士養成校で学生によくこう言っていました。「子どもがなぜ、それが好きなのか、どういう感じでそれを楽しんでいるのか、実際に感じてみよう!」と。
そこで今朝、シンカリオンを見てみました。一部の男子に人気のテレビ番組です。新幹線がロボットに変形して大怪獣と戦うのです。いまや日本アニメの代表として世界的に有名な「マジンガーZ」と同じタイプの操縦ロボものです。「E5はやぶさ」「E6こまち」「E7かがやき」「E3つばさ」「N700Aのぞみ」など、実際の新幹線の名前がついたロボットを、小学4年生から中学1年生の男女が操縦します。
今朝は「ブラックシンカリオン」が味方のピンチを救うストーリーでした。「ブラック新幹線なんて実際にはないけど・・・?」と思って番組サイトを検索したら、「10年前突如現われた正体不明の謎の新幹線」でした。うまくできてる!
ブラックシンカリオンが、大きな怪獣を押さえている間に、他のシンカリオンがでかい手裏剣のようなものを振り回してやっつけた!と思ったら、「さっきのは影武者だ」とかなんとか言って、また戦うことを約束して次回に続く・・。また次を見たくなるようなところで終るあたり、まぁ、そこも昔と同じでした。
◆男子が好きなツボを押さえた作り
男子が好きな要素を上手に取り込んでいます。変身、鉄道、怪獣、収集、小学生、忍者、戦い。本当の新幹線の系統番号などと同じで、走っている場所の都道府県が出身地になっていたり、女子のキャラクターも配置していたり、あまり過激な表現もないなど、親を敵に回さないための配慮が明瞭です。スポンサーはプラレールやトミカの(株)タカラトミーです。
◆テレビは表層イメージを共有しやすいのが強み
ごっこ遊びは「再現遊び」なのですが、登場するキャラクターを共有していれば、その名前を言うだけで相手にも伝わります。シンカリオンはそれぞれが得意技を持っていて、それを繰り出して戦うときに「フミキリシュリケン!」とか「ビームライフル!」とか、口癖の「ぶちおもしれえ」とか言って遊べるわけです。
運動ゾーンのネット遊びの中で飛び交っていた「言葉」の世界は、きっと、そんな感じだったのでしょう。テレビ映像を思い浮かべて少し想像できます。

◆子どもは手と足で感じて考える

昨日はこの「園長の日記」で、「週1回ぐらいのテレビの影響に負けたくない!」という趣旨を書きましたが、実はこの番組は毎日やっていました。火曜~金曜 の朝7:00~8:00に、2話ずつ放送しています。毎日見られるのです。これは、ちょっと「手強い相手」かもしれませんね。

でも大丈夫です。子どもは身体ぜんぶが感覚です。あくまでも例えですが「子どもは頭と手足で一緒に考える生き物」です。テレビは所詮テレビです。リアルに五感が揺さぶられるような遊びの魅力には、到底及ばないのです。

テレビ番組のシンカリオンよ、千代田せいがは「センス・オブ・ワンダー」な体験で、「しょーぶだぁ!」。

(カブトムシを幼虫の頃から育て、孵化するときも観察し、ジェリーの餌を与えて、飛ぼうとするとき羽を広げるところをみたり、カブトムシを持てるようになったり、こうやって、それを見せてくれたりしています。でも、先日、飼っている虫かごに、カブトムシは湿り気がある方がいいという話を勘違いして、ドボドボと水を入れてしまい、溺れて死んでいましました。そんな痛恨の失敗が起きるのも、実体験の詰まった生活です)

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